第三十八話 前進
危機管理室での二日目、小夜は前日より少しだけ肩の力を抜いて席に着いた。
まだ慣れたとは言えない。けれど、どこに何があるのか、誰がどんな流れで動いているのか、その輪郭は昨日より見えていた。
始業してほどなく、高橋がマグカップを片手にやってくる。
「おはよう。昨日よりちょっと顔やわらかいね」
「そうでしょうか」
「うん。昨日はもう、見るからに初日って感じだったし」
からかうような口調に、小夜は少しだけ困ったように笑った。
「そんなに出てましたか」
「出てた出てた。でも今日はだいぶまし」
高橋はそう言って、自分の席に戻っていった。
そのやり取りだけで、少し気持ちが軽くなる。
午前中、小夜は昨日の続きで対応履歴の整理をしていた。
表記の揺れを整え、記載漏れを確認し、関連資料との紐づけを見直していく。地道な作業だが、やればやるほど、この部署が何を重視しているのかが見えてくる。
記録は、ただ残すためのものではない。
次に同じことが起きたとき、迷わず動くためのものだ。
画面に向かっていた小夜は、共有フォルダ内の案件名にふと目を止めた。
同じ種類の問い合わせなのに、年度によって分類の仕方が少し違う。記録の検索性に関わる部分だった。
少し迷ってから、高橋に声をかける。
「あの、高橋さん」
「ん?」
「この案件名の付け方なんですけど、年度で少し揺れてます」
高橋が椅子を寄せて画面をのぞき込む。
「あー……ほんとだ」
「検索するとき、少し拾いにくいかもしれません」
「それはありそう。気づかなかったな」
高橋は画面を見たまま少し考え込んだ。
「これ、今すぐ全部直すのは大変だけど、ルールだけ先に揃えたほうがよさそうだね」
「はい。今後増える分だけでも統一したほうが、あとで見やすいと思います」
「うん、それいいね」
高橋はそのまま立ち上がり、澪の席へ向かった。
「篠宮さん、ちょっといいですか。案件名の付け方、年度で揺れてるのあって」
澪が顔を上げる。
「どのあたりですか」
「同種案件で分類名が少しずつ違ってます。検索性に影響しそうで」
澪は小夜の画面を確認し、短くうなずいた。
「統一ルールを作りましょう。過去分は優先度を見て段階的に修正で」
「分かりました」
高橋が振り返る。
「ってことで、あとで一緒に案考えてもらっていい?」
「はい」
自然にそう言われて、小夜は一瞬だけ目を瞬かせた。
補助ではなく、一緒に考える側として声をかけられた気がした。
昼前、高橋と並んで簡単なルール案をまとめることになった。
「こういうの、最初に決めた人の癖が残るんだよね」
高橋は画面を見ながら苦笑する。
「たぶんそのときは、その名前が一番分かりやすかったんだと思うけど」
「運用していくうちに増えていったんですね」
「そうそう。で、気づいたらちょっとずつズレる」
小夜は一覧を見ながら、分類の軸を整理していく。
問い合わせ元で分けるのか、内容で分けるのか、対応種別を優先するのか。細かいが、後から効いてくる部分だった。
「柿谷さん、こういうの整理するの得意?」
「得意というか……気になるだけかもしれません」
「いや、それが向いてるってことだよ」
さらりと言われて、小夜は返事に少し詰まる。
「総務でも、こういうの見てた?」
「提出書類とか、申請区分とかは見ていました」
「だよね。なんか見方が慣れてる感じする」
高橋は深く踏み込まず、ただ事実として言う。
その距離感がありがたかった。
昼休み、給湯室で一息ついていると、高橋が隣に来た。
「午前、助かったよ」
「まだ案を出しただけです」
「いや、ああいうの案出すとこが一番大事だから」
紙コップにお湯を注ぎながら、高橋は続ける。
「危機管理室って、何か起きたときの判断が目立つけど、実際はその前の整理でだいぶ変わるんだよね」
小夜は昨日、澪に言われた言葉を思い出す。
残すためではなく、使うための記録。
「昨日より、少し分かってきた気がします」
「うん、たぶんもう入口は越えてるよ」
「入口」
「何してるか分かんない、って段階は抜けたってこと」
高橋はそう言って笑った。
「まあ、ここからのほうが細かいんだけど」
小夜もつられて少し笑う。
午後、澪から直接声がかかった。
「柿谷さん、少しいいですか」
「はい」
小夜が席を立つと、澪は一枚の資料を差し出した。
「この案件、対応履歴と添付資料の番号にずれがあります。確認できますか」
「私が、ですか」
「はい。総務提出資料との対応も見たいので、あなたのほうが気づける点があると思います」
小夜は資料を受け取った。
「分かりました」
「判断に迷うところがあれば止めてください。修正そのものより、確認の精度を優先で」
「はい」
席に戻りながら、小夜は資料を見下ろす。
任されたのは大きな仕事ではない。けれど、昨日より一歩深いところに入った気がした。
番号のずれを追いながら、関連資料を一つずつ照合していく。
途中で、添付漏れではなく、途中差し替え時の更新漏れだと分かった。履歴側だけが古い番号のまま残っていたのだ。
確認を終え、小夜は澪の席へ向かう。
「確認できました。添付漏れではなくて、差し替え時の履歴更新漏れだと思います」
澪は資料を受け取り、内容を見る。
「根拠は」
「添付資料の版番号は揃っていて、提出控えとも一致していました。履歴だけ旧番号のままです」
「分かりました」
澪は短くうなずく。
「確認ありがとうございます。修正はこちらで入れます」
「はい」
席へ戻ろうとしたとき、澪がもう一度口を開いた。
「視点が正確です」
小夜は足を止めた。
「総務との接続が必要な確認は、今後もお願いすることがあると思います」
「……はい」
「引き続きお願いします」
それだけだった。
けれど昨日よりも、はっきりと仕事を任された実感が残った。
終業前、高橋が資料を閉じながら声をかけてくる。
「今日は昨日より、だいぶ危機管理室の人って感じだったね」
「そんなに変わりましたか」
「変わった変わった。昨日はまだ“来てる人”って感じだったけど、今日はちゃんと中で動いてた」
小夜は少しだけ目を伏せる。
「まだ、できている感じはしません」
「まあ、自分だとそんなもんだよね」
高橋は椅子にもたれたまま笑う。
「でも、篠宮さんが直接頼んだってことは、ちゃんと見えてるってことだから」
小夜はその言葉を静かに受け止めた。
「焦らなくていいよ。たぶんそういうの、積み上がるほうが早いから」
「積み上がる」
「うん。一個ずつ気づいて、一個ずつ任されて、気づいたら普通に回してるやつ」
高橋らしい言い方に、小夜は少しだけ笑った。
「……そうなれるでしょうか」
「なれるよ」
高橋はあっさり言った。
「少なくとも、向いてない人の止まり方じゃないし」
「止まり方」
「考えて止まってるから。分かんないまま固まるのとは違うよ」
その言葉は妙に腑に落ちた。
自分では、立ち止まってばかりだと思っていた。けれど、それが全部悪いわけではないのかもしれない。
終業後、机の上を整えながら、小夜は静かに息をついた。
二日目が終わった。
まだ不安はある。まだ、自分の居場所だと言い切れるほどではない。
それでも昨日より、ここで何を求められているのかは分かる。
そして少しだけ、自分にできることも見えてきた。
大きく変わったわけではない。
けれど、少しずつなら進める気がした。
その感覚は、小夜にとって十分に心強かった。




