第三十七話 居場所
危機管理室での初日、小夜は始業より少し早く席に着いた。
室内は静かだった。誰かが慌ただしく動き回るわけでもなく、雑談が飛び交うわけでもない。けれど止まっている感じはしない。机の上は整っていて、共有棚のファイルもきれいに揃っている。必要なものが、必要な場所に置かれている空気だった。
案内された席に鞄を置き、小夜は小さく息をつく。
仮配属。
そう言われている。正式な異動ではないし、いつまでここにいるかもまだ決まっていない。
それでも、昨日自分で受け入れをお願いした以上、やれることはやりたかった。
「おはようございます」
声をかけられて顔を上げると、高橋が入ってきたところだった。
「おはようございます」
「早いですね。緊張してます?」
少し笑いながら言われて、小夜も曖昧に笑う。
「少しだけ」
「まあ、そりゃするよね。初日だし」
高橋は自分の席に荷物を置くと、小夜の机の横に立った。
「今日はまあ、流れ見てもらえれば大丈夫だよ。いきなり難しいのは振らないから」
「はい」
「分かんないことあったら、すぐ聞いてね。黙ったまま進むほうが、あとで大変だから」
「分かりました」
高橋の説明はやわらかいが、言っていることははっきりしていた。
その言い方に少しだけ気持ちが落ち着く。
ほどなくして、澪も出勤してきた。
「おはようございます」
小夜が立ち上がると、澪は軽くうなずいた。
「おはよう」
それだけ言って、自席に向かう。特別に気を遣う様子も、突き放す様子もない。昨日までと同じ調子だった。
始業後、高橋が小夜に業務の説明を始めた。
当面任されるのは、共有資料の整理、対応履歴の更新補助、総務提出書類の確認、備品や申請まわりの管理補助。総務にいた頃と重なる仕事もあるが、危機管理室独自のルールも多い。
「この一覧、案件ごとにも追えるようにしてるんです」
画面を見せながら高橋が言う。
「時系列だけだと、あとで見返したときちょっと追いにくくて。誰がどこで何したか分かるようにしてます」
「かなり細かいですね」
「ですね。でも細かくないと困るし、細かすぎても見づらいしで、そのへん毎回ちょっと悩むんだよね」
小夜は画面を見つめながらうなずいた。
総務でも記録は残す。けれどここでは、残すこと自体より、次に使うことが前提になっているのが分かる。
「更新ルールって決まっていますか」
「ありますよ。見ます?」
「はい」
「そこ見てもらえるの、けっこう助かるよ」
高橋はすぐに別ファイルを開いた。
小夜は説明を聞きながら、共有フォルダの構成やファイル名の付け方を確認していく。細かいが、筋は通っていた。誰が見ても追えるように整えられている。
午前中は、主に資料の確認で終わった。
電話が鳴れば必要な情報だけが短く共有される。誰かが席を立てば、何のために動いたのかが自然に周囲へ伝わる。静かなのに、流れは止まらない。
総務とは違う。
けれど、思っていたほど息苦しくはなかった。
昼前、総務提出用の書類を確認していた小夜は、ある箇所で手を止めた。
「あの、高橋さん」
「はい?」
「この申請書、添付順が前の様式のままです」
高橋が近づいてくる。
「え、どこですか」
小夜が指した箇所を見て、高橋が眉を寄せた。
「あ、ほんとだ」
「今の総務だと、この順番だと差し戻されると思います」
「変わったの、先月でしたっけ」
「はい。たぶん旧データを使ってます」
高橋はすぐに書類を持って澪の席へ向かった。
「篠宮さん、これ旧様式混ざってました。出す前でよかったです」
澪は書類を受け取り、目を通す。
「差し替えで間に合いますか」
「大丈夫だと思います。今日中に直せます」
「分かりました」
そこで澪の視線が小夜に向いた。
「気づいてくれて助かりました」
短い一言だった。
「……はい」
それだけで、胸の奥が少し熱くなる。
大げさに褒められたわけではない。ただ、必要なこととして認められた。その感じが、思っていたより強く残った。
