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第五十三話 反発

 危機管理機能の整備が前に進む――その感触は、翌日にはもう危機管理室の空気を少し変えていた。


 正式決定ではない。

 文書もまだ出ていない。

 それでも、方向が見えたというだけで、人の動きは変わる。

 総務からは追加資料の依頼が入り、法務からは判断権限の整理案について照会が来た。情報管理も、共有経路の標準化について先に叩き台を作りたいと言ってきている。


 小夜は朝から一覧を更新しながら、その変化を肌で感じていた。

 昨日まで“相談”だったものが、今日は“前提確認”に変わっている。

 危機管理室が今後も横断で見ることを、もう半ば当然のように扱い始めている部署がある。


「早いですね」

 小夜が言う。

「早いな」

 高橋が答える。

「まだ決まってないのに」

「決まる前提で動いたほうが早いって判断したんだろ」

「それだけ必要だと思われてるってことですか」

「たぶんな」


 澪は朝一番で総務との打ち合わせに出ていた。

 戻ってきたのは十時を少し回ったころで、手元には新しいメモが増えていた。


「お疲れさまです」

「ありがとうございます」

 澪は席に着きながら言う。

「総務、かなり具体的でした」

「もうそこまで行ってるんですか」

 小夜が訊く。

「うん。機能整理だけじゃなくて、組織上の位置づけも並行して考えたいみたい」

「部、ですね」

「可能性は高いと思う」

 澪は淡く答えた。

「ただ、そのぶん反発も出てる」


 その一言に、小夜は顔を上げた。

「反発」

「あるだろうな」

 高橋が言う。

「はい」

 澪はうなずいた。

「全部が同じ温度ではない」


 危機管理室の中で見えていた必要性が、そのまま全員に共有されるわけではない。

 むしろ、形が変わる話になればなるほど、別の種類の抵抗が出てくるのは自然だった。


「どこからですか」

 小夜が訊く。

「いくつかある」

 澪はメモを開いた。

「一つは、既存部署との役割重複」

「総務とか法務とかですか」

「そう。危機管理部ができたら、どこまで持っていくのかが曖昧だと、仕事を取られるように見える」

「たしかに」

 高橋が言う。

「もう一つは、権限の集中を嫌がる声」

「危機管理に寄せすぎるな、ってことですか」

「うん」

「あと一つは?」

「そこまで大きくする必要があるのか、っていう反応」

 澪は静かに言った。

「今まで回っていたのだから、運用改善で足りるんじゃないかって」


 小夜は思わず息をついた。

 予想していた反応ではある。けれど、実際に言葉として出てくると、胸の奥に少しだけ重さが落ちた。


「でも、今まで回ってたわけじゃないですよね」

「ぎりぎり持ってただけだな」

 高橋が言う。

「そう」

 澪もうなずく。

「そこをどう伝えるかが、これからの論点になると思う」


 午前中、総務から送られてきた整理メモを三人で確認した。

 危機管理機能の整備案は、かなり現実的な形になっている。

 外部照会の横断集約。

 返答保留・再確認の判断位置づけ。

 各部署からの共有基準の統一。

 記録管理の一元化。

 そして、一定条件下での危機管理側からの照会停止要請。


「ここまで入れると、そりゃ反発も出ますね」

 小夜が言う。

「出るね」

 澪は答える。

「特に最後」

「停止要請」

「うん。今まではお願いベースだったから」

「正式な位置づけになると、受ける側の感覚も変わる」

 高橋が言う。

「そういうこと」


 そのとき、内線が鳴った。

 澪が受け、短く応じる。

 途中で一度だけ表情が変わり、受話器を置いたあと、小さく息をついた。


「何かありましたか」

 小夜が訊く。

「情報管理」

「はい」

「危機管理側に寄せすぎると、現場判断が遅くなるんじゃないかって」

「もう来ましたか」

「来たね」

 澪は苦笑に近い表情を浮かべた。

「しかも、かなり率直に」

「でも、それも分かります」

 小夜が言う。

「全部止めてたら回らない」

「そう」

 澪はうなずいた。

「だから、全部を取る話じゃないって整理しないといけない」


 高橋がメモを見ながら言う。

「結局、線引きですね」

「うん」

「危機管理が見るべきものと、現場で処理していいもの」

「そこが曖昧だと、反対はもっと強くなる」

「逆に、そこが見えれば通しやすい」

「そう思う」


 昼前、法務からも別の観点の懸念が入った。

 危機管理側が判断を持つ範囲が広がるなら、責任の所在を文書上ではっきりさせる必要があるという。


