第三十二話 余熱
午前中は、思っていたよりも早く過ぎていった。
仕事を始めてしまえば、手は自然に動く。
確認する書類があり、返すメールがあり、電話も鳴る。ひとつひとつはいつもと変わらない業務なのに、その“いつも通り”をこなしているだけで、少しずつ呼吸が整っていく気がした。
とはいえ、完全に平静というわけではなかった。
ふとした拍子に、昨日のことが頭をよぎる。
廊下を歩く足音や、少し強めに閉まったドアの音に肩が揺れることもあった。自分でも気づかないうちに、まだ身体のどこかが緊張を覚えているのだろう。
「柿谷さん」
昼前、書類を手にした三浦が席の横に立った。
「これ、急ぎではないので午後で大丈夫です」
「分かりました」
「無理そうなら、私が持ちますから」
さらりと言われて、小夜は顔を上げた。
「いえ、大丈夫です」
反射的に答えたものの、三浦は急かさなかった。
「そうですか。じゃあ、お願いします」
それだけ言って離れていく。
任せるとも、気遣うとも、押しつけるとも違う、その距離感がありがたかった。
昼休みに入る少し前、相沢が席を立った。
手元の時計を見てから、総務部のフロアを軽く見回す。
「昼、ずらすやつは後で行け」
いつもの調子の短い声に、何人かが返事をする。
それから相沢の視線が小夜のほうへ向いた。
「柿谷、お前は先に行っとけ」
「え」
「混む前のほうがいいだろ」
それだけ言って、相沢はもう別の社員に声をかけていた。
小夜は一瞬だけ戸惑ったが、三浦が小さくうなずく。
「行ってきてください。今のうちのほうが落ち着けると思います」
「……はい」
社員食堂へ向かう廊下は、まだ人がまばらだった。
昼の混雑が始まる前の、少しだけ静かな時間。トレーを取り、日替わりの定食を選んで、窓際の空いた席に座る。
ひとりになって、ようやく息が抜けた。
午前中は気を張っていたのだと、そこで初めて気づく。
仕事をしている間は平気だったのに、手を止めた途端、胸の奥に薄い疲労が広がった。
「ここ、いい?」
不意に声をかけられ、顔を上げる。
高橋だった。
「あ……はい」
「よかった。空いてて」
高橋は向かいの席に腰を下ろした。
危機管理室の人間が社員食堂にいること自体は珍しくない。けれど、こうして向かい合うと、昨日のことがどうしても頭をよぎる。
「総務、今日は静かそうですね」
「はい。思っていたより……普通です」
「普通がいちばんですよ。変に気を遣われるのも疲れますしね」
少し肩の力の抜けた言い方に、小夜もわずかに表情をゆるめた。
「あの……高橋さん、首はもう大丈夫ですか」
「首?」
高橋はきょとんとしてから、自分の首筋に手をやった。
「ああ、これですか。もう全然。昨日までちょっと変な感じはありましたけど、今日は平気です」
「よかった……」
「心配してくれたんですか」
少しだけ笑って言われて、小夜は気まずそうに視線を落とす。
「だって、痛そうでしたし」
「ありがとうございます。でも、もう大丈夫です。案外、気が張ってただけだったのかもしれません」
その言い方は、31話の朝に聞いた言葉とどこか重なっていた。
終わったのだと、改めて少しだけ実感する。
「篠宮さんも、そう言ってました」
その名前に、小夜の箸がわずかに止まる。
「……篠宮さんが?」
「ええ。今日は余計な刺激がないほうがいいって」
高橋は何でもないことのように言った。
「午後も、もししんどかったら無理しないでください。総務には相沢さんも三浦さんもいますし」
「はい」
「危機管理室のほうでも、必要なことはもう進めてます」
昨日の件だろう。
高橋は詳しくは言わなかったし、小夜も聞かなかった。ただ、その“進めてます”という一言だけで十分だった。
「……ありがとうございます」
「お礼を言われるほどのことじゃないですよ」
高橋は味噌汁の椀に手を伸ばしながら、軽く言った。
「篠宮さんが気にしてたので、ついでに伝えただけです」
小夜は思わず顔を上げた。
「気に……」
「ええ。今朝も、柿谷さんは来られてるかって確認してましたよ」
胸の奥が、静かに熱を持つ。
来ているか。
ただそれを確認しただけのことなのに、その事実が思いのほか深く沁みた。
「そう、ですか」
「はい。あの人、ああ見えて細かいところ見てますからね」
高橋は少し笑う。
「言い方はあっさりしてますけど」
それは小夜にも分かる気がした。
表に出しすぎないだけで、見ていないわけではないのだ。
食堂のざわめきが少しずつ増えていく。
昼休みの本格的な混雑が始まる前の、短い静けさだった。
「午後、もし危機管理室に用があれば、私でも大丈夫ですよ」
高橋がふと思い出したように言う。
「篠宮さん、午後は少し席を外す時間があるので」
「そうなんですね」
「ええ。常務への報告もありますし」
やはり、まだ完全に終わったわけではないのだろう。
表面上は静かでも、水面下ではいろいろな処理が続いている。
