第四十八話 飽和
週の半ばに入るころには、危機管理室の机の上から“単発”という感覚がほとんど消えていた。
新しく届く照会そのものは、相変わらず一件ずつ見れば大きくない。
外部からの確認依頼、関係部署を通した問い合わせ、運用上の一般論を知りたがるような曖昧な聞き方。どれも単独なら通常業務の範囲に見える。だが、それらを横に並べ、時期と内容を重ねていくと、無視できない偏りが浮かび上がってくる。
小夜は朝から一覧を開き、前日までに拾った記録へ新しい照会を追加していた。
件名、部署、問い合わせ元、要旨、返答の有無、共有の範囲。項目をそろえて並べるだけで、ばらばらだったものが少しずつ同じ色を帯び始める。
「おはようございます」
「おはよう」
澪が席に着きながら言った。
「増えた?」
「二件です」
小夜は画面を見たまま答える。
「どちらも単独なら普通ですけど、一覧に入れると少し寄ります」
「見せて」
澪は端末をのぞき込み、短く目を通した。
すぐに結論を出すのではなく、一度全体の並びに視線を戻す。その見方が、小夜には少しずつ分かるようになってきていた。
「……そうね」
澪は静かに言う。
「これも入れておいたほうがよさそう」
「はい」
「返答は?」
「片方は保留、もう片方は一般的な範囲で返してます」
「返したほう、文面残ってる?」
「あります」
「あとで見せて」
高橋もほどなく出勤し、三人は自然に昨日の続きへ入っていった。
もう誰も、これを一時的な洗い直しとは思っていなかった。記録を追えば追うほど、危機管理室が見ているのは一件の不審照会ではなく、複数部署に薄く散らされた接触の流れそのものだと分かってくる。
午前中、総務から共有依頼が一件入った。
内容は急ぎではない。だが、外部照会への返答基準について、現場から判断に迷う声が出ているという。
「もう出てきましたか」
小夜が言う。
「早いね」
澪は受話器を受け取りながら答えた。
「でも、自然だと思う」
「自然、ですか」
「今まで各部署で返していたものを、一度止めて見直してるから。迷いは増える」
「現場の負担も増えますね」
「増えると思う」
電話を切ったあと、澪は少し考えるように端末を見た。
「一覧を追うだけじゃ足りないかもしれない」
「といいますと?」
小夜が訊く。
「今は、来たものを拾って並べてる」
「はい」
「でも、それで室の手が埋まり始めてる」
その言葉に、小夜は思わず自分の机の上を見た。
印刷した記録、付箋のついた一覧、確認待ちのメモ。目の前の量だけでも、ここ数日で明らかに増えている。
高橋が画面を見たまま言う。
「通常業務も減ってないですからね」
「そう」
澪はうなずいた。
「止める、照合する、共有する、返答方針を決める。全部ここに集まり始めてる」
「今までは分散してた分が、こっちに来てる感じですね」
小夜が言う。
「ええ」
「そのほうが安全ではありますけど」
「安全にはなる」
澪は静かに答えた。
「ただ、今の形のままだと詰まるかもしれない」
その“詰まる”という言い方が、小夜の胸に残った。
破綻ではない。けれど、流れが細くなり、どこかで滞る気配がある。危機管理室はいま、まさにその手前にいるのかもしれなかった。
昼前、法務からも確認が入った。
外部照会のうち、どこまでを危機管理室へ共有対象とするのか、線引きをもう少し明確にしたいという相談だった。
「また線引きですか」
小夜がメモを取りながら言う。
「必要なんだと思う」
高橋が答える。
「現場からすると、全部上げろと言われても困る」
「でも、選別を現場任せにすると抜けますよね」
「抜ける」
「じゃあ、どうしたら」
「そこが今の問題だな」
澪は二人のやり取りを聞きながら、端末に何かを打ち込んでいた。
やがて顔を上げる。
「共有基準、段階を分けようか」
「段階、ですか」
小夜が訊く。
「うん。明確に危機管理に関わるもの、判断に迷うもの、通常照会として処理していいもの」
「三段階ですか」
「そのくらいが現実的だと思う」
「でも、その整理もこっちでやることになりますよね」
「なるね」
澪は苦笑に近い表情を浮かべた。
「だから、今ちょっと飽和しかけてる」
その言葉は冗談めいていなかった。
事実をそのまま置いたような、静かな響きだった。
小夜は一覧を見つめた。
照会は増えている。共有も増えている。判断を求められる場面も増えている。しかも、それは一時的な山ではなく、今後も続く前提で考えたほうがよさそうな流れだった。
午後、上層部へ上げるための整理が始まった。
前日までの報告は、反復的な照会傾向の把握が中心だった。だが今日は、それに加えて“現在の運用負荷”を明文化する必要が出てきていた。
