第四十一話 担当
正式な通知が出たのは、その週の終わりだった。
柿谷小夜の危機管理室配属。
仮ではなく、正式なものとして。
短い文面だった。
けれどそれは、この一か月余りを一時的な措置ではなくするには十分だった。
総務への引き継ぎはすでに進んでおり、小夜の机の上からも、元の部署に関わる書類は少しずつ減っていた。
代わりに増えていくのは、危機管理室の案件整理表と対応履歴、共有フォルダの更新一覧。
見慣れたはずのそれらが、今日は少しだけ違って見えた。
「おはようございます」
朝、小夜が席に着くと、高橋がいつもの調子で片手を上げた。
「おはよう。正式決まりましたね」
「……はい」
「改めてよろしくお願いします、かな」
軽く言われて、小夜は少しだけ笑う。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「うん。まあ、今さら感あるけど」
高橋はそう言って端末を立ち上げた。
たしかに、今さらなのかもしれない。
もう一か月以上ここで働いてきた。業務の流れも、人の動きも、以前よりは分かる。
それでも、正式に決まったという事実は、やはり別の重みを持っていた。
午前中の確認を終えた頃、澪が小夜の席の前で足を止めた。
「柿谷さん、少しいいですか」
「はい」
小夜が立ち上がると、澪は会議室ではなく、そのまま共有スペースの端へ歩いた。
周囲に人はいるが、業務の話をするには十分な距離だった。
「今日から、担当の持ち方を変えます」
澪は手元のファイルを一枚差し出した。
「この案件を持ってください」
小夜は受け取った資料に目を落とす。
社内の複数部署にまたがる確認案件だった。緊急性は高くないが、記録整理と照会対応、最終的な報告の取りまとめまで必要になる。
「これを、私がですか」
「はい」
「確認補助ではなく、担当として進めてください」
その言葉に、胸の奥がわずかに緊張する。
「もちろん、判断に迷う点は確認して構いません。ただし、最初の整理と進行管理は自分で持ってください」
「……分かりました」
澪は小夜の返答を聞いて、淡々と続ける。
「高橋さんは補助に入れますが、主担当はあなたです」
それだけ言って、澪は自席へ戻っていった。
小夜は手元の資料を見つめたまま、数秒動けなかった。
担当。
補助ではなく。
正式配属になった以上、いつかはそうなると分かっていた。
けれど、実際に案件を渡されると、その重みは想像よりずっとはっきりしていた。
席に戻ると、高橋が画面越しにこちらを見る。
「来ました?」
「……はい」
「どれですか」
小夜が資料を見せると、高橋は一目見て「ああ」とうなずいた。
「最初にしてはちょうどいいかも」
「ちょうどいい、ですか」
「重すぎず、でも一通りあるから。整理して、照会して、まとめる流れが全部入ってる」
高橋はそう言ってから、少しだけ声をやわらげた。
「大丈夫。ちゃんとやれば回せるやつです」
励ましなのだと分かる言い方だった。
小夜は小さくうなずき、端末を開く。
まずは資料の全体を確認する。
発端になった報告、関連部署、過去の類似案件、現在止まっている確認事項。
必要な情報を抜き出し、時系列を整理し、誰に何を確認するべきかをメモに落としていく。
これまでも似た作業はしてきた。
ただ違うのは、今回は自分が“見つける側”ではなく、“進める側”だということだった。
昼前、小夜は最初の照会文面を作成し、高橋に確認を頼んだ。
「すみません、これで問題ないでしょうか」
「見ます」
高橋は画面をのぞき込み、数行読んでから言う。
「うん、ほぼ大丈夫」
小夜は少しだけ肩の力を抜く。
「ただ、ここだけかな。確認事項が二つあるなら、分けて書いたほうが相手が返しやすい」
「あ……はい」
「あと、期限も入れたほうがいいです。急ぎじゃなくても、目安ないと止まりやすいから」
「分かりました」
高橋はそれ以上手を出さず、椅子を戻した。
「直したらそのまま出して大丈夫です」
前なら、もっと細かく整えてくれていたかもしれない。
けれど今日は違う。
必要なところだけ示して、あとは小夜に任せている。
それが少し心細くて、同時にありがたかった。
午後、照会先の一つから返答が来た。
内容自体は想定の範囲内だったが、添付された記録に一か所だけ時系列のずれがある。
小夜は資料を見比べ、前後の履歴を確認し、もう一度元の報告に戻った。
入力ミスか。
それとも認識違いか。
少し迷った末、小夜は先に追加確認を入れることにした。
断定せず、事実だけを並べて確認する文面を作る。
送信前に一瞬だけ手が止まる。
これでいいのかという不安がよぎる。
けれど今回は、自分が担当だ。
小夜はそのまま送信した。
夕方までに必要な返答がそろい、案件の輪郭が見えてきた。
大きな問題ではない。部署間で記録の持ち方が少しずれていたことが原因で、報告書の表現を一部修正すれば済む内容だった。
小夜は整理した内容を報告用にまとめ、澪へ確認を依頼した。
しばらくして、澪が小夜の席まで来る。
「見ました」
小夜は姿勢を正した。
「はい」
「進め方に問題はありません」
短い言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなる。
「一点だけ、結論を先に置いてください。読む側は経緯より先に判断を知りたいので」
「分かりました」
「それ以外はこのままで構いません。修正後、提出してください」
「はい」
澪はそこで終わらず、もう一言だけ付け加えた。
「初回としては十分です」
小夜は一瞬、言葉を失った。
「……ありがとうございます」
澪は小さくうなずき、そのまま離れていく。
高橋がその背中を見送りながら、小声で言った。
「今の、かなりいい評価ですよ」
「そうなんですか」
「うん。普通に」
高橋は笑う。
「ちゃんと自分で回してたし」
小夜は画面に向き直りながら、静かに息をついた。
大きな案件ではなかった。
劇的なことが起きたわけでもない。
それでも、自分で持って、自分で進めて、最後まで形にした。
その事実は思っていたより重く、確かな手応えとして残っていた。
終業後、机の上を整えながら、小夜は朝受け取った資料のことを思い返す。
担当として進めてください。
その言葉を聞いたときの緊張は、まだ完全には消えていない。
けれど今は、それだけではなかった。
怖さはある。
間違えたくないとも思う。
それでも、自分がこの部署の仕事を持つ側に回ったのだという実感が、少しずつ形になってきていた。
帰り際、高橋が鞄を持ちながら声をかける。
「今日はお疲れさまでした」
「お疲れさまです」
「初担当の日としては、かなりよかったんじゃないですか」
「まだ確認していただいてばかりでした」
「最初から全部一人でやる人いないですよ」
高橋は笑って続ける。
「でも、もう“補助の柿谷さん”ではなかったですね」
その言葉に、小夜は少しだけ足を止めた。
補助の柿谷さんではない。
それは、今日一日のことをいちばん正確に表している気がした。
小夜は小さくうなずく。
「……はい」
危機管理室に残ると決めた日から、少しずつ現実になっていたものがある。
今日、それは初めてはっきりと手触りを持った。
もう、自分はここで補助的に置かれているだけではない。
危機管理室の一員として、仕事を持つ側に立っている。
その事実を、今はまだ静かに受け止めるので精一杯だった。




