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第十話 保留

 説明会の翌日から、相沢は何事もなかったように振る舞った。


 いや、正確には、何事も起こしていない側の振る舞いだった。


 確認フォームの運用開始に向けた最終調整は予定通り進んでいた。総務部からの修正コメント、法務の追記、現場部門から上がってきた細かな質問の整理。やるべきことは多く、澪もそれに追われていた。


 相沢から届く連絡は、これまでと変わらず簡潔だった。


 補完条件の分岐、法務コメント反映版で問題ない。

 周知文案、二段落目だけ表現を調整してほしい。

 説明会で出た質問は一覧化して共有する。


 短い。

 必要十分で、それ以上がない。


 会議室で交わしたやり取りなど、最初から存在しなかったみたいだった。


 それなのに、澪の方だけが勝手に引っかかっている。


 観察していれば分かる。

 見えていることを言っているだけだ。

 今日はここまでにした方がいい。


 どれも業務の言葉だ。

 業務の言葉でしかない。

 なのに、あの場の空気ごと記憶に残ってしまっている。


 澪は自席で画面を見つめながら、小さく息を吐いた。


「篠宮さん」


 高橋に呼ばれ、反射的に背筋を伸ばす。


「はい」

「その一覧、総務部に返す前に一回見せて」

「質問一覧ですか」

「うん。現場の温度が出るから」

「分かりました」

「あと」

「はい」

「寝不足?」

「……違います」

「そう」

「違います」

「二回言うんだ」


 高橋はそこでそれ以上追及しなかった。

 しないまま、手元の資料に視線を戻す。


 助かる、と思う反面、見逃されていないことも分かる。

 最近、自分は少し分かりやすすぎるのかもしれない。


 昼前、総務部から質問一覧の整理版が届いた。送信者は三浦で、本文は簡潔だったが、末尾にだけ一文ついていた。


 相沢さん確認済みです。必要なら追加で整理します。


 その一文だけで、澪の視線が止まる。


 確認済み。

 それだけだ。

 それだけなのに、無意識に本文をもう一度読み返してしまう。


 自分でも嫌になる。


 一覧自体はよくまとまっていた。質問の分類、優先度、回答要否の切り分けも適切で、ほとんどそのまま使える。澪は数か所だけ表現を整え、危機管理室側の補足を追記して返送した。


 数分後、チャットが鳴る。


 修正版、確認した。これで問題ない。


 相沢からだった。


 たった一文。

 いつも通りの、何の揺れもない文面。


 澪は返信欄を開いて、閉じた。

 開いて、また閉じる。


 これで問題ない。

 それだけの連絡に、何を返す必要があるのか。

 必要はない。

 ないのに、何か返さないと不自然な気がしてしまう自分がいる。


 結局、


 確認ありがとうございます。


 とだけ打って送った。


 送信後、画面に残る短いやり取りを見て、澪はますます落ち着かなくなる。

 何も起きていない。

 何も起きていないのに、自分だけが勝手に反応している。


 午後、運用開始前の最終確認のため、危機管理室と総務部で短い打ち合わせが入った。参加者は高橋、澪、三浦、相沢の四人。会議室に入った瞬間、澪は自分でも分かるくらい意識してしまった。