「法務らしいですね」

 小夜が言う。

「らしいな」

 高橋が答える。

「でも正しい」

 澪は言った。

「権限だけ増えて責任が曖昧なままだと、今より危ない」

「たしかに」

「だから、反発っていうより、整備のための抵抗でもあると思う」

「抵抗」

「うん。止めたいだけじゃなくて、雑に進めるなっていう意味もある」

 その言い方に、小夜は少しだけ救われた。

 全部が敵意ではない。

 組織が変わるときに出る当然の摩擦でもあるのだ。


 午後、総務主催の小さな打ち合わせがオンラインで入った。

 澪が参加し、危機管理室では小夜と高橋が補助に回る。

 画面越しに聞こえてくる声は落ち着いていたが、内容は思っていた以上に鋭かった。


「危機管理部を作る前提で話していないか」

「既存の部門責任を曖昧にしないか」

「現場の一次判断能力を落とさないか」

「緊急時以外まで集約する必要があるのか」


 どれももっともだった。

 もっともだからこそ、簡単には押し切れない。


 打ち合わせが終わったあと、澪はしばらく画面を閉じたまま動かなかった。

 小夜は少し迷ってから声をかける。


「大丈夫ですか」

「大丈夫」

 澪はゆっくり顔を上げた。

「ただ、思ったよりちゃんと反発があるなって」

「嫌な感じでしたか」

「嫌というより、当然かな」

「当然」

「うん。組織を変える話だから」

 澪は静かに言った。

「必要性だけじゃ足りない。変えたあとに何が守られるのかまで示さないと通らない」


 高橋が腕を組む。

「常務が押しても、全部は通らないですね」

「通らないと思う」

 澪は答える。

「だからこそ、現場の実態を雑に扱えない」

「こっちの資料が大事になる」

「そう」


 小夜は一覧を見つめた。

 ここに並んでいるのは、ただの照会記録ではない。

 危機管理室がなぜ必要なのか、どこまで必要なのかを示す根拠だ。

 けれど同時に、どこまで持ちすぎてはいけないかを考える材料でもある。


「反発があるって、悪いことじゃないのかもしれませんね」

 小夜がぽつりと言う。

 澪は少しだけ目を細めた。

「どうしてそう思ったの」

「ちゃんと現実の話になってるからです」

「……うん」

「本当にどうでもいいなら、たぶん誰もそこまで言わない」

「そうだね」

 澪はやわらかく答えた。

「通る前提じゃないと、細かい反対は出ない」

「じゃあ、今は」

「整備の中身を詰める段階に入ったってことだと思う」


 夕方、総務から新しい依頼が届いた。

 危機管理機能の整備案に対する想定反論と、それへの回答整理を作ってほしいという。


「来ましたね」

 高橋が言う。

「来たね」

 澪は苦笑した。

「でも、必要だと思う」

「想定問答集みたいなものですか」

 小夜が訊く。

「近いかな」

「じゃあ、反発を前提に進めるんですね」

「そのほうが健全だと思う」

 澪は答えた。

「押し切るより、残る懸念を一つずつ潰したほうが、あとで苦しくならない」


 三人はそのまま、想定される反論を書き出し始めた。

 役割重複。

 権限集中。

 現場判断の遅延。

 責任所在の曖昧化。

 平時運用の過剰化。

 人員増の妥当性。

 どれも簡単には片づかない。

 けれど、だからこそ整理する意味がある。


 書き出しながら、小夜はふと思った。

 危機管理部になるということは、ただ守られる側になることではない。

 むしろ、今までよりずっと多くの視線と責任を引き受けることなのだ。


「大変ですね」

 思わず口にすると、高橋が少し笑った。

「今さらだな」

「そうですけど」

「でも、たぶん今までよりはましだ」

「どうしてですか」

「曖昧なまま抱えるより、見られながら抱えるほうがまだ健全だろ」

 その言葉に、小夜は小さくうなずいた。


 夜、退勤前に澪がまとめたメモには、こう書かれていた。


 必要性があることと、無条件に通ることは別である。

 だからこそ、反発は排除すべきものではなく、整備の輪郭を明確にする材料として扱う。


 小夜はその一文を見て、静かに息をついた。

 前に進むというのは、賛成だけが増えることではない。

 むしろ、反対や懸念が表に出てきてからが本番なのだろう。


 窓の外はすっかり暗くなっていた。

 けれど危機管理室の中では、進み始めた話が止まった感じはしなかった。

 押し返されながらも、形を変えながら、少しずつ前へ進んでいる。


 反発は、後退ではない。

 それは、曖昧だったものが本当に現実へ触れ始めた証だった。


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