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第五十話 権限

 来週に予定された関係部署との整理の場は、危機管理室にとって思っていた以上に重い意味を持ち始めていた。


 案件の共有ではない。

 単なる意見交換でもない。

 今の危機管理室がどこまで担い、どこから先を担えないのか。その境目を、組織の側が初めて正面から見ようとしている。

 小夜は朝、共有端末に入っていた会議案内を読み返しながら、そんなことを考えていた。


 参加予定には総務、情報管理、法務、監査補佐の名前が並んでいる。

 危機管理室からは澪が出席し、必要に応じて追加資料を提示することになっていた。議題は「外部照会対応の横断整理および今後の運用体制について」。まだ直接的な言葉は避けられているが、見ている先が“今後の運用”だけではないことは明らかだった。


「おはようございます」

「おはよう」

 高橋が席に着く。

「案内、見ました?」

「見た」

「監査補佐まで入るんですね」

「入るだろうな」

「やっぱり、そこまでの話なんですね」

「そこまでの話にしないと、形は変わらない」


 小夜はその言葉を聞きながら、自分の一覧を開いた。

 照会記録は今日も増えている。件数だけなら、まだ騒ぐほどではない。だが、危機管理室を経由する相談や確認は確実に増えていた。各部署が“自分たちだけで返していいのか”を迷い始めている以上、集約先としての役割はもう後戻りできないところまで来ている。


