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第五十一話 整備

 関係部署を交えた整理の場は、午後一番に設定されていた。


 午前中の危機管理室は、いつも以上に静かだった。

 作業の手は止まっていない。新しく入った照会を一覧へ加え、共有の要否を確認し、各部署からの相談に返す。やっていることは普段と変わらないはずなのに、今日に限っては一つひとつの作業が、そのまま午後の資料の裏づけになっているように思えた。


 小夜は更新した一覧を見直しながら、何度も同じ列に目を戻していた。

 問い合わせ元、照会内容、返答の扱い、共有の有無。単独なら埋もれていたはずのものが、並べることで意味を持つ。その積み重ねが、今日の場をここまで動かしたのだと思うと、不思議な感覚があった。


「緊張してる?」

 高橋が、画面から目を離さないまま言った。

「少し」

 小夜は正直に答える。

「分かる」

「高橋さんはしてないんですか」

「してるよ」

「そう見えません」

「見せてないだけ」

 その返しに、小夜は少しだけ笑った。


 澪は午前のうちに資料を最終確認し、必要な箇所へ付箋を入れていた。

 説明の順番は変えない。照会傾向、相談増加、返答基準の調整負荷、横断集約の必要性、そして現行体制の限界。結論を先に言い切るのではなく、見れば自然にそこへ行き着く並びになっている。


