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第三十六話 打診

 翌日の午後、総務部の一角はいつもと変わらない静けさに包まれていた。


 電話の音、キーボードを打つ音、コピー機の作動音。

 どれも聞き慣れた職場の音なのに、小夜にはまだ少しだけ遠く感じられる瞬間があった。


 出社はできている。

 仕事もしている。

 周囲も必要以上に触れず、けれど放っておきもしない距離で接してくれていた。


 三浦の気遣いも、ありがたかった。

 ありがたかったが、それだけに、自分だけが余計な負担を増やしているのではないかという思いは消えない。


「柿谷さん」


 顔を上げると、三浦が席のそばに立っていた。


「会議室、いいかな」


「はい」


「篠宮さんたちが来てる。今後のことで少し話がある」


 小夜は一瞬だけ目を瞬かせた。


「……危機管理室の?」


「うん。そんなに構えなくて大丈夫」


 三浦の声は落ち着いていた。

 やわらかいが、仕事の話をするときのきちんとした硬さもある。

 つまり、雑談ではない。


「行けそう?」


「はい」


 小夜は立ち上がり、手元のメモを閉じた。

 胸の奥が少しだけざわつく。

 何か追加で確認事項があるのか、それとも今後の対応についてか。


 会議室の扉を開けると、澪と高橋がすでに中にいた。

 その隣には、相沢も座っている。


「失礼します」


「どうぞ」


 高橋がやわらかく言い、小夜は小さく会釈して席に着いた。

 向かいには澪、その隣に高橋。小夜の横には相沢がいる。

 三浦は「じゃあ、お願いします」とだけ言って扉を閉めた。


 澪の前には薄い資料が一部だけ置かれていた。

 報告や確認のための場だと分かる程度の、簡潔な準備だった。


「本日は、今後の勤務体制についてご相談があります」


 澪がそう切り出す。

 声はいつも通り落ち着いていて、余計な圧をかけない。


 小夜は膝の上で指先をそろえた。


「はい」


「今回の件については、現時点で一次対応は収束しています。ただし、しばらくは継続的なフォローが必要だと判断しています」


 小夜は黙って聞く。


「そのうえで、総務部と危機管理室の双方で検討した結果、一定期間、危機管理室で受け入れる案が出ています」


 小夜は思わず目を上げた。


「……受け入れ、ですか」


「はい」


 澪はうなずく。


「正式な異動ではありません。籍は総務部に置いたまま、期間を区切って危機管理室で業務にあたっていただく形です」


「仮配属みたいなもの、と思ってもらえれば近いです」


 高橋が補足する。


「もちろん、雑用だけお願いするつもりはありません。総務との連携が必要な事務処理や、室内の補助業務を含めて、ちゃんと仕事として成立する形にします」


 相沢が短く口を開いた。


「総務としても妥当だと思う」


 小夜はそちらを見る。


「籍は総務のまま」

「評価も変わらない」


 言葉は短い。

 だが、曖昧さがない。


「柿谷一人に配慮が集まるより、そのほうが回しやすい」


 小夜はすぐには返事ができなかった。


 危機管理室で受け入れる。

 それはつまり、しばらく澪たちのいる部署で働くということだ。


 安心する気持ちが、ないわけではない。

 けれど同時に、それ以上に先に立つ感情がある。


「……私のために、そこまでしていただくのは」


 声が少しだけ弱くなる。


「総務部にもご迷惑をおかけしていますし、危機管理室にまで負担を増やすのは……」


「あなたのせいではありません」


 澪が間を置かずに言った。


 小夜は顔を上げる。


「今回の件は、あなたが負うべき問題ではない。必要な対応を、必要な部署が取るだけです」


 その言い方はあくまで業務的だった。

 けれど、だからこそまっすぐに届く。


 小夜は視線を落とした。


「でも……私が行くことで、皆さんのお仕事の邪魔になるかもしれません」


「それは大丈夫です」


 高橋が少しだけ肩の力を抜くように笑った。


「邪魔になるなら、そもそも案に上がりません。現場として回る見込みがあるから出てる話です」


 相沢も短く続ける。


「無理のある話ではない」


 小夜はその言葉に少しだけ息をついた。

 それでも、まだ迷いは残る。


「……篠宮さんは」


 呼びかけてから、小夜は少しだけためらった。


「その、どうお考えですか」


 澪は一瞬だけ黙った。

 問いの意味を測るような、短い沈黙だった。


「業務上、妥当な案だと考えています」


 まずはそう答える。

 それから、ほんのわずかに言葉を足した。


「少なくとも、迷惑ならこの案は断っています」


 小夜の指先が、膝の上で小さく止まった。


 澪の声は静かだった。

 強く言ったわけでも、やさしく言ったわけでもない。

 ただ事実を述べただけの口調だった。


 けれど、その一言で十分だった。


 高橋が視線を伏せたまま、口元だけで少し笑う。

 相沢も何も言わず、小夜の反応を待っている。


「……そう、ですか」


 小夜は小さく答えた。


 迷惑なら断っている。

 その言葉は、思っていた以上に胸の奥へ落ちてきた。


 歓迎されている、とまでは思わない。

 そんなふうに受け取るのは違う気がする。

 でも少なくとも、厄介払いのように回されるわけではないのだと分かる。


「期間は、どのくらいを想定されていますか」


 小夜がそう尋ねると、澪はすぐに資料へ視線を落とした。


「まずは一か月を目安に考えています。ただし、固定ではありません。状況を見て短縮も延長もあり得ます」


