第五十二話 ご褒美
常務室の前に立ったとき、澪は一度だけ浅く息を吸った。
会議のあとに個別で呼ばれること自体は、珍しいことではない。
追加確認かもしれない。
資料の補足かもしれない。
そう自分に言い聞かせても、胸の奥に残るわずかな緊張までは消えなかった。
扉をノックすると、すぐに中から声が返る。
「どうぞ」
澪は静かに入室し、扉を閉めた。
常務は机の向こうではなく、窓際の応接セットのほうにいた。会議の延長のような空気ではない。そのことが、かえって澪の意識を少しだけ乱した。
「お疲れさま」
「お疲れさまです」
「座って」
「失礼します」
向かいに腰を下ろすと、常務はすぐには本題に入らなかった。
机の上には会議で使った資料の一部が置かれている。付箋の位置まで見覚えがあって、澪はそれだけで少し落ち着きを取り戻した。
「今日の整理、よくまとまっていた」
「ありがとうございます」
「現場で見えていることを、感覚のままにせず、きちんと形にしていた」
「危機管理室で積み上げてきたものです」
澪はそう答えた。
「私一人ではありません」
「分かっている」
常務は穏やかに言った。
「だからこそ、あの場でも通った」
その言い方に、澪は少しだけ視線を落とした。
評価されることに慣れていないわけではない。けれど、常務からまっすぐ言われると、どうしても必要以上に意識してしまう自分がいた。
「今日、君を呼んだのは」
常務が静かに切り出す。
「会議の補足だけではない」
「……はい」
澪は背筋を伸ばした。
胸の奥で、何かが小さく鳴る。
常務は一度だけ澪を見て、それから少しだけ口元をやわらげた。
「以前、君は言っていたね」
「え?」
「やり切ったら、ご褒美をください、と」
その瞬間、澪の思考が一拍止まった。
忘れていたわけではない。
忘れられるはずもなかった。
あれは、半分は冗談で、半分は冗談ではなかった。仕事を言い訳にして、ほんの少しだけ距離を詰めるような、そんな危うい言葉だった。
「……そんなことも、ありましたね」
ようやくそれだけ返すと、常務は小さくうなずいた。
「軽口だと思っていた」
「そうですか」
「ただ、案外こちらは覚えているものだ」
その言葉に、澪の指先がわずかに強張る。
覚えていてくれた。
その事実だけで胸が揺れる自分が、まだどこかにいる。
けれど同時に、常務の声には何の含みもないことも分かった。
からかうでもなく、試すでもなく、ただ事実として拾い上げているだけだった。
「危機管理室として、よくここまで持ってきた」
常務は続けた。
「個別の照会から始まったものを、体制の問題として見えるところまで整理した。あれは簡単なことではない」
「ありがとうございます」
「昇格を“ご褒美”と呼ぶのは、適切ではないかもしれないが」
そこで常務は少しだけ間を置いた。
「危機管理部への昇格を、あのとき君が言っていたご褒美にする、というのはどうだろうか」
澪は、すぐには言葉を返せなかった。
危機管理部。
その響きは、ここ数日ずっと現実味を帯びながら近づいてきていた。けれど今、常務の口から、しかも“ご褒美”という言葉と一緒に置かれたことで、まったく別の重さを持って胸に落ちてくる。
「もちろん」
常務は静かに続ける。
「これは君一人へのものではない。危機管理室が積み上げた結果に対する評価だ」
「……はい」
「ただ、最初に違和感を拾い、途中で止めず、ここまで形にした中心に君がいたことも事実だ」
澪は息を詰めた。
「だから、あのときの言葉を借りるなら、悪くない返し方だと思った」
その瞬間、胸の奥に長く引っかかっていたものが、音もなくほどけた気がした。
覚えていてくれたのだと思った。
けれど同時に、それが自分の望んでいた種類の特別さではなかったことも、はっきり分かった。
それでよかった。
むしろ、そのほうがよかった。
自分が受け取るべきものは、曖昧な期待ではなく、ここまで積み上げてきた仕事の形だったのだ。
個人的な感情に意味がなかったわけではない。
けれど、それに答えを求めなくていいのだと分かった瞬間、澪の中で何かが静かに自由になった。
「……十分すぎるご褒美です」
澪はようやくそう言った。
声は思っていたよりも落ち着いていた。
常務は小さく笑う。
「そう言ってもらえるならよかった」
「ですが、まだ決定ではありませんよね」
「もちろん」
常務はすぐに現実へ戻した。
「正式な整理はこれからだ。総務も法務も詰めるべき点は多い」
「はい」