 相沢はいつも通りだった。

 資料を開き、必要な箇所だけ確認し、必要なことだけ話す。


「自由記述欄、現時点ではこの長さで十分だ」

「例外申請の導線は、別紙よりフォーム内注記の方がいいと思う」

「周知文案は、現場向けと管理職向けで件名を分けよう」


 声も、表情も、視線も、何一つ変わらない。


 変わっていないのが、逆につらい。


「篠宮さん、この部分どう思う?」


 高橋に振られ、澪は一拍遅れて顔を上げた。


「……はい。管理職向けの件名を分けるのは賛成です。現場向けは運用負荷の軽減を先に出した方が反発が少ないと思います」

「うん、同意」

「では、その方向で文案を分ける」


 相沢がそう言って、メモを取る。

 それだけのことなのに、澪は妙に息苦しくなった。


 打ち合わせは三十分ほどで終わった。高橋は次の予定があると言って先に出ていき、三浦も電話対応で席を外す。残されたのは、またしても澪と相沢だった。


 偶然だ。

 偶然に決まっている。


 そう思うのに、最近この偶然が多すぎる気がする。


 澪は資料を閉じながら、できるだけ事務的な声を出した。


「今日の件、文案修正したら共有します」

「頼む」

「……昨日の一覧も、ありがとうございました」

「業務だからな」

「そうですね」


 それで終わるはずだった。


 けれど、相沢は席を立つ前に一度だけ澪を見た。


「まだ引きずっているように見える」


 澪の手が止まる。


「何をですか」

「面談だ」

「……別に」

「別に、ではないだろう」


 昨日と同じ言い方だった。

 同じなのに、今日は逃げ場がない。


「そんなに分かりやすいですか」

「分かりやすい」

「観察してるからですか」

「そうだ」


 あまりにも即答で、澪は言葉を失った。


「否定しないんですね」

「する必要がない」

「……そうですか」

「そうだ」


 短い応酬だった。

 短いのに、妙に熱を持つ。


 澪は視線を落とした。


「引きずっていたら、駄目ですか」

「駄目とは言っていない」

「でも、困るんですよね」

「程度による」

「業務に支障が出るなら、ですか」

「それもある」

「“も”」

「篠宮」


 低い声だった。

 名前を呼ばれたわけではない。ただ、止めるための声だった。


「今、答えを急いでも意味はない」

「……何の答えですか」

「自分が何に引っかかっているのか、だ」


 澪は顔を上げた。


 相沢は相変わらず、感情を読ませない顔をしている。

 なのに、言葉だけが妙に近い。


「矢吹常務のことなのか」

「……」

「面談で言われたことなのか」

「……」

「それとも、別のことなのか」


 最後の一言だけが、静かに落ちた。


 澪は何も言えなかった。

 言えないまま、自分の指先を見つめる。


 別のこと。

 その言葉に反応した時点で、もう答えは半分出ている気がした。


「保留にしてください」


 気づけば、そう言っていた。


 相沢がわずかに眉を動かす。


「何を」

「今の話です」

「……」

「考えたくないわけじゃないです。でも、今ここで整理できる気がしません」

「そうか」

「だから、保留にしてください」


 自分でも勝手なことを言っていると思う。

 聞いたのは自分ではないのに、踏み込まれたくなくて、でも完全に引かれるのも嫌で、都合のいい言葉だけ差し出している。


 相沢は少しだけ黙ったあと、短く息を吐いた。


「分かった」


 それだけだった。

 責めるでもなく、問い返すでもなく、ただ受け取る声。


 澪はそのことに、少しだけ救われてしまう。


「ただし」


 続いた言葉に、澪は顔を上げた。


「保留にするなら、その間に無理はするな」

「……それ、業務命令ですか」

「助言だ」

「また」

「元上司からのな」


 その返しがあまりにも変わらなくて、澪は思わず笑いそうになった。

 笑うべき場面ではないのに、少しだけ肩の力が抜ける。


「分かりました」

「本当に」

「努力します」

「努力では足りない」

「善処します」

「変わっていない」

「じゃあ、検討します」

「もっと駄目だ」


 そこまで言ってから、澪はとうとう小さく笑った。

 相沢は表情を変えなかったが、止めもしなかった。


 会議室の空気が、ほんの少しだけ緩む。


「文案、夕方までに送ります」

「頼む」

「保留の件は」

「こちらからは触れない」

「……ありがとうございます」


 相沢は頷き、今度こそ席を立った。


「お疲れさまです」

「お疲れさまです」


 ドアが閉まる。

 一人になった会議室で、澪はしばらく動けなかった。


 保留。

 自分で言ったくせに、ずいぶん曖昧で、ずるい言葉だと思う。


 けれど今の自分には、それが精一杯だった。


 矢吹に向けて残っていた熱。

 相沢とのやり取りで揺れた熱。

 そのどちらも、まだ名前をつけられない。


 だから保留にする。

 答えを出さないまま、いったん机の端に置いておく。


 それでも、置いたはずの熱は消えない。

 触れればまだ、確かに熱いままだった。


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