第三十一話 帰還
翌朝、会社の最寄り駅を出たところで、小夜は一度だけ足を止めた。
見慣れた通りだった。
見慣れたビルが並び、見慣れた人の流れがある。昨日までと何も変わらないように見えるのに、胸の奥だけがまだ落ち着かない。
行きたくないわけではない。
けれど、何事もなかったようにあのフロアへ戻っていいのか、自分でもまだうまく分からなかった。
バッグの持ち手を握り直し、小さく息をつく。
ここで立ち止まっていても仕方がない。そう思って歩き出した足は、思ったよりもちゃんと前へ進んだ。
エントランスを抜け、受付の前を通る。
朝の挨拶の声、開くエレベーターの扉、行き交う社員たちの足音。どれもいつも通りで、その“いつも通り”がかえって小夜の肩を強張らせた。
総務部のあるフロアに着くと、なおさらだった。
誰も騒いでいない。
ひそひそとした空気も、露骨な視線もない。パソコンの起動音がして、コピー機が動き、誰かが電話を取っている。昨日までの緊張が嘘のように、朝の業務が始まっていた。
それがありがたいのか、少し寂しいのか、自分でも分からない。
「おはよう、柿谷さん」
背後から声をかけられ、小夜は振り向いた。
三浦だった。
「三浦さん……おはようございます」
「少し早かったですね」
いつも通りの穏やかな口調だった。
その変わらなさに、小夜は少しだけ肩の力を抜く。
「はい。家にいても落ち着かなくて」
「そうですよね」
三浦はそれ以上踏み込まず、ただ自然にうなずいた。
「でも、来られてよかったです」
静かな言い方だった。
気を遣いすぎるでもなく、軽く流すでもない。そのちょうどよさがありがたかった。
「……ありがとうございます」
「無理はしないでくださいね。何かあったら、すぐ言ってください」
「はい」
三浦はそこで少し視線を和らげた。
「相沢さんももう来ていますし、いつも通りで大丈夫ですよ」
その一言に、小夜はわずかに息をつく。
「相沢さん、もう……」
「ええ。朝から電話も入っていましたし」
来ている。
それだけのことなのに、なぜか少し安心する自分がいる。
「篠宮さんたちは……」
思わず続けると、三浦は小さくうなずいた。
「危機管理室ももう動いているみたいです。高橋さんも来ているそうですよ」
「そうですか」
「今日は昨日より静かです」
三浦はそう言って、フロアを見回した。
「だからこそ、かえって落ち着かないかもしれませんけど」
その言葉が、今の小夜の気持ちに不思議なくらいぴたりとはまる。
小夜は少しだけ苦笑した。
「……はい。そんな感じです」
「ですよね」
三浦もわずかに笑った。
「でも、少しずつでいいと思います」
席に着いてパソコンを立ち上げる。
画面に映る見慣れたログイン画面を見つめながら、小夜はそっと息を吐いた。
指先はまだ少し冷たい。
けれど、震えてはいない。
始業前の静かな時間が、フロアにゆるやかに流れていく。
相沢はすでに席にいて、朝から何本か電話を受けていた。いつもと変わらない低い声が聞こえるたび、それだけで総務部の日常が戻ってきたような気がした。
その一方で、小夜の意識はどうしても別のフロアへ向いてしまう。
危機管理室。
篠宮と高橋がいる場所。
もう来ていると聞いただけで、胸の奥がわずかに揺れた。
昨日までの緊張が完全に消えたわけではない。それでも、あの人たちも同じ会社の朝を迎えているのだと思うと、少しだけ呼吸がしやすくなる。
メールを開き、今日の予定を確認する。
いつも通りの業務連絡が並んでいる。その“いつも通り”が、今はひどくありがたかった。
しばらくして、内線が鳴った。
相沢が受け、短く応対したあとで顔を上げる。
「柿谷」
「はい」
「無理はするなよ。午前中は様子見でいい」
ぶっきらぼうではあったが、声色はいつもより少しだけ柔らかかった。
「……はい」
「篠宮のほうにも、こっちの状況は伝えてある」
その名前が出た瞬間、小夜の胸が小さく跳ねる。
「そう、ですか」
「ああ。必要なことは向こうで処理に入ってる。お前が気にすることじゃない」
相沢の言葉は簡潔だった。
けれど、その簡潔さがかえってありがたかった。聞きたかったことを、必要以上に触れずに伝えてくれる。
「分かりました」
相沢はそれ以上言わず、また手元の書類に視線を戻した。
それが相沢なりの気遣いなのだと、小夜にも分かった。
モニターの端に映る時刻は、始業まであと数分。
フロアにはいつもの朝の空気が流れている。
昨日までとは違う朝だった。
けれど、もう戻れない朝ではなかった。
小夜は背筋を伸ばし、静かにキーボードへ手を置いた。




