第三十三話 残響
あれから数日が過ぎた。
表向き、会社はもういつもの顔に戻っていた。
総務部のフロアには日常の業務が流れ、問い合わせの電話が鳴り、会議室の予約表は埋まっていく。誰もが目の前の仕事をこなし、昨日の続きのように今日を始めていた。
けれど小夜の中では、まだ完全に終わったとは言い切れなかった。
大きな音に肩が揺れることは減った。
夜も前よりは眠れるようになった。
それでも、ふとした瞬間に胸の奥がざわつくことがある。何かが起きるわけではないのに、身体だけが先に身構えてしまう。
自分でも、少し厄介だと思う。
「柿谷さん」
午後、コピー機の前で声をかけられ、小夜は振り向いた。
三浦が書類の束を抱えて立っていた。
「このあと、第二会議室の備品確認お願いできますか」
「はい」
「急ぎではないので、手が空いてからで大丈夫です」
「分かりました」
三浦はそれだけ言って、いつものように静かに離れていく。
必要以上に気を遣わず、けれど放っておきもしない。その距離感に、小夜は何度も助けられていた。
コピーを取り終えたあと、書類を整えて会議室へ向かう。
廊下は昼下がりの落ち着いた空気に包まれていた。窓の外は明るいのに、社内の照明はどこか均一で、時間の流れが曖昧になる。
第二会議室の扉を開け、備品の数を確認する。
ホワイトボードのマーカー、延長コード、資料用のクリアファイル。ひとつずつ見ていくだけの単純な作業だった。
そのとき、廊下の向こうで何かが落ちる音がした。
乾いた、大きめの音だった。
小夜の肩がびくりと揺れる。
心臓が一拍遅れて強く鳴り、指先がわずかに冷たくなった。
大した音ではない。
たぶん誰かがファイルでも落としただけだ。頭ではそう分かっているのに、身体のほうが先に反応してしまう。
息を吸おうとして、少しだけ浅くなる。
「……っ」
会議室の机に手をつき、小夜は目を閉じた。
大丈夫。何も起きていない。ここは会社で、昼間で、周りには人がいる。
そう言い聞かせても、すぐには戻らない。
「柿谷さん?」
扉の外から聞こえた声に、はっとして顔を上げる。
相沢だった。
「相沢さん……」
「どうした」
短い問いだった。
けれど、その声に余計な詮索はなかった。
「いえ……少し、びっくりして」
相沢は廊下の先を一度だけ見やった。
「台車からファイル落としたらしい」
「……そうですか」
「ああ」
それだけ言って、相沢は小夜の顔を見た。
具合を測るような、けれど踏み込みすぎない視線だった。
「戻れそうか」
小夜はすぐには答えられなかった。
無理ですと言うほどではない。けれど、今すぐ何事もなかったように動けるかと聞かれれば、自信がない。
「少しだけ……」
「分かった」
相沢はそれ以上聞かなかった。
「会議室、使う予定ないから、落ち着いたら戻れ」
「……はい」
「三浦には俺から言っとく」
その簡潔さがありがたかった。
大丈夫かと何度も聞かれるより、ずっと助かる。
相沢は扉を半分ほど閉めかけて、ふと手を止めた。
「無理して平気な顔しなくていい」
低い声で、それだけ言う。
小夜は返事の代わりに、ゆっくりとうなずいた。
扉が静かに閉まる。
会議室の中に、再び静けさが戻った。
小夜は椅子を引いて腰を下ろし、深く息を吐いた。
まだ少しだけ鼓動が速い。けれど、さっきよりはましだった。
窓の外に目を向ける。
遠くのビルのガラスが午後の光を反射している。何も変わらない景色だった。
しばらくそうしているうちに、呼吸が少しずつ整ってきた。
戻ろう。
そう思って立ち上がったとき、扉が軽くノックされた。
「はい」
開いた扉の向こうにいたのは、高橋だった。
「失礼します。相沢さんから聞きました」
小夜は目を瞬かせる。
「相沢さんが……?」
「ええ。たまたま近くにいたので」
高橋は会議室の中へ一歩入ると、小夜の様子を見て、少しだけ表情をやわらげた。
「少し落ち着きました?」
「はい……もう大丈夫です」
「それならよかったです」
高橋の口調はいつも通り軽い。
その軽さに、かえって救われる。
「びっくりしますよね。頭では平気って分かってても、身体が先に反応することってありますし」
