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第五十七話 人選

 危機管理部案が正式案として起案されてから数日、危機管理室の空気は目に見えないところで少しずつ変わっていた。


 表向きはまだ危機管理室のままだ。

 けれど、机の上を行き来する資料の言葉は、もう先を見ている。

 所掌、配置、兼務、引継ぎ。

 部にするなら何が要るのかではなく、どう置くのか、誰が持つのか。

 話はそこまで進んでいた。


 午前の打ち合わせから戻ってきた高橋が、手にしていた紙束を机に置いた。

「また増えましたね」

 小夜が言う。

「増えたねえ」

 高橋は苦笑する。

「でも、前よりずっと具体的」

 澪も席に着きながらうなずいた。

「人の話まで入ってきたからね」


 小夜はその言葉に顔を上げた。

「人、ですか」

「うん」

 澪は短く答えた。

「配置案がかなり固まってきた」


 高橋が資料を一枚抜いて、小夜のほうへ向ける。

「三機能はこの前のまま。案件統括、記録・分析、連携調整」

「はい」

「で、連携調整はやっぱり専任に近い形で置きたいらしい」

「専任に近い、ですか」

「完全専任までは難しくても、軸になる人は必要ってこと」

 高橋は言ってから、少しだけ声を落とした。

「相沢さんの異動、かなり濃くなってる」


 小夜は資料に落としていた視線を止めた。

「かなり、ですか」

「うん。まだ発令前提ではないけど、候補っていう段階はもう越えてる感じ」

「そうなんですね」


 相沢さん。

 その名前を聞くだけで、総務部にいた頃の空気が少し戻ってくる。

 言葉は簡潔で硬い。

 曖昧な説明は通らない。

 けれど、何を見て判断しているのかはいつも明確だった。

 厳しい、というより、基準がぶれない人だった。


「小夜さん、緊張してる?」

 高橋が少し笑って言う。

「してません」

 小夜は反射的に答えて、それから少しだけ間を置いた。

「……少しは」

「だよね」

「高橋さんはしてないんですか」

「してるよ。普通に」

 高橋はあっさり言った。

「相沢さん、甘くないし」

 その言い方に、澪が小さくうなずく。

「そうだね」


 短い一言だったが、そこには実感があった。

 澪にとって相沢さんは、総務部にいた頃の直属の上司だ。

 ただ名前を知っている、という距離ではない。

 仕事の進め方も、整理の仕方も、澪はその背中を見て覚えてきたところがある。


「でも」

 小夜は言った。

「相沢さんが入るなら、連携調整は強くなりそうですね」

「強くなると思う」

 澪は迷いなく答えた。

「総務の流れを分かったうえで入れる人だから」

「やっぱり大きいですか」

「大きいね。危機管理だけで閉じない形になるから」

 澪は資料の端を指でそろえた。

「部にするなら、そこは必要だと思う」


 小夜はうなずいた。

 危機管理室の中だけで回すのではなく、他部署とどうつなぐか。

 そのための人が入る。

 それは単なる増員より、ずっと大きい意味を持っていた。


「案件統括はどうなるんですか」

 小夜が聞くと、高橋が肩をすくめた。

「そこは今の流れを大きくは崩さないみたい」

「じゃあ、高橋さんが」

「たぶん、引き続きだろうね」

 高橋は軽く言ったが、その言葉には落ち着きがあった。

 新しく何かに就く、というより、今まで担ってきたものをそのまま持っていく響きだった。


「記録・分析は」

「そこも今の延長だと思う」

 澪が答える。

「完全に切り分けるというより、今ある動きを整理して置き直す感じ」

「置き直す」

「うん。新しく作るというより、今までやってきたことに名前と位置を与える感じかな」


 その言い方に、小夜は少しだけ息をついた。

 たしかにそうだった。

 何もないところに突然部ができるわけではない。

 今ここでやっていることが、少しずつ整理され、役割になり、形になっていく。

 その途中に自分たちはいる。


 午後、追加の資料が共有された。

 兼務案、引継ぎ案、座席配置のたたき台。

 まだ決定ではないものばかりだったが、どれも現実味があった。


「席も変わりそうですね」

 小夜がつぶやく。

「変わるだろうね」

 高橋が答える。

「人数が増えるなら、そのままじゃ無理だし」

「課長席も要りますしね」


 言ってから、小夜ははっとして口を閉じた。


 一瞬だけ、室内が静かになる。

 高橋が目を細めて、少しだけ笑った。

「要るね」

 澪は何も言わなかった。

 ただ、手元の資料に視線を落としたまま、否定もしなかった。


 小夜は自分の言葉が急に現実味を帯びた気がして、落ち着かなくなる。

 課長席。

 それはつまり、部長ではなく、その下で部を回す責任者の席だ。

 そして今ここで、その席に最も近いのは誰かといえば、考えるまでもなかった。


「……すみません」

「なんで謝るの」

 高橋が笑う。

「みんな思ってることだよ」

「でも、まだ」

「まだ正式じゃない」

 澪が静かに言った。

「だから今は、それ以上でもそれ以下でもないよ」


 その言い方はいつも通り落ち着いていた。

 けれど小夜には、そこに少しだけ距離の変化があるように思えた。

 澪自身が、自分の立ち位置をもう個人の感覚だけでは扱っていない。

 そういう静けさだった。


 夕方、資料を片づけながら高橋が言った。

「でも、だいぶ見えてきましたね」

「うん」

 澪が答える。

「人が見えてくると早い」

「ですね」

 小夜も言う。

「部になるって、名前だけじゃないんですね」

「そうだね」

 澪は小さくうなずいた。

「誰がどこに立つかまで決まって、やっと形になる」


 窓の外は薄く夕方の色に変わっていた。

 室内にはまだ、紙の音とキーボードの音が残っている。

 けれどその中に、少し前までとは違う輪郭があった。


 相沢さんが入る。

 高橋はそのまま残る。

 そして澪は、たぶん今より一段上の位置に立つ。


 まだ発令は出ていない。

 まだ何も確定していない。

 それでも、もう見えてしまった景色がある。


「篠宮さん」

 高橋が資料を閉じながら言う。

「はい」

「そのうち、呼び方変えないといけないかもね」

「え」

「ほら」

 高橋は澪のほうを見た。

「課長席、要るから」


 小夜は言葉に詰まった。

 澪は困ったように少しだけ眉を動かしたが、否定はしなかった。


 その沈黙が、何よりも現実的だった。


 危機管理部は、たぶん本当にできる。

 そしてそのとき、ここにいる人たちの立ち位置も、今のままではいない。


 小夜は机の上の資料をそろえながら、静かに息をついた。

 次に来るのは、たぶん名前のつく変化だ。


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