第四十話 返答
面談のあと、数日が過ぎた。
小夜はいつも通り危機管理室で仕事をしていた。
資料を確認し、履歴を見直し、必要な連絡を返す。手は動く。けれど頭のどこかには、ずっと同じ問いが残っていた。
総務へ戻るか。
このまま危機管理室に残るか。
考えないようにしても、ふとした瞬間に意識が向く。
朝、席に着いたとき。高橋に声をかけられたとき。澪から確認を頼まれたとき。
そのたびに、自分がこの場所をもう“仮の席”としては見ていないことに気づかされる。
昼前、総務から回ってきた資料の確認を終えたところで、高橋が小さく声をかけてきた。
「篠宮さん、午後ちょっと時間取るみたいですよ」
小夜は顔を上げた。
「……はい」
「たぶん、あの件だと思う」
あの件。
言い換えなくても分かった。
「まだ決めきれてないなら、そのまま言っても大丈夫だと思うけど」
高橋は気遣うように言ったが、小夜は小さく首を振った。
「いえ……たぶん、もう決めています」
「そっか」
高橋はそれ以上聞かなかった。
その距離感がありがたかった。
午後、澪に呼ばれて会議室へ入る。
前回と同じ席に座ると、澪は無駄な前置きなく口を開いた。
「考えはまとまりましたか」
小夜は膝の上で手を重ねた。
一度息を整えてから、顔を上げる。
「……危機管理室に残りたいです」
言葉にした瞬間、胸の奥が静かに震えた。
澪は表情を変えずに小さくうなずく。
「理由を聞いてもいいですか」
「はい」
小夜は少しだけ迷い、それでも言葉を選びながら続けた。
「最初は、仮配属として置かれているだけだと思っていました。実際、その通りだったと思います」
澪は黙って聞いている。
「でも、この一か月ここで仕事をして、危機管理室で求められることや、自分にできることが少しずつ分かってきました」
言いながら、自分の中でも輪郭がはっきりしていく。
「総務でやってきたことが役立つ場面もありましたし、逆に、ここでしか見えないこともありました」
小夜は一度言葉を切った。
「まだ十分にできているとは思っていません。でも、もっとここで仕事を覚えたいと思いました」
それが、今のいちばん正直な気持ちだった。
戻るのが嫌なわけではない。
総務を否定したいわけでもない。
ただ、それでもなお、ここにいたいと思った。
澪は数秒だけ小夜を見つめ、それから静かに口を開く。
「分かりました」
短い返答だった。
「こちらとしても、継続配置が妥当だと考えています」
小夜はわずかに目を見開く。
「正式な手続きはこれからですが、方向としてはその認識で進めます」
「……はい」
「総務側との調整はこちらで行います」
澪はそこで一度言葉を区切った。
「なお、これは保護目的の延長ではありません」
小夜の指先がわずかに強張る。
「当初の観察目的はいったん区切ります。そのうえで、業務上必要な配置として扱います」
その言葉は、思っていた以上にまっすぐ胸に入ってきた。
守るためではなく。
様子を見るためでもなく。
必要な配置として。
「理解しました」
声が少しだけ硬くなったのを、自分でも感じた。
澪はそれ以上感情を重ねず、事務的に今後の流れを説明した。
正式通知の時期、総務への引き継ぎ、危機管理室内での担当の見直し。
話は淡々と進んだが、小夜の胸の内では、静かな波が何度も返していた。
会議室を出ると、高橋が自席からちらりとこちらを見た。
小夜が戻ると、声を潜めて聞いてくる。
「どうでした?」
「……残ることになりそうです」
高橋の表情が少しやわらぐ。
「そっか」
「まだ正式ではないそうですが」
「いや、でもそれならほぼ決まりだね」
高橋はそう言って、小さく笑った。
「よかった」
その一言が意外で、小夜は少しだけ目を瞬かせた。
「よかった、ですか」
「うん。普通に助かるし」
あまりにも高橋らしい言い方で、小夜は思わず少し笑ってしまう。
「それに、柿谷さんもうここで動いてる感じだったから。今さら戻るって言われても、こっちが困る」
「そんな言い方……」
「でも本音」
高橋は肩をすくめた。
「まあ、ちゃんと自分で決めたならそれが一番いいよ」
小夜はその言葉に、静かにうなずいた。
自分で決めた。
たしかにそうだった。
異動も仮配属も、自分の意思だけで決まったことではない。
けれど、今回は違う。
少なくとも最後の返答は、自分で選んだ。
終業後、机の上を整えながら、小夜はふと総務にいた頃のことを思い出した。
慣れた流れ。知っている仕事。自分の立ち位置が分かる場所。
そこへ戻る道も、たしかにあった。
それでも選ばなかったのは、危機管理室での一か月が思っていた以上に自分の中へ入っていたからだ。
緊張もあった。戸惑いもあった。けれど同時に、ここで働く自分を少しずつ現実のものとして受け入れていた。
帰り際、澪が小夜の席の前で足を止めた。
「柿谷さん」
「はい」
「正式な通知が出るまでは現行のままですが、担当の持ち方は少しずつ変えます」
「分かりました」
「補助ではなく、担当として見ます」
小夜は息をのんだ。
「……はい」
「必要な確認はこれまで通り行ってください。ただし、自分で持つ意識を持ってください」
「はい」
澪は短くうなずき、そのまま離れていく。
補助ではなく、担当として。
その言葉の重みを、小夜は静かに受け止めた。
残ると決めた以上、もう“仮だから”ではいられない。
けれど不思議と、怖さだけではなかった。
むしろようやく、自分の立つ場所が定まったような感覚があった。
窓の外は、もう夕暮れに変わっていた。
小夜は鞄を持ち、席を立つ。
危機管理室に残る。
その選択は、まだ始まりでしかない。
それでも今日、自分の口で返した言葉は、確かにこれから先へつながっていた。




