第三十五話 報告
午後三時を少し回ったころ、澪は資料の最終確認を終えてファイルを閉じた。
机上には、今回の件に関する報告書類が整然と並んでいる。
経緯の整理、関係者の行動記録、社内対応の時系列、再発防止に向けた暫定案。必要な情報はすべて揃えてある。抜けはない。少なくとも、書類の上では。
「準備、できました?」
向かいの席から高橋が声をかける。
「ええ」
「常務、今日は機嫌どうですかね」
「さあ」
澪は短く答え、立ち上がった。
高橋も自分の分の資料を持って続く。
危機管理室を出て、役員フロアへ向かう。
廊下を歩くあいだ、高橋は珍しく口数が少なかった。ふざけているわけではないが、こういう場ではさすがに空気を読む。
常務室の前で、秘書に取り次ぎを頼む。
ほどなくして入室を促され、二人は室内へ入った。
「失礼いたします」
矢吹はデスクの向こうで書類に目を通していたが、二人が入ると顔を上げた。
年齢相応の落ち着きをたたえた表情は、いつも通り穏やかに見える。だが、その穏やかさが油断を許さないことを、澪も高橋もよく知っていた。
「ご苦労さま。大変だったね。まあ、座って」
「失礼します」
応接スペースに腰を下ろし、澪は持参した資料を差し出す。
矢吹はそれを受け取り、表紙を一瞥した。
「では、説明を」
「はい」
澪は姿勢を正し、淡々と口を開いた。
「今回の件は、総務部所属の柿谷さんに対する接触を発端とした事案です。初動段階では個人的な接触の延長と見られる要素もありましたが、対象者の勤務先および行動範囲を把握したうえで接近が行われていたこと、また接触の態様に執拗性が認められたことから、危機管理室案件として対応を開始しました」
矢吹は口を挟まない。
資料に目を落としながら、必要な箇所だけを追っている。
「対象者本人からの申告、総務部側からの共有、ならびに館内記録の照合により、複数回の接触事実を確認しています。これを受け、対象者の安全確保を優先し、行動導線の調整、関係部署との連携、当該人物への警告を段階的に実施しました」
澪は一度だけページをめくった。
「結果として、現時点で当該人物からの新たな接触は確認されていません。社内外の関係先とも情報共有を終えており、一次対応としては収束したと判断しています」
そこで矢吹が初めて顔を上げた。
「“一次対応としては”というのは」
「再接触の可能性を完全には否定できないためです」
澪は即答した。
「現段階では沈静化していますが、相手方の行動特性を踏まえると、一定期間の観察は必要と考えます」
「どのくらい見ますか」
「最低でも一か月。可能であれば四半期単位での情報保持が妥当かと」
矢吹は小さくうなずいた。
「分かりました。続けて」
「はい」
澪は再び資料に視線を落とす。
「今回の件で、対象者本人には相応の心理的負荷が生じています。現在は出社を再開していますが、完全に平常状態へ復したとは言い切れません。そのため、総務部上長および指導担当者と連携し、業務負荷と接触環境の両面で配慮を継続しています」
高橋は横で黙って資料を開いたまま、必要があれば補足できるよう待機していた。
矢吹の指先が、資料の一行で止まる。
「そのフォローは、総務部主導ではなく危機管理室が継続して持つんですね」
「必要な範囲で関与します」
澪の声は変わらない。
「本件は業務外の私的問題として切り離すには、社内導線と勤務環境への影響が大きすぎます。したがって、総務部単独対応ではなく、危機管理室が一定期間フォローに入るのが妥当と判断しました」
矢吹はしばらく澪を見た。
その視線は静かだったが、相手の言葉の奥まで測るような鋭さがあった。
「妥当、ですか」
「はい」
「それは、室としての判断?」
高橋がわずかに視線を動かした。
だが澪は表情を変えない。
「危機管理室としての判断です」
数秒の沈黙が落ちる。
矢吹はその沈黙ごと受け止めるように椅子へ背を預けた。
「高橋さん」
「はい」
「あなたも同じ考えですか」
「はい」
高橋はすぐに答えた。
「少なくとも、現時点で総務部だけに任せるのは負担が偏ると思います。柿谷さん本人への配慮もそうですし、部署側の調整負荷もありますので。危機管理室が窓口を持っていたほうが、全体としては安定するかと」
矢吹は小さく息をついた。
「なるほど」
