第四十五話 余波
今回の件がいったん収束してから三日ほど経っても、危機管理室の空気は完全には元に戻らなかった。
表向きには落ち着いている。
例の問い合わせ元から新たな接触はなく、関係部署への共有も済み、窓口の一本化も機能していた。少なくとも、同じ手口で薄く探られることは当面ないはずだった。
それでも、小夜は朝の端末を開くたび、以前より少しだけ慎重に受信トレイを見るようになっていた。
何かが起きたあとではなく、起きる前に拾う。
今回の件で、危機管理室が本当に見ているのはそこなのだと、改めて思い知らされたからだ。
その朝も、特別な案件は入っていなかった。
定例の報告、確認依頼、他部署からの照会。どれも通常の範囲に見える。小夜は一つずつ内容を確認し、必要なものを振り分けていく。
「おはよう」
高橋が入ってきて、自席に鞄を置いた。
「おはようございます」
「何か来てる?」
「急ぎはなさそうです」
「そう」
短く返しながら、高橋は椅子を引いた。座る前に、いつものように首の後ろへ手をやる。その仕草を見て、小夜は一瞬だけ視線を止めた。
ここ数日、何度か見ている動きだった。
疲れているようにも見える。けれど、それだけではない気もする。
前の件で引っかかりを覚えたときも、高橋は同じように首元へ触れていた。
「どうした」
視線に気づいたのか、高橋が言う。
「いえ……」
小夜は少し迷ってから続けた。
「首、痛いんですか」
「別に」
高橋はあっさり答えた。
「癖みたいなもん」
「そうですか」
「気になる?」
「少し」
高橋はそれ以上は何も言わず、端末を立ち上げた。
小夜も自分の画面に視線を戻したが、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
午前のうちに、澪が関係部署との見直し結果を持ってきた。
今回の件を受けて、照会対応の整理案がまとまったらしい。
「共有するね」
澪が言う。
「今後、危機管理に関わる照会は、内容の軽重にかかわらず一度ここを通してほしい」
「全部ですか」
小夜が訊く。
「うん、全部」
「現場の負担、増えませんか」
「負担は増えると思う」
澪は資料を机に置いた。
「でも、抜けが出るよりはいいはず」
高橋が資料を受け取りながら言う。
「各部署は納得しました?」
「全員がすぐ納得、という感じではないかな」
澪は淡々と答えた。
「でも、今回の件で説明はしやすくなった。単発だと小さく見えても、重なると危ない。その認識は持ってもらえたと思う」
小夜は資料に目を通した。
照会の受付方法、記録の残し方、共有のタイミング、判断に迷った場合のエスカレーション先。どれも派手ではないが、今回の件で足りなかった部分を埋める内容になっている。
「小夜」
「はい」
「この一覧、見やすく整えて。現場向けに言い換えてもいい」
「分かりました」
資料を受け取りながら、小夜は少しだけ背筋を伸ばした。
これまでは、決められた流れの中で動くことが多かった。だが今は、流れそのものを整える側に少し足をかけている。
午後、各部署へ回す共有文面の調整が始まった。
言い方が強すぎれば反発を招く。弱すぎれば意味がない。澪は文面を短く削り、高橋は実務上の抜けを拾い、小夜は現場が読みやすい形に整えていく。
「ここ、“必ず危機管理室へ連携”だと固いですね」
小夜が言う。
「“判断に迷う場合を含め、危機管理室へ共有”のほうが現場は動きやすいかも」
「いいと思う」
澪が答える。
「その表現に変えておいて」
「はい」
高橋が画面を見たまま言う。
「禁止だけ並ぶと、結局読まれないんですよね」
「そうね」
澪が返す。
「だから、手順として分かる形にしておきたい」
「迷ったらここ、で止める感じですか」
「うん。迷ったらここで止める、が伝われば十分」
そのやり取りを聞きながら、小夜は少し不思議な気持ちになっていた。
危機管理室の仕事は、何か起きたときに前へ出ることだと思っていた。けれど実際には、起きないように流れを整える時間のほうがずっと長い。
