表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
63/64

第五十九話 発足

 四月最初の朝、危機管理部に入った瞬間、小夜はほんの少しだけ足を止めた。


 見慣れているはずの場所なのに、空気が違う。

 机の配置が大きく変わったわけではない。

 壁の色も、窓から入る朝の光も同じだ。

 それでも、ここはもう昨日までの危機管理室ではなかった。


 入口脇の表示が変わっている。

 危機管理室。

 その見慣れた文字はなくなり、代わりに新しい表記がそこにあった。


 危機管理部。


 たった一文字変わっただけなのに、受ける印象はまるで違う。

 小夜はその文字を見つめてから、小さく息をついて中へ入った。


「おはようございます」

 声をかけると、すでに来ていた高橋が振り向いた。

「おはようございます」

 いつも通りの返事。

 けれど、そのいつも通りが少しだけ頼もしく見える。


 高橋の席は大きくは変わっていない。

 ただ、肩書きの意味だけが変わった。

 危機管理室の係長ではなく、危機管理部の係長。

 同じ役職でも、背負う範囲は昨日までとは違う。


「早いですね」

「初日ですからね」

 高橋は笑う。

「少し落ち着かなくて」

「高橋さんでもそういうことあるんですね」

「ありますよ、普通に」

 そう言ってから、高橋は机の上の書類を軽く整えた。

「柿谷さんこそ、ちょっと緊張してません?」

「してません」

 反射的に答えてから、小夜は少しだけ視線をそらす。

「……少しは」

「ですよね」


 そのとき、入口のほうで扉の開く音がした。

 小夜が振り向く。

 入ってきたのは相沢だった。


「おはようございます」

 相沢は室内を見渡して、簡潔に言った。

「今日からお世話になります」

「おはようございます」

 小夜は思わず姿勢を正した。

 高橋も席を立つ。

「よろしくお願いします」


 相沢は以前と変わらない。

 言葉は簡潔で、視線はまっすぐで、曖昧なところがない。

 けれど今日からは、総務部の人ではない。

 危機管理部の係長として、ここに立っている。


「席はこちらです」

 高橋が案内すると、相沢は短くうなずいた。

「ありがとうございます」


 新しく置かれた席。

 その位置が、昨日までここにいなかった人の存在をはっきり示している。

 部になったのだと、そういうところでも分かる。


 少し遅れて、もう一つ扉が開いた。


「おはよう」

 澪だった。


 その声も、歩き方も、いつもと変わらない。

 けれど小夜は、その姿を見た瞬間に胸の奥が少しだけ引き締まるのを感じた。


「おはようございます」

 小夜が言う。

「おはようございます」

 高橋も続く。

 相沢も軽く会釈した。


 澪は室内を見渡し、短くうなずいた。

「揃っていますね」


 その一言だけなのに、場が静かに整う。

 小夜はそのことに気づいて、あらためて思う。

 この人が、今日から課長なのだと。

 それからもうひとつ、澪さんと相沢さんはやっぱり近いと思う。元上司部下というだけでは説明できない、自然な距離がある。


 席に向かう澪の動きを、つい目で追ってしまう。

 中央寄りに置かれた新しい席。

 内示のときに見た座席案のとおりの位置だった。


 澪はそこに鞄を置き、手元の書類を整える。

 それだけの動作なのに、不思議なくらい自然だった。

 急に与えられた席ではなく、最初からそこに座る人だったみたいに見える。


 課長席。

 小夜は心の中でだけ、そうつぶやいた。


「小夜」

 不意に呼ばれて、はっとする。

「はい」

「朝の共有、五分後くらいでも大丈夫ですか」

「はい、大丈夫です」

「ありがとうございます」


 そのやり取りはいつもと変わらない。

 けれど、呼ばれたあとに残る感覚だけが少し違った。


 五分後、簡単な朝の共有が始まった。

 案件の確認、引継ぎ状況、今日中に整理したいもの。

 話している内容は、危機管理の仕事としては特別なものではない。

