第九話 余熱
矢吹常務との面談から二日が過ぎても、澪の中にはまだ静かな熱が残っていた。
燃え上がるようなものではない。
むしろ逆だ。表面はもう落ち着いているのに、触れるとまだ熱い場所がどこかに残っている。そんな感じだった。
面談そのものは穏やかに終わった。仕事の話をして、評価を受けて、今後の運用について確認した。それだけだ。何も起きていない。何も起こされなかった。
だからこそ、余計に残る。
あの夜のことに触れられなかったこと。
触れられないまま、きちんと見られたこと。
そして、自分がそれに救われてしまったこと。
澪は朝から、確認フォームの最終反映版を見直していた。法務コメントの再整理、説明会用スライドの文言調整、関係部署向けの周知メール案。画面の中の文字を追っている間は、余計なことを考えずに済む。
済むはずなのに、ふとした拍子に面談の声がよみがえる。
君は少し、自分の責任を広く取りすぎる傾向がある。
あの言葉は、思っていた以上に深く残っていた。
図星だったからだ。
澪は昔から、見えてしまったものを放っておくのが苦手だった。気づいたなら自分がやるべきだと思ってしまう。誰かが拾わなければ落ちる仕事なら、自分が拾うしかないと考える。その積み重ねで今の自分があることも分かっている。
けれど、それが正しさだけでできているわけではないことも、最近は少し分かってきた。
拾える自分でいたい。
任せられる自分でいたい。
必要とされる側でいたい。
そういう欲が、たぶんある。
「篠宮さん」
高橋に呼ばれ、澪は顔を上げた。
「はい」
「午後の説明会、総務部からも一人入るって」
「三浦さんですか」
「いや、相沢さん」
「……そうですか」
「何、その間」
「別に」
「別に、ではないだろうけど」
高橋はそこで言葉を切り、手元の資料を澪の方へ滑らせた。
「この順番、少し変えよう。最初に“なぜフォーム化したか”を置いた方が伝わる」
「分かりました」
「現場は手間が増える話に敏感だから」
「はい」
「先に必要性を飲ませた方がいい」
「……飲ませるって言い方、ひどくないですか」
「本音だからね」
少しだけ笑ってしまって、澪は助かった気持ちになる。高橋はこういうとき、ぎりぎりのところで空気を緩めるのがうまい。
午後の説明会は、関係部署の担当者を集めた小規模なものだった。会議室には十人ほど。総務部、危機管理室、法務、それから実際にフォームを使うことになる現場部門の担当者たち。
澪は前に立ち、資料を投影する。
「本日は、再発防止メモに付随する確認フォームの運用開始前説明を行います」
声は安定していた。
少なくとも自分ではそう思えた。
フォームの目的。
読了確認ではなく、担当範囲と確認項目を回答として残す理由。
確認責任と実施責任を分けて記録する意味。
例外発生時のエスカレーション先。
回答負荷を抑えるために自由記述を最小限にしたこと。
説明しているうちに、会議室の空気が少しずつこちらに寄ってくるのが分かる。納得していない顔、面倒そうな顔、意外と合理的だと感じ始めた顔。そういう変化を見るのは嫌いではない。
「質問、よろしいですか」
現場部門の一人が手を挙げた。
「確認責任者と実施責任者が同一の場合は、両方回答する形ですか」
「はい。ただし重複入力を避けるため、同一の場合は一部項目を自動で補完する想定です」
「補完条件は固定ですか」
「現時点では固定です。運用開始後に例外が多ければ見直します」
別の手が挙がる。
「回答を残すこと自体が目的化しませんか」
「その懸念はあります」
澪は頷いた。
「なので、今回のフォームは“読んだ証拠”ではなく、“何を自分の担当として認識したか”を残す設計にしています。回答率だけを評価指標にしないことも前提です」
そこで、後方から相沢が口を開いた。
「補足します」
会議室の視線がそちらへ向く。
「総務部としても、このフォームを提出物として増やしたいわけではありません。責任の所在が曖昧なまま運用されることを防ぐための最低限の記録です。負荷が高すぎれば回らないので、運用開始後一か月は実態を見て調整します」
短い補足だった。
けれど、現場の空気が少し変わる。
相沢の言葉は、必要なときだけ重い。
それを知っている人間には、ちゃんと効く。
説明会は大きな混乱もなく終わった。参加者が順に退室し、資料を片づける頃には、澪の肩からも少し力が抜けていた。
「お疲れさまでした」
三浦が先に声をかけてくる。
「説明、分かりやすかったです」
「ありがとうございます」
「現場も思ったより納得してましたね」
「相沢さんの補足が効いたんだと思います」
「それもありますけど、最初の組み立てがよかったです」
三浦はそう言ってから、相沢の方をちらりと見た。
「じゃあ、私は先に戻ります」
その視線の意味を考える前に、三浦はもう会議室を出ていってしまった。
残ったのは、澪と相沢だけだった。
まただ、と思う。
最近こういうことが多い気がするのは、気のせいだろうか。