 澪が出勤すると、三人はすぐに資料の確認に入った。

 一覧の更新、相談経路の整理、返答判断にかかった時間、共有の有無による差。数字として派手ではないものを、どう見せれば構造の問題として伝わるか。その調整が続く。


「昨日の追加分、ここに入れました」

 小夜が言う。

「ありがとう」

 澪は画面を見ながら答えた。

「相談経路のほうは?」

「整理できてます」

 高橋が自分の端末を回す。

「部署ごとにばらつきがあります。情報管理と総務は危機管理室に寄せ始めてますけど、他はまだ担当判断が多い」

「その差も出しておきたいね」

 澪が言う。

「統一されてないこと自体が、今の弱さだから」

「はい」


 午前中いっぱいかけて、資料は少しずつ形になっていった。

 危機管理室が拾っている照会の傾向。

 各部署から寄せられる相談の増加。

 返答基準の調整負荷。

 そして、横断的に見ているにもかかわらず、正式な集約権限や指示権限が十分ではないこと。


 小夜はその最後の項目を見ながら、ふと手を止めた。


「これ……」

「どうした?」

 高橋が訊く。

「“権限が十分ではない”って、書いてしまって大丈夫でしょうか」

「気になる?」

「はい。事実だとは思うんですけど、強く見えないかなって」

 澪はそのやり取りを聞いて、少しだけ考えるように視線を落とした。


「言い方は調整しようか」

「やっぱり」

「でも、そこは外せないと思う」

 澪は静かに言った。

「今の危機管理室って、実務上は見てる範囲が広いのに、制度上はそこまで強くない」

「お願いして集めて、相談されて、調整してる感じです」

 小夜が言う。

「そう」

「止める力があるというより、止めてもらう形に近い」

 高橋が続ける。

「うん」

 澪はうなずいた。

「それだと、協力があるうちは回る。でも、量が増えたり、急ぎが重なったりしたときに弱い」

「だから権限、なんですね」

「ええ」


 その一言で、小夜の中でも少し整理がついた。

 人手が足りないだけではない。

 忙しいだけでもない。

 危機管理室が今抱えているのは、“見ている範囲”と“持っている力”が釣り合っていないという問題なのだ。


 昼前、総務から追加の確認依頼が入った。

 来週の整理の場では、今後の運用案だけでなく、危機管理室の位置づけそのものについても意見を求める可能性があるという。


「位置づけ、ですか」

 小夜が受話器を置きながら言う。

「そこまで来ましたね」

 高橋が答える。

「来たね」

 澪は短く言った。

「じゃあ、こちらも曖昧なままでは出せない」


 澪は端末を開き、新しいメモを立ち上げた。

 タイトルには簡潔に「危機管理機能の位置づけ」とある。


「今の危機管理室が担ってるもの、整理しようか」

「案件対応、照会判断、共有集約……」

 小夜が指を折る。

「再発防止の整理もあります」

 高橋が補う。

「あと、各部署への返答基準の調整」

「そうね」

 澪は打ち込みながら言う。

「それに、今後は予防的な把握も必要になる」

「予防的、ですか」

「来たものに対応するだけじゃなくて、来る前提で見ること」

「はい」


 小夜はその言葉を聞きながら、最初にあの照会へ目を止めた朝を思い出していた。

 始まりは、ほんの小さな違和感だった。

 それが線になり、負荷になり、今は組織の位置づけの話にまでつながっている。


「これ、もう“室”の仕事じゃないのかもしれませんね」

 思わず口にすると、澪は少しだけ手を止めた。

 高橋も何も言わずにこちらを見る。


「……そうかもしれない」

 澪はやわらかく答えた。

「少なくとも、今のままの“室”で抱えるには広くなってきてると思う」

「部、ですか」

 小夜が訊く。

「可能性としてはある」

 澪は慎重に言う。

「でも、名前より先に中身を決めないといけない」

「中身」

「どこまで集めるのか、どこで止めるのか、誰が判断するのか」

「そこが曖昧だと、結局また詰まる」

 高橋が言う。

「そう」

 澪はうなずいた。

「だから、権限の話になる」


 そのとき、共有端末に新しい内部連絡が入った。

 澪が確認し、ほんのわずかに表情を変える。


「どうしました」

 小夜が訊く。

「総務から」

 澪は画面を見たまま答えた。

「来週の整理の場、常務も概要を確認するみたい」

「常務が?」

 高橋が言う。

「はい」

 小夜も思わず声を落とした。


 澪は短い文面を読み返してから、静かに端末を閉じた。


「正式に出るわけじゃないみたい」

「でも、見てるんですね」

「そういうことになる」

 高橋が言う。

「総務だけの判断でここまで広げたわけじゃなかったか」

「たぶんね」

 澪は答えた。

「個別案件として処理する段階は過ぎてる、って見方なんだと思う」


 その一言で、部屋の空気が少し変わった。

 危機管理室の中で積み上げてきた問題意識が、ただの現場判断ではなく、上層の視界にも入っている。

 それは安心でもあり、同時に後戻りできない感覚でもあった。


「常務って、どう見るタイプなんですか」

 小夜が訊く。

「感情で押す人ではないかな」

 澪は少し考えてから言った。

「でも、組織全体の損失には敏感」

「じゃあ、今回の件も」

「犯人探しより、今の形で持つかどうかを見ると思う」

「それなら、話は早いかもしれませんね」

 高橋が言う。

「早いかもしれないし、厳しいかもしれない」

 澪は淡く言った。

「必要なら動かすけど、必要性が弱ければ通さない人だから」


 午後、三人は“今の危機管理室に足りないもの”を、感覚ではなく項目として整理していった。

 横断的な情報集約の明文化。

 照会保留や再確認を求める判断の位置づけ。

 各部署への共有基準の統一。

 継続的な監視と記録管理の担当化。

 そして、相談が集中した際にも通常業務と両立できる体制。


 並べてみると、それは単なる改善案ではなかった。

 ほとんど、別の組織を立ち上げるための設計図に近い。


「ここまで書くと、かなりですね」

 小夜が言う。

「かなりだね」

 澪は苦笑した。

「でも、今やってることを言葉にするとこうなる」

「今までは、言葉になってなかっただけか」

 高橋が言う。

「たぶん」

「現場で吸収してたんですね」

「そういうことだと思う」


 夕方、会議用の資料はほぼ整った。

 最後に残ったのは、危機管理室としてどこまで踏み込んだ意見を出すかだった。


「“再編の必要性”まで書きますか」

 高橋が訊く。

「そこは直接は書かない」

 澪は答える。

「でも、“現行体制では継続的対応に限界がある”とは入れる」

「十分強いですね」

 小夜が言う。

「うん。でも、今はそのくらいでいいと思う」

「向こうに読ませる形ですね」

「そう」

 澪は静かに言った。

「こちらから結論を押しつけるより、必要な形が自然に見えるようにしたい」


 少し間を置いてから、澪は続けた。


「ただ、常務が見ているなら、曖昧な資料は出せない」

「はい」

 小夜は背筋を伸ばした。

「必要性が伝わる形にしないと」

「そう」

 澪はうなずく。

「現場が困っている、だけでは弱い。今のままだと何が止められなくなるのか、どこが抜けるのか、そこまで見せないといけない」

「組織の損失として見せる」

 高橋が言う。

「ええ」

「常務向きですね」

「そうかもしれない」


 退勤前、最終確認を終えた資料を閉じながら、澪がぽつりと言った。


「権限って、強くなるためだけのものじゃないんだよね」

 小夜は顔を上げる。

「え?」

「責任の位置をはっきりさせるためにも必要」

「責任の位置……」

「今は、見てるのに決めきれないことがある。逆に、決めてほしいのにこちらへ正式には寄ってこないこともある」

「たしかに」

 高橋が言う。

「その曖昧さが、一番危ない」

「うん」

 澪はうなずいた。

「だから、権限が要る。強く見せるためじゃなくて、止めるべきものをちゃんと止めるために」


 小夜はその言葉を胸の中で繰り返した。

 権限は、偉くなるためのものではない。

 責任を引き受け、必要なときに止めるためのもの。

 そう考えると、これから起きようとしている変化の意味が、少し違って見えた。


 しかも今度は、その必要性を見ているのが危機管理室の中だけではない。

 上層が動けば、話は現場の工夫では終わらなくなる。

 変わるなら、本当に形が変わる。


 外へ出ると、空はまだわずかに明るさを残していた。

 日が長くなったぶんだけ、退勤後の街には少し余白がある。

 けれど小夜の中では、ここ数日で見えてきたものが静かに積み重なっていた。


 危機管理室は、もうただの小さな部署ではいられないのかもしれない。

 見つけるだけでは足りない。

 集めるだけでも足りない。

 必要なときに止め、つなぎ、守るためには、それに見合う形が要る。


 その輪郭が、ようやく言葉になり始めていた。


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