表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
35/64

第三十一話 帰還

 翌朝、会社の最寄り駅を出たところで、小夜は一度だけ足を止めた。


 見慣れた通りだった。

 見慣れたビルが並び、見慣れた人の流れがある。昨日までと何も変わらないように見えるのに、胸の奥だけがまだ落ち着かない。


 行きたくないわけではない。

 けれど、何事もなかったようにあのフロアへ戻っていいのか、自分でもまだうまく分からなかった。


 バッグの持ち手を握り直し、小さく息をつく。

 ここで立ち止まっていても仕方がない。そう思って歩き出した足は、思ったよりもちゃんと前へ進んだ。


 エントランスを抜け、受付の前を通る。

 朝の挨拶の声、開くエレベーターの扉、行き交う社員たちの足音。どれもいつも通りで、その“いつも通り”がかえって小夜の肩を強張らせた。


 総務部のあるフロアに着くと、なおさらだった。


 誰も騒いでいない。

 ひそひそとした空気も、露骨な視線もない。パソコンの起動音がして、コピー機が動き、誰かが電話を取っている。昨日までの緊張が嘘のように、朝の業務が始まっていた。


 それがありがたいのか、少し寂しいのか、自分でも分からない。


「おはよう、柿谷さん」


 背後から声をかけられ、小夜は振り向いた。

 三浦だった。


「三浦さん……おはようございます」


「少し早かったですね」


 いつも通りの穏やかな口調だった。

 その変わらなさに、小夜は少しだけ肩の力を抜く。


「はい。家にいても落ち着かなくて」


「そうですよね」


 三浦はそれ以上踏み込まず、ただ自然にうなずいた。


「でも、来られてよかったです」


 静かな言い方だった。

 気を遣いすぎるでもなく、軽く流すでもない。そのちょうどよさがありがたかった。


「……ありがとうございます」


「無理はしないでくださいね。何かあったら、すぐ言ってください」


「はい」


 三浦はそこで少し視線を和らげた。


「相沢さんももう来ていますし、いつも通りで大丈夫ですよ」


 その一言に、小夜はわずかに息をつく。


「相沢さん、もう……」


「ええ。朝から電話も入っていましたし」


 来ている。

 それだけのことなのに、なぜか少し安心する自分がいる。


「篠宮さんたちは……」


 思わず続けると、三浦は小さくうなずいた。


「危機管理室ももう動いているみたいです。高橋さんも来ているそうですよ」


「そうですか」


「今日は昨日より静かです」


 三浦はそう言って、フロアを見回した。


「だからこそ、かえって落ち着かないかもしれませんけど」


 その言葉が、今の小夜の気持ちに不思議なくらいぴたりとはまる。

 小夜は少しだけ苦笑した。


「……はい。そんな感じです」


「ですよね」


 三浦もわずかに笑った。


「でも、少しずつでいいと思います」


 席に着いてパソコンを立ち上げる。

 画面に映る見慣れたログイン画面を見つめながら、小夜はそっと息を吐いた。


 指先はまだ少し冷たい。

 けれど、震えてはいない。


 始業前の静かな時間が、フロアにゆるやかに流れていく。

 相沢はすでに席にいて、朝から何本か電話を受けていた。いつもと変わらない低い声が聞こえるたび、それだけで総務部の日常が戻ってきたような気がした。


 その一方で、小夜の意識はどうしても別のフロアへ向いてしまう。


 危機管理室。

 篠宮と高橋がいる場所。


 もう来ていると聞いただけで、胸の奥がわずかに揺れた。

 昨日までの緊張が完全に消えたわけではない。それでも、あの人たちも同じ会社の朝を迎えているのだと思うと、少しだけ呼吸がしやすくなる。


 メールを開き、今日の予定を確認する。

 いつも通りの業務連絡が並んでいる。その“いつも通り”が、今はひどくありがたかった。


 しばらくして、内線が鳴った。

 相沢が受け、短く応対したあとで顔を上げる。


「柿谷」


「はい」


「無理はするなよ。午前中は様子見でいい」


 ぶっきらぼうではあったが、声色はいつもより少しだけ柔らかかった。


「……はい」


「篠宮のほうにも、こっちの状況は伝えてある」


 その名前が出た瞬間、小夜の胸が小さく跳ねる。


「そう、ですか」


「ああ。必要なことは向こうで処理に入ってる。お前が気にすることじゃない」


 相沢の言葉は簡潔だった。

 けれど、その簡潔さがかえってありがたかった。聞きたかったことを、必要以上に触れずに伝えてくれる。


「分かりました」


 相沢はそれ以上言わず、また手元の書類に視線を戻した。

 それが相沢なりの気遣いなのだと、小夜にも分かった。


 モニターの端に映る時刻は、始業まであと数分。

 フロアにはいつもの朝の空気が流れている。


 昨日までとは違う朝だった。

 けれど、もう戻れない朝ではなかった。


 小夜は背筋を伸ばし、静かにキーボードへ手を置いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