「ただ、方向はもう変えないつもりでいる」
その言葉は静かだったが、強かった。
「必要な機能があるなら、それに見合う形を与える。それだけの話だ」
「……ありがとうございます」
「礼を言うのは少し早い」
「そうですね」
澪はわずかに笑った。
少しだけ沈黙が落ちる。
気まずさはなかった。
むしろ、これまで澪の中にだけあった余分な揺れが消えたぶん、初めてまっすぐ向かい合えているような感覚があった。
「君は」
常務がふと、やわらかい声で言う。
「もう少し、自分がやったことを正当に見てもいい」
「そうでしょうか」
「そうだ」
言い切る声に迷いはない。
「現場で拾う人間がいなければ、組織は動かない。今回の件は、その典型だ」
「でも、動かしたのは常務です」
「違う」
常務は首を横に振った。
「私は、見えるようになったものを押しただけだ。見える形にしたのは君たちだよ」
その言葉は、澪の胸に静かに残った。
甘さはない。
けれど、だからこそ余計な期待を呼ばない。
仕事としての評価であり、信頼であり、それ以上でもそれ以下でもない。
その輪郭のはっきりした距離が、今の澪にはありがたかった。
「危機管理部になれば、今より忙しくなりますよ」
澪が少しだけ冗談めかして言うと、常務もわずかに口元をゆるめた。
「だろうね」
「ご褒美にしては、少し重いかもしれません」
「君ならそう言うと思った」
「否定はしません」
「なら、せめて権限はつけよう」
その返しに、澪は思わず笑った。
こんなふうに自然に笑えたのは、いつ以来だろうと思う。
胸の奥にあった緊張も、期待も、迷いも、もう以前と同じ形では残っていなかった。
やがて澪は立ち上がった。
「お時間、ありがとうございました」
「こちらこそ」
常務も立ち上がる。
「正式な話はこれからだが、準備は進めておいてほしい」
「承知しました」
「危機管理室にも伝えていい。ただし、期待だけ先行しないように」
「分かっています」
「君なら大丈夫だろう」
その一言に、澪は静かに頭を下げた。
常務室を出て扉が閉まると、廊下の空気が少しひんやりして感じられた。
澪はその場で立ち止まることなく歩き出したが、胸の内側では、長く絡まっていた糸がようやくほどけたあとのような静かな軽さが広がっていた。
勘違いだったのかもしれない。
恋愛感情と呼ぶには、近くで働く相手への敬意や憧れが混ざりすぎていたのかもしれない。
けれど、もうどちらでもよかった。
あの人に求めていたものは、たぶん最初から一つではなかった。
認めてほしい気持ちもあった。
見ていてほしい気持ちもあった。
そして、そのどれもが今、仕事の形で返ってきた。
それで十分だった。
十分すぎるほどに。
危機管理室へ戻ると、小夜がすぐに顔を上げた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
澪はいつもどおりの声で答えた。
「何かありましたか」
高橋も訊く。
澪は二人の顔を見て、ほんの少しだけ笑った。
「まだ正式決定ではないけど」
「はい」
「準備はしておいたほうがよさそう」
「……それって」
小夜の目がわずかに見開かれる。
「危機管理機能の整備、かなり前に進むと思う」
澪は言葉を選びながら続けた。
「今の“室”のままでは終わらない」
高橋が静かに息をつく。
「そうですか」
「うん」
「常務が?」
「方向は変えないつもりみたい」
それだけで十分だった。
小夜は机の上の一覧へ目を落とした。
何度も更新してきた記録が、ようやく次の形へつながろうとしている。
その実感が、じわじわと胸に広がっていく。
「忙しくなりますね」
高橋が言う。
「なりますね」
澪は答えた。
「でも、今よりはちゃんと忙しくなれると思う」
「ちゃんと?」
小夜が訊く。
「権限も位置づけも曖昧なまま抱えるんじゃなくて、必要なものとして抱えられるなら、そのほうがいい」
「……はい」
小夜はうなずいた。
窓の外は、もう夜に近づいていた。
けれど澪の中には、不思議なくらい澄んだ静けさがあった。
何かを失った感じはしない。
むしろ、ようやく余計なものを手放せた気がする。
自分が進むべき先は、誰かの特別になることではなく、必要なものを必要な形にすることだった。
そのことが、今ははっきり分かる。
机の上の資料に手を伸ばしながら、澪は小さく息をついた。
軽かった。
それは諦めのあとの軽さではなく、ようやく自分の立つ場所が定まったあとの軽さだった。