夕方前、共有文面がほぼ固まったところで、情報管理部から一本の連絡が入った。
内容自体は緊急ではない。外部からの問い合わせ対応について、念のため確認したい点があるというだけだった。
小夜が受けて、必要事項を聞き取る。
それは今回の件とは直接関係のない、よくある確認に見えた。だが、話を聞き終えたところで、隣から椅子のきしむ音がした。
見ると、高橋がわずかに眉を寄せていた。
首の後ろに手をやり、何かを考えるように黙っている。
「高橋さん?」
「……いや」
「何かありますか」
「まだ分からない」
その言い方に、小夜は受話器を置く手を止めた。
「何がですか」
「引っかかるだけ」
「今回の件と関係あります?」
「断定はできない」
澪が二人のほうを見た。
「何かあった?」
高橋は少し間を置いてから答えた。
「情報管理からの確認、内容は普通です」
「うん」
「でも、タイミングが少し気になります」
「どのあたりが?」
「今この時期に、その確認をわざわざ入れるかっていう」
小夜はさっき聞き取った内容を思い返した。
確かに不自然とまでは言えない。だが、急ぎではない確認を、共有文面の調整をしているこの日に重ねてきたのは、少しだけ妙だった。
「ひとまず記録だけ残しておこうか」
澪が言う。
「関連不明のままでいい。今の段階では切らなくていいと思う」
「はい」
小夜はすぐにメモを開いた。
高橋はそれ以上何も言わなかった。
ただ、首元に触れたまま、しばらく画面を見ていた。
その横顔を見ながら、小夜は思う。
やはりあの仕草は、ただの癖ではないのかもしれない。
前の件で違和感を拾ったときもそうだった。
今日もまた、何かを言葉にする前に、先に身体が反応しているように見える。
もちろん、証拠はない。
ただの思い込みかもしれない。
けれど危機管理室に来てから、小夜は何度も学んでいた。
最初の違和感は、たいてい説明より先に来る。
夜、共有文面の最終版を送信し終えたあと、澪が端末を閉じた。
「今日はここまでにしようか」
「はい」
小夜も保存を終える。
「明日から運用に乗せる」
「現場、混乱しませんか」
「最初は少しあるかもしれない」
澪は言った。
「でも、慣れれば回ると思う」
「回らなかったら?」
高橋が訊く。
「そのときは、回る形に直していけばいい」
その答えが、いかにも澪らしかった。
退勤の支度をしながら、小夜は昼間のことを思い返していた。
情報管理からの確認。
高橋の反応。
首元へ伸びた手。
言葉になる前の、あのわずかな間。
エレベーターを待つあいだ、思い切って訊いてみる。
「高橋さん」
「何」
「今日の、何が引っかかったんですか」
「説明しにくい」
「感覚ですか」
「たぶん」
「前のときも、そうでしたよね」
高橋は答えず、閉まったままの扉を見ていた。
やがて、低い声で言う。
「たまにあるんだよ」
「何がですか」
「まだ形になってないのに、嫌な感じだけ先に来ること」
「……それ、当たるんですか」
「外れることもある」
否定ではなかった。
小夜は息をのんだ。
冗談を言っているようには見えない。けれど、真顔で受け取るには曖昧すぎる言葉だった。
「じゃあ今日も」
「分からない」
高橋は短く言った。
「分からないけど、記録しとくのは無駄じゃない」
そこでエレベーターの扉が開いた。
三人で乗り込み、誰もすぐには口を開かなかった。
一階に着く直前、澪が静かに言う。
「感覚でも、残す価値があるなら残しておいていい」
小夜は顔を上げた。
「危機管理って、そういうところもあるから」
扉が開く。
外へ出ると、昼間より少し風が強くなっていた。
今回の件は終わった。けれど、終わったからこそ見えるものがある。整えるべき流れ。拾うべき違和感。そして、まだ形になっていない何かの気配。
小夜は夜道を歩きながら、胸の奥に残る小さなざわめきを確かめる。
次に何かが来るとしたら、それはもう、前と同じ形ではないのかもしれない。
そんな予感だけが、静かに残っていた。