「業務内容は、危機管理室の補助が中心になります」


 高橋が続ける。


「とはいえ、いきなり難しいことを全部お願いするわけじゃないです。最初は書類整理とか、連携記録の更新とか、そのあたりから入ってもらう形になると思います」


 相沢が補った。


「総務とのやり取りが必要なものもある。完全に切り離す形ではない」


 小夜はゆっくりとうなずいた。


 条件としては、思っていたよりずっと整っている。

 配慮だけで宙に浮かされるのではなく、仕事として位置づけられていることが分かる。

 それは安心材料だった。


 けれど、最後に引っかかるものが一つだけあった。


「……私が、危機管理室に行くことで」


 小夜は言葉を選ぶ。


「かえって皆さんに気を遣わせることには、なりませんか」


 その問いに、今度は澪が少しだけ表情をやわらげた。


「多少はあるでしょう」


 率直な答えに、小夜が目を瞬かせる。


「ただ、それは今も同じです」


 澪は続けた。


「総務部にいても、危機管理室で受け入れても、周囲が一定の配慮をすること自体は変わりません。であれば、対応の導線が明確な場所にいたほうが、あなたにとっても周囲にとっても負担は少ない」


 小夜は黙って聞いていた。


「それに」


 澪はそこで一度だけ言葉を切る。


「あなたが必要以上に遠慮する必要はありません」


 小夜の胸が、わずかに詰まる。


 その言葉は、慰めではなかった。

 許可のように聞こえた。


 ここにいていいと、そう言われた気がした。


 相沢が静かに引き取る。


「決めるのは柿谷だ」


 小夜は相沢を見る。


「すぐ決めなくてもいい。気になることがあるなら聞いていい」


 短い言い方だった。

 けれど、急かしてはいない。


「いえ……」


 小夜は小さく息を吸った。


 迷いが消えたわけではない。

 不安もある。

 けれど、それでも。


「受け入れていただけるなら、お願いしたいです」


 会議室の空気が、ほんの少しだけやわらいだ。


「ありがとうございます」


 高橋が軽く言う。

 相沢も小さくうなずいた。


 澪は表情を大きく変えなかった。

 ただ、視線の硬さがわずかにほどけた。


「承知しました」


 その一言は、いつも通り簡潔だった。


「では、開始時期と業務内容の整理はこちらで進めます。総務部とも改めて調整しますので、詳細は追って共有します」


「はい」


「不明点や不安があれば、遠慮なく言ってください」


 小夜はうなずいた。


「ありがとうございます」


 打診そのものは、そこで終わった。


 その後は開始日程や座席、必要な持ち物の確認など、実務的な話がいくつか続いた。

 話が具体的になるほど、現実味が増していく。


 危機管理室で働く。

 期間限定とはいえ、自分の日常が少し変わる。


 会議室を出るころには、最初の緊張は少しだけ薄れていた。


 廊下に出ると、少し離れた場所で三浦が待っていた。

 壁際に寄って立っていたが、小夜たちが出てくるとすぐに顔を上げる。


「終わった?」


「はい」


 三浦の視線が、小夜と相沢のあいだを一度だけ往復する。


「どうだった」


 小夜が答えるより先に、相沢が短く言った。


「受けるそうだ」


「そっか」


 三浦はそれだけ言って、小さく息をついた。

 露骨ではないが、少し安心したようにも見える。


「じゃあ、詳細はまた共有するね」


 高橋がそう言って、澪のほうを見る。

 澪は軽くうなずいた。


「では、私たちはこれで」


 澪と高橋が先に歩き出す。

 相沢も総務部のほうへ向き直る。


「柿谷、戻るか」


 だがその前に、澪だけが一歩遅れて立ち止まった。


 小夜も足を止める。


 廊下には、午後の静かな空気が流れていた。


「柿谷さん」


「はい」


「先ほどの件ですが」


 澪は小夜をまっすぐ見た。


「受け入れを決めたのは、配慮だけが理由ではありません」


 小夜は目を上げる。


「業務として成立すると判断したからです。そこは、誤解しないでください」


 あくまで澪らしい言い方だった。

 余計な感情を混ぜない、線を守った言葉。


 けれど小夜には、それがかえってありがたかった。


「……はい」


「それと」


 澪はほんのわずかに間を置く。


「困ったことがあれば、抱え込まないでください」


 小夜の喉が小さく動いた。


「はい」


 それ以上は続かなかった。

 澪は軽く会釈し、そのまま高橋の後を追うように歩き出す。


 小夜はその背中を見送った。


 迷惑なら常務の提案は断っています。


 たったそれだけの言葉なのに、何度も胸の中で反芻してしまう。


 歓迎されたわけではない。

 特別扱いされたわけでもない。

 ただ、必要だから受け入れる。

 そう言われただけだ。


 それでも、その必要の中に自分が含まれていることが、少しだけうれしかった。


「行こうか」


 三浦の声に、小夜ははっとして顔を上げた。


「はい」


 相沢はすでに総務部のほうへ歩き出している。

 三浦は小夜の歩幅に合わせるように、少しだけゆっくり歩いた。


 不安がなくなったわけではない。

 けれど、行ってみようと思えた。


 危機管理室で過ごす期間が、どんな時間になるのかはまだ分からない。

 ただ少なくとも、そこへ向かうことを、もう怖いとだけは思わなかった。


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