第三十九話 判断
小夜が危機管理室に仮配属されてから、一か月ほどが過ぎていた。
表向きには、大きな変化はなかった。
藤崎から小夜への直接の接触はない。
総務経由の不自然な問い合わせも、部署をまたいだ不審な動きも、少なくとも表に出る形では確認されていなかった。
それ自体は、悪いことではない。
むしろ当初の目的からすれば、何も起きないことが一番望ましい。
ただ、何も起きなかったからといって、すべてが終わったと断定できるほど単純でもなかった。
その日の夕方、小夜は澪に呼ばれ、会議室へ入った。
中には澪と高橋がいた。
普段の業務確認とは少し違う空気に、小夜は無意識に背筋を伸ばす。
「座ってください」
澪に促され、小夜は静かに椅子に腰を下ろした。
正面に座った澪は、いつも通り落ち着いた表情のまま口を開く。
「仮配属から一か月が経ちましたので、現時点での整理をします」
「……はい」
やはり、その話だった。
「まず、当初の目的についてです」
小夜はわずかに息を止めた。
「柿谷さんを危機管理室に置いた理由は、業務補助だけではありませんでした」
澪の声は淡々としていた。
「藤崎からの接触、あるいはそれに準ずる動きがあるかどうかを見ていました」
小夜は視線を落とした。
分かっていたことだった。けれど、こうして改めて言葉にされると、胸の奥が少し硬くなる。
「現時点で、明確な接触は確認されていません」
澪は続ける。
「直接的な働きかけも、不自然な照会も、こちらで把握している範囲ではありません」
高橋も隣で静かにうなずいた。
「だからといって、完全に懸念が消えたとは言い切れませんが、少なくとも当初想定していたような動きは見られなかった、というのが現状です」
小夜は小さくうなずいた。
何もなかった。
それは安心していいことのはずだった。
けれど同時に、自分がこの一か月、ただ仕事を覚えていたわけではなく、見られてもいたのだと改めて意識させられる。
「次に、業務面です」
澪は手元の資料に目を落とした。
「こちらについては、高橋さんから」
「はい」
高橋は少しだけ空気を和らげるように声の調子を変えた。
「業務面で言うと、もう普通に回ってます」
小夜は思わず顔を上げる。
「総務との接続が必要な確認はもちろんだけど、こっちの記録整理とか、履歴の見方とかもだいぶ安定してる。確認の精度も高いし、変に急がないから抜けも少ないです」
「……ありがとうございます」
「いや、これはほんとに。最初の補助って感じはもうあんまりないかな」
高橋の言葉はやわらかいが、内容ははっきりしていた。
小夜は返事をしながらも、少しだけ戸惑っていた。
自分では、まだようやく流れについていけるようになった程度だと思っていたからだ。
澪がそのまま話を引き取る。
「以上を踏まえて、配置をどうするかを判断する段階に来ています」
会議室の空気が少しだけ張る。
「選択肢は二つです。予定通り総務へ戻るか、このまま危機管理室での配置を継続するか」
小夜は膝の上で手を組んだ。
「現時点では、どちらもあり得ます」
澪の言葉は公平だった。
「観察目的だけで言えば、いったん区切ることは可能です。一方で、業務上は継続の合理性があります」
合理性。
その言い方が、かえって澪らしかった。
「ただし」
澪は小夜を見る。
「今回は、本人の意向も確認します」
「私の、ですか」
「はい。もともと一時的な措置として始めた配置です。継続するなら、本人の意思を無視して進めるべきではありません」
小夜はすぐには答えられなかった。
総務へ戻る。
それが元の形だ。
危機管理室に残る。
それは、この一か月を一時的なものではなくするということだ。
どちらも現実味を持って目の前に置かれると、思っていた以上に簡単ではなかった。
「すぐに結論を出す必要はありません」
澪が言う。
「数日中に考えを聞かせてください」
「……はい」
「なお、どちらを選んでも評価には影響しません。必要なのは、現時点でどこに置くのが最も適切かという判断です」
その言葉は配慮でもあり、同時に逃げ道を塞ぐものでもあった。
気を遣って曖昧にされるより、ずっと誠実だった。
面談が終わり、小夜が会議室を出ると、高橋が後から廊下に出てきた。
「大丈夫?」
「……はい」
そう答えたものの、自分でも少し曖昧だった。
高橋は苦笑する。
「まあ、大丈夫じゃなくなるよね。ああいう話されると」
小夜は小さく息をついた。
「観察のためだった、って改めて聞くと……少し変な感じがします」
「うん」
「分かっていたつもりだったんですけど」
「つもりと、ちゃんと聞くのは違うからね」
高橋は壁に軽く寄りかかった。
「でも、何もなかったのはいいことだよ」
「はい」
「それに、今ここで残るか戻るかの話になってるのは、もうそれだけの理由じゃないってことでもあるし」
小夜は黙ったまま、その言葉を受け止めた。
最初は、守るためだった。
近くに置いて、様子を見るためだった。
けれど今は、それだけではない。
危機管理室での一か月が、ただの避難ではなくなっている。
そのことが、少しだけ胸を締めつけた。
「柿谷さんがどうしたいか、ちゃんと考えていいと思うよ」
高橋は静かに言った。
「最初のきっかけがどうだったかとは、もう別の話になってるから」
その言葉に、小夜はすぐには返事ができなかった。
別の話。
本当にそうなのだろうか、と一瞬思う。
けれど、完全に否定もできなかった。
この一か月、自分はただ守られていただけではない。
仕事を覚え、任され、ここで動いてきた。
その実感は、もう確かにある。
帰り道、小夜は駅までの道をゆっくり歩いた。
藤崎から接触はなかった。
それなら、もう総務へ戻るべきなのかもしれない。
そう考える一方で、胸のどこかが静かに引っかかる。
危機管理室で働くことが、いつの間にか自分の中で重みを持っていた。
最初は仮の場所だったはずなのに、今はもう、ただの一時避難とは思えない。
戻るのが自然なのか。
残りたいと思うことのほうが、もう自然なのか。
まだ答えは出ない。
けれど少なくとも、小夜はもう知っていた。
この一か月が、自分にとってただの空白ではなかったことを。
そして今問われているのが、単なる配置ではなく、自分がこれからどこで働くのかという選択なのだということを。




