第四十二話 兆候
正式配属から一年が経った頃には、小夜も危機管理室の空気に慣れていた。澪は"小夜"と呼ぶようになるほど近い存在になっていた。
朝いちばんにメールを開き、急ぎの案件を振り分け、他部署からの照会に答え、必要な記録を残す。何かが起きたときだけが仕事ではない。何も起きていないように見える時間を、どれだけ丁寧に積み重ねられるかで、その先の対応が変わる。そういう部署なのだと、今では分かっている。
その朝も、いつもと変わらない始まりだった。
小夜は受信トレイを開き、上から順に件名を追っていく。定例の報告、確認依頼、他部署からの照会。急ぎの案件は見当たらない。ひとまず息をつきかけたところで、一通のメールに目が止まった。
総務部の共有アドレスから転送されてきた確認依頼だった。
ある問い合わせについて、過去の取扱履歴を確認したいというだけの内容だ。件名も文面も事務的で、急ぎを示す言葉もない。普段なら、必要な記録を当たって返せば終わる。
だが、問い合わせ元の法人名に見覚えがあった。
どこで見たのかは思い出せない。資料整理のときか、過去の照会一覧か、それとも別の記録か。ただ、見たことがあるという感覚だけが残った。
小夜はもう一度、画面を上から下まで読み返した。
法人名、担当者名、連絡先、照会内容。
どれも単体で見ればおかしくない。だが、胸の奥に小さな引っかかりが残る。
首の後ろに手をやりながら、高橋がこちらを見た。
「どうした」
小夜は画面を少し向けた。
「この名前、前にも見た気がして」
「見せて」
高橋は小夜の手元をのぞき込み、本文を一通り読んだ。首筋に触れたまま、わずかに眉を寄せる。
「……ああ」
「高橋さんもですか」
「たぶんな。過去の記録、当たってみる」
そう言って自席へ戻る背中を見送りながら、小夜は小さく息をついた。自分だけの思い違いではなかったらしい。
しばらくして澪が出勤した。
高橋はその件を簡潔に伝え、メールを共有する。澪は画面を見終えると、表情を変えないまま言った。
「履歴を洗って」
「今やってます」
「小夜」
「はい」
「引っかかった理由、あとでまとめて」
「……はい」
理由といっても、まだ曖昧だ。
それでも澪は、こういう違和感を切り捨てない。証拠になる前の感覚を、最初から無視しない人だと、小夜はこの一年で知っていた。
午前のあいだ、表向きには何事もなく時間が過ぎた。
電話に出て、照会に答え、記録を残す。危機管理室の仕事は、何かが起きた瞬間だけでできているわけではない。むしろ、何も起きていないように見える時間の積み重ねで成り立っている。
昼前、高橋が画面を見たまま低く言った。
「あった」
小夜と澪が同時に顔を向ける。
高橋の画面には、過去の照会記録がいくつか並んでいた。件名も担当部署もばらばらだが、問い合わせ元の法人名が一致している。表記揺れで拾えていなかった分まで含めると、思ったより数があった。
「単発なら流れる程度です」
高橋が言う。
「でも、並べると偏ってる」
澪が席を立ち、画面をのぞき込んだ。
「時期が寄ってる」
「はい」
「照会先も」
「危機管理に近い部署ばかりですね」
小夜も画面を見つめた。
どれも小さい記録だった。単独なら、誰も気に留めないかもしれない。だが、こうして並ぶと意味が変わる。
「偶然にしては寄りすぎてる」
澪が言った。
その一言で、室内の空気が変わった。
午後、小夜は指示を受けて問い合わせ元の公開情報と社内接点を整理した。法人情報に不自然な点はない。事業内容も表向きは整っている。だが、過去の照会履歴と合わせると、必要なところだけを薄く探っているように見えた。
夕方、総務から追加の連絡が入った。
同じ問い合わせ元から、再確認が来ているという。
今度は履歴の有無だけでなく、担当部署の運用にも触れていた。
「範囲を広げてきた」
澪が言う。
「探ってる感じですね」
高橋が返す。言いながら、また無意識のように首の後ろへ手をやる。
「まだ露骨じゃない。でも、意図はある」
小夜は黙って画面を見た。
最初の一通だけなら、ただの確認依頼で済んだかもしれない。だが、二通目で輪郭が変わった。相手は何かを知りたいのだ。しかも、知り方を変えながら。
「今日はここまでで整理する」
澪が言った。
「高橋さんは記録を一覧化して。小夜は引っかかった点をメモにして」
「主観でもいいですか」
「いい。最初の違和感は、主観からしか拾えないことがある」
小夜は自席に戻り、メモを開いた。
問い合わせ元の名称に見覚えがあったこと。
過去記録と並べると偏りが見えること。
照会先が危機管理に近い部署に寄っていること。
再確認で運用面に触れてきたこと。
最後に少し迷って、一文を足した。
偶然ではない気がする。
送信すると、澪からすぐに返信が来た。
了解。明日、照合する。
短い文面だったが、それで十分だった。
この件は、今日だけで終わらない。
退勤時刻を少し過ぎて外に出ると、空はもう暗くなりかけていた。高橋がエレベーターを待ちながら言う。
「考えすぎるなよ」
「難しいです」
「だろうな」
隣で澪が静かに言った。
「明日、もう少しはっきりするはず」
「はい」
「でも、偶然じゃない可能性は見ておく」
小夜はうなずいた。
まだ何も起きていない。
けれど、何も起きていないと言い切るには、今日の違和感は小さすぎなかった。
偶然ではないかもしれない。
その感覚だけが、帰り道のあいだも胸の底に残り続けていた。