「これで行きます」

 澪が資料を閉じる。

「はい」

 小夜は背筋を伸ばした。

「追加で聞かれそうなのは、やっぱり権限ですか」

「たぶん」

 澪は答える。

「あと、どこまでを危機管理室に寄せるのか」

「全部じゃないですよね」

「全部ではないと思う」

 高橋が言う。

「でも、今よりは明確に寄せないと回らない」

「そうね」

 澪はうなずいた。

「曖昧なまま善意で集まる形が、一番長く持たないから」


 昼を過ぎるころ、総務から会議室変更の連絡が入った。

 予定より少し広い部屋に移すというだけの通知だったが、その理由はすぐに分かった。


「……出るんですね」

 小夜が画面を見たまま言う。

「誰が?」

 高橋が訊く。

「常務です」

 短い沈黙が落ちた。


 澪は通知文を確認し、静かに息をついた。

「そう」

「やっぱり、そこまでの話なんですね」

 小夜が言う。

「そういうことになるかな」

 澪は落ち着いた声で答えた。

「予定変更ってことは、向こうも今日で方向を見たいんだと思う」


 午後、澪は資料を持って会議室へ向かった。

 小夜と高橋は同席しない。必要があれば呼ばれることになっていたが、基本は危機管理室で待機し、追加資料や照会対応に備える形だった。


 会議室の扉が閉まったあと、危機管理室にはまた静かな時間が戻った。

 けれど、それは昨日までの静けさとは違う。今まさに、自分たちが積み上げてきたものが、組織の上の層で言葉にされている。その感覚が、部屋の空気を少しだけ張らせていた。


「常務、何て言うと思います?」

 小夜が小声で訊く。

「さあな」

 高橋は短く答える。

「でも、出るなら結論を先送りしたい人ではないと思う」

「ですよね」

「必要なら進めるし、必要ないなら切る」

「怖いですね」

「そうだな」

 高橋は画面を見たまま言った。

「でも、今はそのほうがいいかもしれない」


 会議は予定より長引いた。

 途中で一度だけ、澪から追加資料の依頼が入る。

 各部署からの相談件数の推移と、危機管理室を経由したことで返答保留になった案件の一覧。小夜はすぐに整理し、高橋と確認して送った。


「かなり踏み込んでますね」

 小夜が言う。

「踏み込んでるな」

「やっぱり、運用の話だけじゃない」

「だろうな」


 それからさらに三十分ほどして、澪が戻ってきた。

 表情は崩れていない。だが、席に着く前に資料を机へ置く手つきに、わずかな重さがあった。


「お疲れさまです」

「ありがとうございます」

 澪は椅子に腰を下ろし、水を一口飲んだ。

「どうでしたか」

 小夜が訊く。


 澪は少しだけ黙ってから答えた。


「思っていたより、はっきりした」

「はっきり?」

「うん」

 澪は二人を見た。

「常務が、個別案件として扱う段階は過ぎているって」

 小夜は息を止めた。

 高橋も何も言わず、続きを待つ。


「現場の注意力に依存する運用は長く持たない、って」

 澪は静かに続けた。

「必要なのは犯人探しの継続だけじゃなくて、再発を通さない体制整備だと」

「体制整備……」

 小夜が繰り返す。

「そこまで言ったんですね」

「言った」

 澪はうなずいた。

「かなり明確に」


 室内の空気が変わるのが分かった。

 再編という言葉はまだ出ていない。けれど、常務の口から“体制整備”が出たなら、それはもう現場の工夫の延長では済まない。


「反対はありましたか」

 高橋が訊く。

「もちろんあった」

 澪は答える。

「大げさではないか、既存の連携強化で足りるのではないか、って」

「言いますよね」

 小夜が言う。

「うん」

「それで?」

「常務が切った」

「切った」

「“連携強化”で済むなら、すでに済んでいるはずだって」

 澪の声は淡々としていたが、その一言の強さは十分に伝わった。

「今ここで問題になっているのは、連携の意思ではなく、連携を支える位置づけと責任の曖昧さだって」

「……強いですね」

 小夜が言う。

「強かった」

 澪は短く答えた。


 高橋が腕を組む。

「じゃあ、話は進みますか」

「進むと思う」

「どこまで」

「まずは、危機管理機能の整理を正式に始める」

「正式に」

「うん。総務主導で案を作るけど、危機管理室の実務を前提にするって」

「それ、かなりですね」

「かなりだね」


 小夜は机の上の一覧へ目を落とした。

 自分たちが毎日更新してきた記録が、ただの内部メモではなくなっている。組織の形を変えるための根拠として扱われ始めている。

 その重さに、少しだけ指先が熱くなった。


「部、まで行きそうですか」

 思わず訊くと、澪は少しだけ考えた。


「可能性は高くなったと思う」

「やっぱり」

「ただ、常務が見ているのは名称じゃない」

「中身、ですか」

「そう」

 澪はうなずいた。

「何を集めるのか、どこで止めるのか、誰が責任を持つのか。そこが整わないなら、名前だけ変えても意味がないって」

「澪さんと同じこと言ってますね」

 小夜が言うと、澪は少しだけ笑った。

「たぶん、見てるところが同じなんだと思う」


 そのあと、澪は会議の流れを簡潔に共有した。

 情報管理は、横断集約の必要性には理解を示した。

 法務は、返答判断の位置づけを明文化する必要があるとした。

 監査補佐は、記録管理と判断経路の明確化を求めた。

 そして総務は、現行の危機管理室体制を前提にしたままでは継続的対応に無理があることを認めた。


「全部、同じ方向ですね」

 小夜が言う。

「温度差はあるけどね」

 澪は答える。

「でも、“今のままでいい”とは誰も言わなかった」

「それだけでも大きい」

 高橋が言う。

「うん」

「常務がいたからですか」

「それもあると思う」

 澪は正直に言った。

「ただ、押したというより、見えにくかった論点を整理した感じかな」

「個別案件じゃなくて、体制の問題だって」

「そう」


 夕方、総務から早くも次の打ち合わせ日程案が届いた。

 件名には「危機管理機能整備に関する検討」とある。

 小夜はその文面を見て、思わず息をのんだ。


「整備、ですね」

「整備だね」

 高橋が言う。

「再編じゃなくて」

「でも、意味は近い」

 澪が答える。

「むしろ、この言い方のほうが進めやすいかもしれない」

「どうしてですか」

「名前の話に見えにくいから」

 澪は端末を閉じた。

「必要な機能を整える。その結果として形が変わる、って順番にできる」

「なるほど」

「そのほうが反対も受けにくい」


 小夜はその言葉に納得した。

 部にするかどうかを先に争えば、見た目の話になってしまう。

 けれど、必要な機能を並べていけば、今の器では足りないことが自然に見えてくる。

 常務が押したのも、きっとその順番なのだろう。


 退勤前、澪が資料を片づけていると、内線が鳴った。

 澪が受け、短く応じる。


「……はい。今からでも大丈夫です」

 受話器を置いた澪の表情は、いつもと変わらないようでいて、ほんの少しだけ固かった。


「何かありましたか」

 小夜が訊く。

「常務に呼ばれた」

「今ですか」

「うん。少しだけ、って」

 高橋が澪を見る。

「会議の続きですかね」

「たぶん」

 澪はそう答えたが、その声はわずかに低かった。


 小夜はそれ以上、何も訊かなかった。

 訊いてはいけない気がしたわけではない。ただ、澪の横顔に、会議の緊張とは少し違う硬さがあるように見えた。


「行ってきます」

 澪は資料を一枚だけ持ち、静かに席を立った。


 扉が閉まったあと、高橋が小さく息をつく。

「……長くなりそうですかね」

「どうでしょう」

 小夜は答えながら、さっきの澪の表情を思い返していた。


 常務が出た会議のあとに、個別で呼ばれる。

 それ自体は不自然ではない。

 けれど、澪のあの一瞬の沈黙には、仕事だけではない何かが混じっていたようにも見えた。


 窓の外は、もう夕暮れの色に変わり始めている。

 今日で決まったわけではない。

 それでも、危機管理室の問題として閉じていたものは、もう確実に外へ開かれていた。


 整えるべきものがある。

 変えるべき形がある。

 そして今、その話は現場の手を離れ、組織の中枢へ届いている。


 小夜は静かになった室内で端末を閉じた。

 今日の会議は終わった。

 けれど、本当に何かが決まるのは、このあとかもしれないと、なぜかそんな気がしていた。


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