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第五十八話 内示

 危機管理部の話が出てからしばらくして、室内の空気はさらに静かになった。


 慌ただしくないわけではない。

 むしろ仕事はいつも通り流れ込んでくるし、確認も調整も減らない。

 けれど、その合間に交わされる言葉の端々に、もう先の形が混じっていた。


 発令前。

 けれど、発令前だからこそ分かることがある。


 その日の午後、澪は打ち合わせから戻るなり、自席に資料を置いた。

 表情はいつもと変わらない。

 けれど、小夜はなんとなく、その静けさが少し違うことに気づいた。


「戻りました」

「お疲れさまです」

 小夜が言う。

 高橋も席から顔を上げた。

「長かったですね」

「少しね」

 澪は短く答え、それから一度室内を見渡した。

「今、少しいい?」


 その言い方だけで、小夜は背筋を伸ばした。

 高橋も椅子を引き寄せる。


「内示が出た」

 澪はそう言って、手元の資料を机に置いた。

「危機管理部は予定どおり発足で進む」

 小夜は息を止めたまま、その先を待った。


「人事も、たぶんこのまま行くと思う」

 澪の声は落ち着いていた。

「私は課長」

 短く区切ってから、続ける。

「相沢さんが異動で入って、係長」

「はい」

 小夜は思わず返事をしていた。

 澪は小さくうなずく。

「高橋さんはそのまま係長」

「了解です」

 高橋はそう答えたが、いつもの軽さは少しだけ薄かった。


 少しだけ、室内が静かになる。


「……おめでとうございます」

 気づけば、小夜はそう言っていた。


 澪は一瞬だけ目を上げた。

「ありがとう」


「先に言われたな」

 高橋が少し笑う。

「自分からも。おめでとうございます」


「ありがとう」

 澪はもう一度だけ、静かに言った。

「正式発令までは、まだ少しあるけど」


 小夜は机の上に置かれた資料を見た。

 まだ正式発令ではない。

 けれど、もう十分だった。

 言葉だけだったものに、役職がついた。

 人の配置が、はっきりした。


「……本当に、決まったんですね」

 思わずそう言うと、澪が静かに答えた。

「うん。大きくは変わらないと思う」


 高橋が息をつく。

「いやあ、来ましたね」

「来たね」

 澪は淡く返した。

「引継ぎと配置は、先に少し整理しておきたい」

「もうそこまでですか」

「発令後に慌てたくないから」

 その言い方は、もう完全に先を見ていた。


 小夜はそのやり取りを聞きながら、胸の奥が少しだけ落ち着かないのを感じていた。

 澪が課長になる。

 相沢さんが入る。

 高橋は係長のまま残る。

 頭では理解していたはずなのに、実際に言葉になると重みが違った。


「小夜さん」

 澪が呼ぶ。

「はい」

「記録・分析まわり、今の運用を一回見てもらえる?」

「今の運用、ですか」

「うん。部になったときに、そのまま持っていけるものと、変えたほうがいいものを分けたい」

「分かりました」

「急ぎではないけど、今週中にもらえると助かる」

「やります」


 返事をしながら、小夜は少しだけ不思議な気持ちになった。

 仕事の指示そのものは、いつもと大きく変わらない。

 けれど、その先にある前提が違う。

 今までは危機管理室のための整理だった。

 これからは危機管理部になることを前提にした整理になる。


「高橋さん」

「はい」

「案件統括の引継ぎ線も、今のうちに洗い直しておいてください」

「了解です」

「相沢さんが入ったときに、連携調整との境目が曖昧だと困るから」

「そこはきっちり分けます」

「お願いします」


 高橋の返事も、いつもより少しだけ硬かった。

 係長のまま。

 役職は変わらない。

 けれど、部になれば同じ係長でも意味が変わる。

 そのことを、高橋自身も分かっているのだろうと小夜は思った。


 少しして、澪は資料を閉じた。

「ひとまず、そんなところかな」

 それだけ言って、いつものように席に戻る。

 特別なことを言うわけでもない。

 気負った様子もない。

 けれど、その背中はもう、少し前までとは違って見えた。


 課長。

 まだ口に出して呼ぶには早い肩書きなのに、その言葉だけが小夜の中で静かに残る。


「……すごいですね」

 小夜が小さく言うと、高橋が苦笑した。

「何が?」

「全部です」

「ざっくりしてるなあ」

「でも、本当に」

 小夜は言葉を探した。

「前から話はあったのに、今日急に現実になった感じがして」

「分かるよ」

 高橋は机の上の資料を軽く叩いた。

「内示って、そういうものかもね」


 そのあとも仕事は普通に続いた。

 電話が鳴り、メールが届き、確認事項が増える。

 危機管理の仕事は、組織の節目だからといって止まってはくれない。

 むしろ、こういうときほど細かい確認が増える。


 夕方、共有フォルダに新しい座席案が入った。

 仮のものだと分かっていても、小夜はつい開いてしまう。


 今の並びとは少し違う。

 人数が増える前提で組まれた配置。

 そして、中央寄りに置かれた一つの席。


「見てるね」

 不意に声をかけられて、小夜は顔を上げた。

 澪が立っていた。

「すみません」

「謝らなくていいよ」

 澪は画面に目を向ける。

「たぶん、これに近くなると思う」

「……課長席、ですね」

「そうだね」


 澪はそれ以上、何も言わなかった。

 けれど、その短い返事だけで十分だった。


「まだ、変な感じがします」

 小夜が言う。

「何が?」

「澪さんが課長になるの」

 言ってから、少しだけ言い直す。

「いえ、変というか……不思議というか」

 澪は少しだけ考えるように黙った。

「まだ実感は薄いかな」

「そうなんですか」

「うん。でも、やることはたぶんそんなに変わらないよ」

 澪は静かに言った。

「見る範囲が少し広くなるくらい」


 その言い方が、いかにも澪らしかった。

 肩書きを大きく扱わない。

 けれど、軽くも扱わない。

 必要なものとして受け止めている。


「相沢さんが入るのも、少し緊張します」

 小夜が言うと、澪は小さく笑った。

「それはそうだね」

「澪さんもですか」

「少しは」

「少しなんですね」

「かなり、ではないかな」

 その答えに、小夜も少しだけ笑った。


 高橋が向こうから声をかける。

「二人で何の話してるんですか」

「座席案」

「見ますよねえ、やっぱり」

 高橋は立ち上がって近づいてきた。

 画面をのぞき込み、それから小さく息をつく。

「本当に変わるんだなあ」

「うん」

 澪が答える。

「もう、そこまで来た」


 窓の外は、すっかり夕方の色になっていた。

 室内の明かりが机の上の紙を白く照らしている。

 まだ正式発令ではない。

 まだ呼び方も変わっていない。

 それでも、今日の内示で、もう戻らないところまで来たのだと分かる。


 危機管理室のまま過ごす日は、あと少ししかない。


 小夜は画面の座席案を閉じて、静かに息をついた。

 次に来るのは、たぶん発足の日だ。


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