 むしろ、いつも通りだ。


 ただ、話す順番と受け止める位置が変わっていた。


「まず、発足初日ですから」

 澪が資料を見ながら言う。

「今日はあまり広げすぎなくていいと思います。まずは今ある案件をちゃんと回せれば」

「了解です」

 高橋が答える。

「連携調整の流れは、今日一日見ながら必要なら修正します」

 相沢が続けた。

「お願いします」

 澪は短くうなずく。

「記録・分析まわりは、小夜がまとめてくれた案をそのまま使えそうです」

「はい」

「細かいところは、また午後に見ましょう」

「分かりました」


 淡々と進む。

 けれど、その淡々とした流れそのものが、新しい体制の始まりだった。


 共有が終わるころには、小夜の緊張も少しだけほどけていた。

 仕事が始まってしまえば、考えるより先に手が動く。

 それは危機管理室の頃から変わらない。


 午前のうちに電話が二本、確認依頼が三件、関係部署からの照会がいくつか入った。

 発足初日だからといって、業務は待ってくれない。

 むしろ、そういう日に限って細かいことが重なる。


「さっそくですね」

 小夜がつぶやくと、高橋が苦笑した。

「ですねえ」

「初日だから少し静かでもよかったんですけど」

「そういうわけにもいかないんでしょうね」

 その会話を聞いていた澪が、書類から目を上げる。

「そのほうが、うちらしいかもしれませんね」


 小夜は思わず澪を見る。

 澪は少しだけ笑って、また手元に視線を戻した。


 うちらしい。

 その言葉が、小夜の中に静かに残る。


 たしかにそうかもしれない。

 大きな式があるわけでもない。

 誰かが長い挨拶をするわけでもない。

 看板が変わって、席が変わって、呼び方が少し変わって。

 そのうえで、いつも通りに案件が来る。


 でも、だからこそ本当なのだと思う。

 危機管理部は、飾りではなく、仕事をするためにできた組織なのだと。


 昼前、別部署からの電話を受けた小夜は、確認のために澪の席へ向かった。

「あの、こちらの件なんですが」

「はい」

 澪は資料を受け取り、内容を一通り見てから言った。

「これ、相沢さんにも先に見てもらったほうがよさそうです」

「はい」

「連携先の整理もいると思います」

「分かりました」


 そのやり取りの途中で、小夜はふと気づく。

 自分は今、何の迷いもなくこの席に来て、澪に確認を取っている。

 そして澪もまた、自然に判断を返している。


 課長。

 その呼び方はまだ口にしていない。

 けれど、仕事の流れの中ではもう、十分にそこにあった。


 午後、少しだけ手が空いた時間に、小夜は室内を見渡した。


 澪課長。

 相沢係長。

 高橋係長。


 その並びが、ちゃんと景色になっている。


 誰かが無理に作った形ではない。

 ここまで積み上げてきたものが、そのまま置かれた結果として、今ここにある。

 そう思えた。


「柿谷さん」

 高橋が声をかける。

「はい」

「この資料、あとで一緒に見てもらっていいですか」

「はい、もちろんです」

「助かります」

 高橋はそう言ってから、少しだけ室内を見回した。

「……でも、ほんとに始まりましたね」

「はい」

 小夜も小さくうなずく。

「始まりましたね」


 その言葉に、相沢が書類から目を上げた。

「始まったなら、回していくだけです」

 簡潔な言い方だった。

 けれど、それが妙にこの場に合っていた。


 澪が小さく笑う。

「そうですね」

 そして、机の上の資料を閉じて言った。

「じゃあ、いつもどおり進めましょうか」


 もう始まっているのに、その一言で改めて輪郭が定まる。


 小夜は自分の席に戻り、画面を開いた。

 新しい組織名。

 新しい体制。

 新しい席。


 でも、やることは目の前にある。


 危機管理部の最初の日が、静かに動き出していた。


危機管理部課長・篠宮澪 (完)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