昼休み、高橋が給湯室の前で紙コップを手にしながら言った。
「さっきの、ほんと助かったよ」
「いえ、総務にいたので見覚えがあっただけです」
「いや、それが大きいよ。こっちだと普通に見落とすから」
小夜は紙コップの縁を見つめる。
「でも、まだ何ができるか分からなくて」
「いやいや、初日だし。分かんなくて当たり前だから」
高橋は気負いなく言った。
「でも、見るとこちゃんと見てるなって思ったよ」
「見るところ」
「自分の作業だけじゃなくて、流れの中で見れてる感じ。そこできる人、けっこう大事なんだよね」
小夜は少しだけ言葉に詰まった。
「そうでしょうか」
「そうそう。たぶん普通にやれるよ」
言い切られて、すぐには返事ができなかった。
ここでもやれる。まだ自分ではそこまで思えない。けれど、否定したい気持ちも前ほど強くはなかった。
午後は、対応履歴の更新補助を任された。
過去案件の記録を見ながら、表記の揺れや記載漏れを整えていく。単純作業に見えるが、読み進めるほどに、この部署が扱ってきたものの幅が見えてくる。
社内の小さなトラブル。
外部からの問い合わせ。
部署間の行き違い。
表に出る前に処理された問題。
一つ一つは短い記録でも、その積み重ねが部署の役割を形にしていた。
小夜は画面を見つめながら、ふと手を止める。
ここは、何かが起きたあとに動く場所だと思っていた。
でもそれだけではない。
起きたことを整理し、次に同じことが起きたときに備える場所でもある。
「止まってますね」
声に振り向くと、澪がすぐ後ろに立っていた。
「すみません」
「謝らなくていいです」
澪は画面に目を落とす。
「何か引っかかりましたか」
小夜は少し迷ってから答えた。
「思っていたより、記録が細かいんだなと」
「細かくしないと、次に使えません」
「はい」
「ただ、細かければいいわけでもないです。残すための記録ではなく、使うための記録なので」
小夜はその言葉を繰り返す。
残すためではなく、使うため。
「総務の経験は、ここでも役に立ちます」
澪の声は静かだった。
「総務の流れを知っている人がいるだけで、こちらの動きは変わります。今日の書類もそうです」
小夜は顔を上げる。
「だから、遠慮して自分の仕事を狭くしないでください」
一瞬、返事が出なかった。
慰めではなく、働く人間として言われた言葉だった。
「……はい」
「分からないことは確認を。判断に迷うものは止めてください」
「はい」
「その線だけ守ってもらえれば十分です」
澪はそれだけ言って、自席へ戻っていった。
小夜はしばらく画面を見たまま動けなかった。
ここにいていい、と言われたわけではない。
でも、ここで働いていいとは言われた気がした。
終業前、高橋が進捗を確認しに来た。
「どうですか、初日」
「まだ慣れませんけど……思っていたより、何を見ればいいかは分かる気がします」
「それなら十分だよ」
高橋は笑った。
「最初から全部分かる人なんていないし」
「はい」
「でも今日みたいに気づけることあるなら、全然大丈夫だと思うよ。危機管理室って、派手な判断だけで回ってるわけじゃないから」
小夜は小さくうなずく。
「細かいとこ拾える人、ちゃんと必要だからね」
その言葉は、高橋らしくやわらかかった。
けれど、やはり慰めではなかった。
終業時刻が近づき、室内に静かな慌ただしさが流れる。
高橋は最後の確認メールを送り、澪は資料を閉じる。小夜も自分の机の上を整え、今日触ったファイルを元の場所へ戻した。
朝ここに座ったときより、少しだけ景色が違って見える。
まだ慣れない。
まだ緊張もする。
自分が本当にここで役に立てるのかも、まだ分からない。
それでも今日一日で、はっきりしたことが一つだけあった。
自分は、ただ置かれているだけではない。
少なくともここでは、見て、考えて、手を動かすことを求められている。
そのことが、思っていたよりずっと救いだった。