それでも、昨日のような切迫感はもうない。
その違いが、小夜にはありがたかった。
「……高橋さん」
「はい?」
「昨日、ありがとうございました」
高橋は一瞬だけ目を瞬かせ、それからふっと笑った。
「どういたしまして」
軽い調子だった。
けれど、その軽さに救われる。
「でも、お礼なら篠宮さんにも言ってあげてください」
「え」
「たぶん、あの人は別に気にしないでしょうけど」
高橋はそう言って、湯呑みに手を伸ばした。
「言われたら、ちょっとはうれしいんじゃないですかね」
小夜は返事をしなかった。
できなかった、というほうが近い。
うれしい。
その言葉が、胸の奥に静かに残る。
昼食を終えて席を立つころには、食堂はすっかり混み始めていた。
高橋はトレーを持って立ち上がり、小夜に軽く会釈する。
「じゃあ、午後もほどほどに」
「はい。高橋さんも」
短いやり取りを交わして別れる。
総務部のフロアへ戻る道すがら、小夜は何度も高橋の言葉を思い返していた。
篠宮が気にしていたこと。
今朝、来られているか確認していたこと。
そして、お礼を言えば少しはうれしいかもしれないということ。
午後の業務が始まっても、その言葉は胸のどこかに残り続けた。
書類を整理しながら、メールを返しながら、ふとした拍子に思い出す。
篠宮は今ごろ常務のところだろうか。あるいは危機管理室で、まだ昨日の続きのような仕事をしているのだろうか。
自分の知らないところで、あの人はずっと動いている。
そのことが、少しだけ遠く感じて、同時に不思議なくらい心強かった。
夕方が近づくころ、内線が鳴った。
三浦が受けて、二言三言やり取りをしたあと、小夜のほうを見る。
「柿谷さん、危機管理室に資料を届けてもらえますか」
心臓がひとつ、大きく鳴った。
「……はい」
「急ぎではないので、落ち着いてで大丈夫です」
三浦はそう言って、封筒を差し出した。
受け取った指先に、わずかに力が入る。
ただ資料を届けるだけだ。いつもなら何でもない用事なのに、今日はそれだけで胸が落ち着かなかった。
それでも、小夜は封筒を抱えて席を立った。
廊下に出る。
危機管理室のあるフロアへ向かう足取りは、思っていたよりも静かだった。
怖いわけではない。
けれど、少しだけ緊張する。
それは昨日の名残なのか、それとも別の理由なのか、自分でもまだ分からなかった。
危機管理室の扉の前で、小夜は一度だけ呼吸を整えた。
それから、軽くノックをする。
中から返ってきたのは、高橋の声だった。
「どうぞ」
扉を開けると、危機管理室の中は思っていたよりも静かだった。
高橋がデスクに向かい、篠宮は奥の席で書類に目を通している。
先に気づいたのは高橋だった。
「ああ、柿谷さん。どうしました」
「総務から、資料を……」
「ありがとうございます。こちらへ」
高橋が立ち上がり、封筒を受け取る。
そのやり取りだけで済むはずだった。
けれど、視線の端で篠宮が顔を上げるのが見えた。
「柿谷さん」
名前を呼ばれて、小夜はそちらを向く。
「はい」
「体調はどうですか」
今朝と同じ問いだった。
けれど、今度は少しだけ答えやすい。
「午前中よりは、落ち着きました」
「そうですか」
篠宮は短くうなずいた。
「それならよかった」
ただそれだけの言葉なのに、胸の奥がまた静かに熱を持つ。
「高橋さんから聞きました」
気づけば、そんな言葉が口をついていた。
篠宮がわずかに目を細める。
「何をですか」
「……今朝、私が来ているか確認していたって」
一瞬だけ、室内の空気が止まった気がした。
高橋が何も言わずに視線を外す。
篠宮は小さく息をついてから、否定もごまかしもしなかった。
「確認はしました」
その率直さが、かえって小夜の胸を打つ。
「来られていて、安心しました」
今朝の言葉と似ているのに、今度はもっとまっすぐだった。
小夜は喉の奥が少しだけ詰まるのを感じた。
「……昨日、ありがとうございました」
ようやく言えたのは、それだけだった。
篠宮はしばらく小夜を見ていたが、やがて静かにうなずく。
「無事でよかったです」
その一言で、胸の奥に残っていた何かが、少しだけほどけた気がした。
小夜は深く頭を下げる。
「失礼します」
それ以上ここにいたら、何か余計なことまで顔に出てしまいそうだった。
踵を返して扉へ向かう。
背後で高橋が何か書類をめくる音がして、篠宮はもう仕事に戻っているのだろうと思った。
それなのに、扉を閉める直前、胸の奥には不思議なくらいあたたかなものが残っていた。
総務部へ戻る廊下は、来たときよりも少しだけ足取りが軽かった。
まだ全部が終わったわけではない。
昨日のことを完全に忘れられるわけでもない。
それでも、あの人の言葉は確かに自分の中に残る。
熱のように、消えきらずに。
小夜は封筒のなくなった手をそっと握り、静かに前を向いた。