小夜は小さくうなずいた。
「自分でも、情けないなって思ってしまって」
「いや、それは普通じゃないですか」
高橋はあっさり言った。
「むしろ何もなかったみたいに戻るほうが難しいですよ」
その言い方があまりにも自然で、小夜は少しだけ肩の力を抜く。
「篠宮さんも、同じことを?」
思わず尋ねると、高橋は少しだけ笑った。
「いや、あの人はもう少し硬い言い方すると思いますけど」
それは想像がついて、小夜もわずかに笑った。
「でも、無理に急がなくていいっていう意味では同じです」
高橋はそう言って、手にしていた小さな紙コップを差し出した。
「自販機の温かいやつです。勝手に買ってきちゃいました」
「え……」
「いらなかったら僕が飲みます」
冗談めかした言い方に、小夜は思わず首を振った。
「いただきます」
「どうぞ」
紙コップを受け取ると、じんわりとした熱が手のひらに伝わる。
それだけで、少しだけ気持ちが落ち着いた。
「ありがとうございます」
「いえいえ」
高橋は会議室の扉のそばに寄りかかるように立ったまま、気楽な調子で続ける。
「相沢さん、わりとすぐ連絡くれましたよ。珍しいなと思いました」
「……そうなんですか」
「ええ。『少し驚いただけだ。大ごとじゃない』って」
相沢らしい言い方だった。
必要以上に騒がず、けれど必要なことはちゃんと伝える。
「三浦さんも心配してました。戻るタイミングは任せるって」
「すみません……」
「謝ることじゃないですよ」
高橋はすぐに言った。
「こういうの、波がありますし」
波。
その言葉は妙にしっくりきた。
もう大丈夫だと思ったあとで、ふいに揺り返す。まさにそんな感じだった。
「……篠宮さんは?」
気づけば、そう聞いていた。
高橋は一瞬だけ目を細める。
「今、席外してます。戻ったらたぶん気づきますよ」
「気づく……」
「ええ。相沢さんから連絡入ってるので」
小夜は紙コップを持つ手に少しだけ力を込めた。
知られたくないわけではない。けれど、知られると少しだけ落ち着かない。
「別に怒ったりしませんよ」
高橋が軽く言う。
「むしろ、ちゃんと休めてよかったって思うんじゃないですかね」
その言葉に、小夜は視線を落とした。
ちゃんと休めてよかった。
もし篠宮がそう言うなら、きっと本心なのだろう。
「……そうかもしれません」
「たぶんそうです」
高橋は迷いなく言った。
会議室の外では、誰かの足音が遠ざかっていく。
社内はいつも通りに動いている。その中で、自分だけが少し立ち止まっているような気がしていたけれど、こうして誰かが当たり前のように待っていてくれると、それも悪いことではないのかもしれないと思えた。
紙コップの中身をひと口飲む。
温かさが喉を通って、胸の奥までゆっくり落ちていく。
「……もう戻れそうです」
高橋は小さくうなずいた。
「じゃあ、戻りましょうか」
「はい」
会議室を出ると、廊下の空気はさっきと何も変わらなかった。
けれど、小夜の足取りは少しだけ安定していた。
総務部のフロアの手前で、高橋が足を止める。
「僕はここで」
「ありがとうございました」
「どういたしまして」
高橋は軽く手を上げた。
「また何かあったら、遠慮なく。僕でも篠宮さんでも」
その言い方に、小夜は少しだけ迷ってから、うなずいた。
「……はい」
高橋が危機管理室のほうへ戻っていく。
その背中を見送ってから、小夜は総務部のフロアへ足を踏み入れた。
三浦は何も言わずに、戻ってきた小夜に一度だけ視線を向けて、すぐに手元の仕事へ戻った。
相沢も、書類から顔を上げて「戻ったか」と短く言っただけだった。
その何気なさがありがたかった。
席に着き、パソコンの画面を開く。
未処理のメールがいくつか並んでいる。やることはちゃんと残っていて、日常は待っていてくれる。
完全に元通りではない。
たぶん、まだしばらくはこういう波がある。
それでもいいのかもしれないと、小夜は思った。
消えないものがあるとしても、それを抱えたまま少しずつ戻っていけばいい。
今日みたいに、立ち止まっても、また歩き出せるなら。
小夜はそっと息を整え、次のメールを開いた。




