第八話 面談
矢吹常務との面談日程が確定したのは、週の半ばの午後だった。
秘書室から届いた予定表の更新通知を見た瞬間、澪は一度だけ画面から目を逸らした。三十分。場所は役員フロアの小会議室。案件総括のためのヒアリング。文面は簡潔で、余計なものは何もない。
それでも、通知を開いた指先が少しだけ冷える。
業務だ。
ただの業務連絡だと、澪は心の中で言い聞かせた。
そう思わなければならないこと自体が、まだ整理できていない証拠だった。
「日程、入った?」
向かいの席から高橋が声をかけてきた。澪は画面を閉じずに頷く。
「来週火曜の午後です」
「そう」
「案件総括のヒアリング、三十分です」
「妥当だね」
「……はい」
高橋はそれ以上何も言わなかった。言わないまま、手元の資料に視線を戻す。澪はその横顔を見て、少しだけ助かった気持ちになった。変に気を遣われるより、こうして業務として扱われる方がまだ楽だ。
楽なはずなのに、胸の奥は落ち着かない。
矢吹常務に会う。
あの夜以来、まともに向き合うのは初めてだった。
いや、向き合うという言い方自体が違うのかもしれない。向こうにとっては、今回の面談も案件処理の一部でしかない。危機管理室の担当者から所見を聞く。それだけだ。
それだけのはずなのに、澪の中ではどうしても「それだけ」にならない。
あのときの自分を思い出す。
衝動的で、浅はかで、どうかしていたとしか言いようのない行動。
思い返すたびに、顔から火が出そうになる。
それでも完全に否定しきれないのは、あの瞬間にあった熱まで嘘にはできないからだ。
恋だったのかと問われれば、今はもう分からない。
でも、何もなかったわけではない。
その曖昧さが、一番厄介だった。
面談までの数日、澪は意識的に仕事量を増やした。増やしたというより、手を止めないようにした。確認フォームの項目調整、関係部署向け説明文の最終化、AI要約運用条件の再確認。やることはいくらでもある。考えないためにはちょうどよかった。
総務部とのやり取りも続いていた。相沢からは必要なコメントだけが飛んでくる。短く、正確で、余計なものがない。澪も同じ温度で返すように努めた。
努めている時点で、自然ではない。
火曜の午後、役員フロアへ向かうエレベーターの中で、澪は自分の手元を見下ろした。タブレット、メモ、案件概要の簡易版。準備に不足はない。質問されそうな論点も頭に入れてある。
問題があるとすれば、自分の方だ。
役員フロアはいつ来ても空気が違う。静かで、温度が一定で、足音まで吸い込まれていくような廊下。秘書室の前を通ると、担当秘書が立ち上がって会釈した。
「篠宮さん、どうぞ。矢吹常務がお待ちしてます」
その一言だけで、喉が少し乾く。
案内された小会議室のドアをノックすると、内側から落ち着いた声が返った。
「どうぞ」
澪は一度だけ呼吸を整えてから、ドアを開けた。
「失礼します」
「来てくれてありがとう。座って」
矢吹常務は窓際の席に座っていた。ジャケットの下はノーネクタイのシャツで、それでも隙のない整い方だった。机の上には資料が数枚と、タブレット、それから水の入ったグラス。いつも通りの、落ち着いた空気がそこにあった。
澪は向かいに座り、タブレットを膝の上に置いた。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ。今回の件、危機管理室にはかなり負担をかけた」
「いえ、必要な対応でしたので」
「必要な対応を、必要な精度でやるのは簡単じゃない」
穏やかな声だった。
責めるでもなく、試すでもなく、ただ事実を確認するような口調。
それだけで少しだけ救われる自分がいて、澪は内心で苦くなる。
「まずは案件全体の所見を聞かせてほしい」
面談は、拍子抜けするほど普通に始まった。
初動対応の遅れ。
AI要約の運用条件が曖昧だったこと。
確認責任と実施責任の線引きが不十分だったこと。
再発防止メモと確認フォームを分けた理由。
今後、現場にどう定着させるか。
矢吹の質問は的確で、無駄がなかった。澪もそれに答える。話しているうちに、少しずつ呼吸が整っていく。仕事の話をしている間だけは、自分が自分に戻れる気がした。
「確認フォームの設計は、現場の負荷との兼ね合いが難しかっただろう」
矢吹が資料に目を落としたまま言う。
「はい。回答項目を増やせば証跡としては強くなりますが、運用が重くなると形骸化します」