資料を閉じるでもなく、開いたまま指先で軽く整える。
「状況は分かりました」
そこで矢吹の視線が、再び澪へ向く。
「では、次です」
「はい」
「今回、初動の段階で総務部との連携は適切でしたか」
問いは静かだった。
だが、ここから先は評価の話になる。澪はそう理解していた。
「概ね適切だったと考えています」
「“概ね”」
「情報共有の速度に改善余地はあります」
澪は率直に答えた。
「対象者本人の心理的負担を考慮し、確認の手順を慎重に踏んだ結果、初動の一部で判断に時間を要しました。結果として大きな支障は出ていませんが、再発防止の観点では、初期共有の基準をより明文化すべきです」
矢吹はその答えに、わずかに目を細めた。
「あなたは、自分に厳しいね」
「甘くする理由がありません」
澪は淡々と返す。
高橋が横でほんの少しだけ視線を伏せた。
この人はこういう場で、必要以上に自分を守らない。
「責任の所在はどう整理しますか」
矢吹の問いに、澪は一拍置いた。
「運用上の改善事項として危機管理室で引き取ります。必要であれば、私の名で再発防止案を提出します」
「必要であれば、ではなく出してください」
「承知しました」
即答だった。
矢吹はそこで初めて、わずかに表情をやわらげた。
「あなたが責任を取ると言うときは、大抵もう腹が決まっている」
澪は答えなかった。
否定しても意味がない。
「ただ」
矢吹の声が少しだけ低くなる。
「抱え込みすぎないように。本件はあなた一人で持つ話じゃない」
「承知しています」
「本当に?」
その問いに、澪はほんのわずかに間を置いた。
「……はい」
矢吹はその間を見逃さなかったようだったが、追及はしなかった。
「柿谷さんの勤務継続に支障は」
「現時点では限定的です。ただし、突発的な反応はまだあり得ます」
「医務室や産業保健への接続は」
「必要時に即応できるよう、総務部側と調整済みです」
「本人の意向確認は」
「済んでいます。過度な扱いは望んでいません」
矢吹は静かにうなずいた。
「そこは妥当ですね。本人の意思を置いて保護だけ進めると、それはそれで負担になる」
「はい」
「ただ、遠慮して言わない可能性はある」
「その前提で見ています」
澪の返答はぶれなかった。
矢吹は資料の端を指先で軽くそろえた。
「配置を動かす話ではありませんが」
その一言に、高橋がわずかに顔を上げる。
「籍は総務部に置いたまま、一定期間だけ危機管理室で受け入れる、というやり方もあります」
澪は一瞬だけ沈黙した。
「……受け入れ、ですか」
「ええ。正式な異動ではない。期間を切って、こちらで見る形です」
矢吹の声は淡々としていた。
「継続フォローが必要で、総務部側の負担もある。本人の動線管理もしやすい。理屈としては十分成り立つでしょう」
澪はすぐには答えなかった。
その沈黙を、矢吹は急かさない。
「どう見ますか」
「本人の負担にならない形であれば、検討の余地はあります」
慎重な返答だった。
「ただ、受け入れの理由が“保護”だけに見える形は避けるべきです。柿谷さん自身が、居場所を移されたと感じる可能性があります」
「そのとおりですね」
矢吹はうなずいた。
「だからこそ、本人の同意は前提です」
澪は資料の上に置いた指先をわずかに動かした。
「業務上の位置づけを明確にする必要があります。補助業務として受け入れるのか、連携窓口として置くのか。それによって本人の受け止め方も変わります」
「そこは詰めましょう」
矢吹は短く言った。
「少なくとも、守るために囲う形にはしたくない」
「はい」
澪の返答は静かだった。
「ただ」
矢吹がそこで、少しだけ声の調子を変える。
「あなたはこの話になると、少し慎重すぎるね」
高橋の指先が、資料の端で止まる。
澪は表情を変えなかった。
「当然の確認です」
「そうでしょうね」
矢吹はあっさりと認めた。
「でも、当然の確認にしては温度がある」
その一言で、室内の空気がわずかに張る。
澪は何も言わない。
矢吹は続けた。
「柿谷さんを危機管理室で受け入れること自体に反対しているわけではない。むしろ、本人のためになる形なら受け入れるべきだと、あなたも分かっている」
高橋が息を詰める気配がした。
「ただ、その前提を一つひとつ確かめずにはいられない。そう見える」