澪は資料をまとめるふりをしながら、できるだけ平静な声を作った。
「さっきの補足、ありがとうございました」
「必要だったので」
「助かりました」
「それならよかったです」
会話はそこで終わってもおかしくなかった。
なのに相沢は、手元の資料を閉じたあと、すぐには立ち上がらなかった。
「矢吹常務との面談、終わったようだな」
澪の指先が止まる。
「……高橋さんから聞きましたか」
「日程が入っていた」
「そうですか」
「どうだった」
どうだった。
短い一言なのに、逃げ場がない。
澪は資料の角を揃えながら、視線を落としたまま答える。
「普通でした」
「普通か」
「案件の総括ですから」
「そうか」
相沢の声は平坦だった。
平坦なのに、その先を待っている気配がある。
「評価は、されました」
「そうか」
「……はい」
「それで」
「それで、何ですか」
「少しは楽になったか」
一瞬、意味が分からなかった。
「何がですか」
「責任の取り方だ」
矢吹に言われたことと、ほとんど同じ方向の言葉だった。
澪は思わず相沢を見る。
相沢はいつも通りの顔をしている。
何も知らないようにも見えるし、何かを見ていたようにも見える。
「……別に」
「別に、ではないだろう」
「相沢さんまでそういう言い方するんですね」
「高橋さんも言ったのか」
「言いましたよ。たぶん、同じようなこと」
「そうか」
「何なんですか」
「何が」
「二人して、分かったようなこと言って」
「観察していれば分かる」
「そういうところです」
言ってから、しまったと思った。
説明会の直後、会議室で、こんな言い方をする必要はない。
けれど相沢は眉一つ動かさなかった。
「そういうところ、とは」
「人のこと、勝手に見透かしたみたいに言うところです」
「見透かしているつもりはない」
「じゃあ何ですか」
「見えていることを言っているだけだ」
その言葉に、澪は息を詰めた。
見えていること。
矢吹にも、高橋にも、そして相沢にも。
自分が抱え込みすぎることも。
平気な顔をしていることも。
平気ではないことも。
「……嫌です」
気づけば、そんな言葉がこぼれていた。
相沢がわずかに目を細める。
「何が」
「そうやって、分かってるみたいに言われるの」
「でも実際、無理しているだろ」
「してません」
「してる」
「してません」
低い声が、澪の言葉を静かに止めた。
「面談のあとから、返事が一段階硬い」
「……」
「説明会の資料も、必要以上に詰めていた」
「それは仕事です」
「仕事にしては、余白がなさすぎる」
澪は何も言えなかった。
図星だったからではない。
図星を、相沢に言い当てられたことが苦しかった。
「心配しているわけではない」
相沢が言う。
「ただ、その状態で回し続けると、どこかで判断を誤る」
「それは」
「困る」
最後の一言が、妙に冷たく聞こえた。
困る。
業務上、ということだ。
自分が壊れると仕事に差し支えるから、と言われたような気がして、胸の奥がひりつく。
「……そうですか」
「そうだ」
「仕事のために言ってるんですね」
「そうだ」
「……」
「今日はここまでにした方がいい」
澪は顔を上げた。
「……命令ですか」
「助言だ」
「元上司の」
「そうだ」
あまりにも迷いのない返答で、澪は思わず息を吐いた。
腹が立つのに、少しだけ救われる。
「ずるいです」
「何が」
「そうやって、全部仕事の形にするところ」
「仕事中だからな」
「そういうところです」
さっきと同じ言葉なのに、今度は少しだけ響きが違った。
相沢はわずかに視線を上げたが、何も言わなかった。
否定もしないし、認めもしない。
ただ、その沈黙だけが妙に長く残る。
「……資料、片づけます」
「頼む」
「手伝ってください」
「分かった」
その返事があまりにも普通で、澪は今度こそ少しだけ笑った。
会議室を出るまで、二人はそれ以上何も言わなかった。資料をまとめ、端末を閉じ、照明を落とす。いつも通りにできることを、いつも通りにやる。
けれど、もう何も変わっていないふりはできなかった。
廊下に出ると、夕方の社内は少しだけ騒がしかった。どこかの部署で電話が鳴り、遠くで誰かが笑っている。日常の音が、さっきまでの会議室だけを切り離していくようだった。
「では」
相沢が先に言う。
「お疲れさまでした」
「……お疲れさまです」
それだけで別れる。
追いかけることも、引き止めることもない。
なのに澪の胸の内側では、さっきのやり取りだけが何度も反響していた。
観察していれば分かる。
あれはただの指摘だったのか。
元上司としての助言だったのか。
それとも、もっと別の何かが、ぎりぎり仕事の言葉に押し込められていたのか。
答えは出ない。
出ないまま、それでも熱だけは残っている。
矢吹との面談のあとに残った静かな余熱は、まだ消えていなかった。
ただ、その熱の行き先が、もうひとつではなくなっていることだけは、澪にも分かり始めていた。