「その線引きは誰が」
「危機管理室でたたき台を作って、総務部と擦り合わせました」
「相沢くんと?」
「……はい」
名前を出された瞬間、澪の返答がほんのわずかに遅れた。
自分でも分かるくらいに。
矢吹はそれを指摘しなかった。ただ、資料を閉じて澪を見る。
「彼とは、うまくやれている?」
あまりにも自然な聞き方だったので、澪は一瞬、質問の意味を取り損ねた。
「業務上は、問題ありません」
「業務上は」
「……総務部との連携は円滑です」
「そうか」
それ以上追及されることはなかった。
けれど、その短いやり取りだけで、澪の中に小さな波が立つ。
業務上は問題ない。
それは本当だ。
本当なのに、その言い方をした瞬間、自分で自分に言い訳しているような気がした。
矢吹はグラスに手を伸ばし、一口だけ水を飲んだ。
「今回の件で、君の報告は一貫していた」
「ありがとうございます」
「評価している」
「……はい」
「ただ」
澪は無意識に背筋を伸ばした。
「君は少し、自分の責任を広く取りすぎる傾向がある」
予想していなかった言葉だった。
「広く、ですか」
「自分が見えている範囲の不備を、全部自分の課題として引き受けようとする」
「それは、危機管理室として必要な姿勢では」
「必要だ。だが、必要以上に背負うこととは違う」
矢吹の声は静かだった。
静かだからこそ、逃げ場がない。
「今回も、君は“自分がもっと早く気づけていれば”と思っているだろう」
「……」
「違うか」
「……思っていないとは言えません」
「だろうな」
責められているわけではない。
むしろ逆だ。見抜かれているのだと、澪は思った。
そのことが、少しだけ苦しい。
「気づける人間が、全部を背負う必要はない」
「はい」
「君一人が優秀であることと、組織が機能することは別だ」
「分かっています」
「本当に?」
「……分かっているつもりです」
矢吹はそこで初めて、少しだけ表情を和らげた。
「つもり、で十分だ。最初から完璧に分かる必要はない」
「常務」
「何だ」
呼びかけてから、澪は続く言葉を失った。
何を言いたかったのか、自分でも分からない。
ありがとうございます、では足りない気がした。すみません、でも違う。あの夜のことを謝るべきなのかとも一瞬思ったが、それをここで持ち出すのはもっと違う。
沈黙が落ちる。
矢吹は急かさなかった。
「……いえ」
結局、澪はそれだけしか言えなかった。
「そうか」
それもまた、責める響きではなかった。
面談はその後、今後の運用定着策と、関係部署への説明順序の確認に戻った。最後まで矢吹は一度も、あの夜のことに触れなかった。触れないこと自体が配慮なのだと分かるからこそ、澪は余計に落ち着かなかった。
面談が終わり、席を立つ。
「本日はありがとうございました」
「こちらこそ。篠宮さん」
「はい」
「今回の件、よくやった」
その一言は、役職者としての評価でしかない。
そう分かっているのに、胸の奥に静かに落ちてくる。
「……ありがとうございます」
会議室を出て、ドアが閉まった瞬間、澪は小さく息を吐いた。張っていたものが一気に緩む。廊下の空気は冷たく、静かで、さっきまでの会話だけがやけに鮮明に残っていた。
恋ではなかったのかもしれない。
でも、何もなかったわけでもない。
認められたかったのだと思う。
見てほしかったのだと思う。
自分の仕事も、自分自身も、軽く扱わない誰かに。
その相手が矢吹常務だったことに、嘘はない。
けれど、それだけでは足りないのだと、今日の面談で少しだけ分かってしまった。
エレベーターで自フロアに戻ると、いつものざわめきが耳に戻ってきた。役員フロアの静けさとは違う、人のいる場所の音だ。澪は自席に戻り、タブレットを置く。
ちょうどそのとき、チャット通知が上がった。
相沢からだった。
確認フォームの最終版、法務コメント反映済みを確認しました。総務部側の周知文案も更新しています。時間あるときに見てください。
短い。
いつも通りの、業務連絡。
澪は画面を見つめたまま、少しだけ目を閉じた。
矢吹常務に認められたかった。
それは本当だ。
でも、こうして相沢から届く短い文面にまで呼吸を乱される理由を、もう勘違いだけでは片づけられない気がした。
返信欄を開く。
確認します。ありがとうございます。
それだけ打って送る。
送ってから、澪は自分の指先を見た。
熱はもう、ひとつではなかった。