澪の指先が、膝の上の資料の角をわずかに押さえる。
「あなた、少し線を引きすぎているように見えるね」
澪はゆっくりと顔を上げた。
「……どういう意味でしょうか」
矢吹はすぐには答えなかった。
少し考えるように視線を落としてから、静かに言う。
「気にかけていない人間に対しては、そこまで丁寧に距離を測らない」
高橋が視線を伏せる。
「近づきすぎないようにしている。関わりすぎないようにしている。そう見える」
矢吹はそこで言葉を切った。
「それ自体が悪いとは言いません。立場を考えれば、むしろ必要なことです」
そのあとで、ほんの少しだけ目をやわらげる。
「ただ、柿谷さんを特別に気にかけていることは、もう隠しきれていない」
沈黙が落ちた。
澪は否定しなかった。
できなかった、というほうが近い。
矢吹も、それ以上は踏み込まない。
「受け入れの件は、本人の意向を確認したうえで進めましょう」
資料を閉じ、テーブルの上に置く。
「本件は危機管理室主導で経過観察を継続。総務部との連携は維持。再発防止案は今週中に出してください」
「承知しました」
「高橋さん」
「はい」
「現場の負荷が偏るようなら、あなたからも止めてください」
高橋は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに「承知しました」と答えた。
「では、下がって結構です」
「失礼いたします」
二人は立ち上がり、常務室を後にした。
扉が閉まった途端、高橋が小さく息を吐く。
「……受け入れ、ですか」
役員フロアの静かな廊下に、その声だけがやけに軽く響いた。
「そうなりますね」
澪は手元の資料を持ち直した。
「意外でした。あそこで異動じゃなくて受け入れに落とすとは」
「常務らしい判断です」
「まあ、たしかに」
並んで歩きながら、高橋はちらりと澪を見る。
「でも、澪さん、最初ちょっと構えましたよね」
「当然です」
「柿谷さんの負担になる形なら困る、って?」
「それもあります」
澪は短く答えた。
「受け入れるなら、理由と形を誤るべきではありません」
「はいはい」
軽く流すように返しつつも、高橋の声色はやわらかかった。
「でも、常務が言いたかったのって、そこだけじゃないですよ」
澪は足を止めない。
「抱え込みすぎるな、という話でしょう」
「それもありますけど」
エレベーターの前で立ち止まる。
下りの表示を待つ短い沈黙のあと、高橋がふと思い出したように言った。
「さっき総務に電話したとき、三浦さんが言ってました。柿谷さん、今日はだいぶ落ち着いてるって」
澪の視線がわずかに動く。
「普通に仕事してるそうです」
「そうですか」
短い返答だった。
けれど、そのわずかな声のやわらぎを、高橋は聞き逃さなかった。
「受け入れの話、本人がどう受け取りますかね」
「……分かりません」
澪は珍しく、すぐに断定しなかった。
「ただ、こちらの都合だけで決めるべきではありません」
「ですよね」
ちょうどそのときエレベーターが到着し、扉が開いた。
二人で乗り込み、扉が閉まる。
鏡のように磨かれた内壁に、自分たちの姿が映る。
澪は正面を見たまま、静かに息をついた。
一次対応は終わった。
報告も済んだ。
ここから先は、表立たない調整と観察の時間になる。
それでいい。
そうあるべきだと分かっている。
けれど、矢吹に言われた言葉だけが、胸のどこかに残っていた。
柿谷さんを特別に気にかけていることは、もう隠しきれていない。
それはたぶん、図星だった。
近づきすぎないようにしている。
業務の範囲を越えないように、言葉を選んでいる。
そうしなければならないと思っているからだ。
それでも、小夜の顔色ひとつに気づいてしまう。
出社しているかを確認してしまう。
落ち着いたと聞けば、安堵してしまう。
もし本当に危機管理室で受け入れることになれば、今より近くで小夜を見ることになる。
それが本人のためになるなら、受け入れるべきだ。
そう思う。
けれど同時に、その距離に自分が平静でいられるのかは分からなかった。
エレベーターが階を下りていく。
静かな機械音の中で、澪は目を伏せた。
まだ、口にするべきではない。
今はただ、守るべき線を守るだけだ。
そう結論づけるように、澪は手にした資料の角を静かに揃えた。