「件数だけじゃ弱いですね」
小夜が言う。
「うん」
澪は答える。
「件数より、処理の重なり方を見せたい」
「重なり方?」
「照会対応だけじゃなくて、通常案件、共有整理、返答基準の調整、各部署からの相談」
「全部同時に来てる」
「そう」
澪は画面を見ながら続けた。
「一つひとつは小さくても、同時に抱えると室の容量を超え始める」
高橋が補足する。
「しかも、今は拾えてるから回ってるだけです」
「拾えなくなったら?」
小夜が訊く。
「抜ける」
高橋は短く言った。
「抜けたまま返されるか、共有されずに終わるか」
「どっちも避けたいね」
澪が言う。
「だから、今のうちに形を変える必要がある」
その言葉に、小夜は顔を上げた。
「形を変える、ですか」
「運用だけで吸収するのは、そろそろ厳しいと思う」
「人を増やすとかですか」
「それも一つ」
澪は少し間を置いた。
「でも、人だけの問題でもないかな」
「権限ですか」
高橋が訊く。
「うん」
澪はうなずく。
「今の危機管理室って、実際には横断で見てるのに、仕組みとしてはそこまで強くない」
「お願いして集める形ですもんね」
小夜が言う。
「そう。協力があるから回ってるけど、制度としては細い」
「細いまま量だけ増えてる」
「その状態が、いちばん危ないと思う」
室内が少し静かになった。
誰も大げさなことは言っていない。けれど、今ここで話しているのは、単なる忙しさではなかった。
危機管理室という器そのものが、扱うものに対して小さくなり始めている。
その感覚が、三人のあいだでほとんど共有されていた。
夕方前、総務から再度連絡が入った。
現場向けの共有文面だけでは判断しきれず、結局、個別相談が増えているという。
「そうなりますよね」
小夜が受話器を置く。
「文面で全部は切れない」
高橋が言う。
「現場は具体例を欲しがる」
「具体例を増やせば増やすほど、今度は例外が出る」
澪が続けた。
「だから本当は、相談を受ける側の体制を厚くしたほうが早い」
「でも、今は厚くない」
「うん」
澪はそこで言葉を切り、机の上の資料を軽くそろえた。
それから、いつもより少し低い声で言う。
「今回の件、相手が誰かを追うのも大事だと思う」
小夜は顔を上げた。
「はい」
「でも、それ以上に、今の体制でどこまで持つかを見たほうがいい」
「……持たない可能性があるからですか」
「あると思う」
澪ははっきり言った。
「少なくとも、このまま増えたら厳しい」
高橋が静かにうなずく。
「犯人が分かっても、別の形でまた来ますからね」
「そう」
澪は答える。
「誰が見ていたかより、見られていたときにどう守るかのほうが先かもしれない」
その言葉に、小夜は前回から続く流れが、ようやく一つの形になった気がした。
これは犯人探しの話ではない。
危機管理室が、今のままの大きさで抱えられる範囲を超え始めているという話だ。
夜、上層部向けの整理案がまとまった。
反復的な照会傾向の存在。
それに伴う横断照合の必要性。
各部署からの相談増加。
返答基準の調整負荷。
そして、現行の危機管理室体制では、継続的な集約と判断を安定して担うには限界が近いこと。
小夜は最後の一文を見て、少しだけ息を止めた。
そこには、これまでの案件報告とは違う重さがあった。起きた事象を伝えるだけではなく、組織の形そのものに触れ始めている。
「これで出しますか」
高橋が訊く。
「出そうか」
澪は答えた。
「少し早いかとも思ったけど、遅いよりいいと思う」
「反応、ありますかね」
小夜が言う。
「あると思う」
「いい方向に?」
「そこは分からない」
澪は小さく息をついた。
「でも、今のままで回る前提では見ないほうがいい」
端末を閉じるころには、外はすっかり暗くなっていた。
今日一日で何かが決まったわけではない。けれど、危機管理室の中では確かに一つの認識が固まりつつあった。
拾うべきものは拾えている。
止めるべきものも、まだ止められている。
だが、それは今の人数と今の仕組みで、ぎりぎり持ちこたえているだけだ。
小夜は退勤前にもう一度一覧を見た。
増え続ける記録は、ただの件数ではなかった。
危機管理室に集まり始めた負荷そのものだった。
外へ出ると、夜気は乾いていて、妙に音が遠かった。
空を見上げても、何かが変わったようには見えない。
それでも小夜には分かる。
見えてきた線は、もう一件ずつ処理して終われるものではない。
静かに積み上がったものが、今の器を満たし始めている。
飽和は、突然起こるわけではない。
気づいたときには、もう手前まで来ている。
そのことだけが、夜の冷たさよりもはっきりと胸に残っていた。




