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第三十話 帰路

 会社を出たとき、外の空気は思っていたより冷たかった。


 張りつめていた社内の空気とは違う、夜の入口の温度だった。

 小夜は無意識に肩をすくめる。

 その動きを見たのか、隣を歩く澪が歩幅を少しだけ緩めた。


「寒いですか」

「……少しだけ」

「車、すぐ来ます」

「はい」


 短いやり取りだった。

 それだけなのに、胸の奥で張っていたものが少しずつほどけていく。

 もう追いかけなくていい。

 もう廊下の先を気にしなくていい。

 そう頭では分かっているのに、体のほうはまだ緊張を解ききれていなかった。


 エントランス脇の車寄せで立ち止まる。

 夜の街はいつも通りに動いている。

 信号が変わり、車が流れ、人が足早に通り過ぎていく。

 会社の中で起きていたこととは無関係みたいに、世界は何も変わらない顔をしていた。


 そのことが少しだけ不思議で、少しだけ救いでもあった。


「……本当に、終わったんでしょうか」


 気づけば、そんな言葉がこぼれていた。


 澪はすぐには答えなかった。

 小夜の横顔を見てから、静かに言う。


「今日の段階で、必要なところまでは進みました」

「必要なところ」

「はい。少なくとも、これ以上小夜さんに直接触れさせることはありません」


 その言い方は、安心させるために選ばれたものだと分かった。

 終わった、と言い切らないのも澪らしい。

 曖昧にごまかすのではなく、言える範囲だけをきちんと渡してくれる。


「……そうですか」

「怖さがすぐ消えるわけではないと思います」

 澪は続けた。

「でも、もう一人で抱える必要はありません」

 

 小夜は返事をしなかった。

 できなかった、というほうが近い。

 その言葉が思っていたより深く入ってきて、喉の奥が少し詰まる。


 ほどなくして、黒い車が静かに滑り込んできた。

 澪が後部座席のドアを開ける。


「どうぞ」

「……ありがとうございます」


 乗り込むと、シートのやわらかさに一気に力が抜けそうになる。

 澪も隣に乗り、ドアが閉まった。

 車が動き出すと、窓の外の灯りがゆっくり流れていく。


 しばらく、どちらも何も言わなかった。


 沈黙が気まずいわけではない。

 むしろ今は、その静けさがありがたかった。

 何かを話そうとすると、張っていた糸まで一緒に切れてしまいそうだった。


 小夜は膝の上で手を組んだ。

 指先がまだ少し冷たい。

 自分では落ち着いたつもりでも、体は正直だった。


「手、冷えてますね」


 不意に言われて、小夜は顔を上げた。

 澪の視線が、膝の上の手に落ちている。


「え」

「ずっと力が入っていたんだと思います」

「……そうかもしれません」


 言われてみれば、指がこわばっている。

 小夜はそっと手をほどいた。

 けれどすぐにはうまく開けない。


 澪はそれ以上、触れなかった。

 ただ低い声で言う。


「今日は、よく持ちこたえました」

「そんなこと……」

「あります」

 言葉を重ねる余地を与えない、静かな断定だった。

「小夜さんが思っているより、ずっと負担は大きかったはずです」

 

 小夜は窓の外を見た。

 流れていく街の灯りが、少し滲んで見える。


「私、あまり実感がなくて」

「はい」

「怖かったのは分かるんです。でも、まだどこかで、明日になったらまた普通に藤崎さんがいて、何事もなかったみたいに話しかけてくる気がして」

 

 自分で言いながら、背筋が冷えた。

 あの穏やかな顔が、あまりにも日常に馴染みすぎていたからだ。

 だからこそ、今日のことが現実としてうまく収まりきらない。


 澪は少しだけ間を置いた。


「しばらくは、その感覚が残ると思います」

「……はい」

「でも、それでいいです」

 小夜は振り向く。

 澪は前を見たまま続けた。

「急に整理がつくほうが、むしろ不自然です」

 

 その言葉に、小夜は小さく息をついた。

 分からないままでいることを、責められなかった。

 ちゃんと受け止めきれない自分を、否定しなくていいと言われた気がした。


「澪さん」

「はい」

「……ありがとうございました」


 やっと、それだけ言えた。


 澪はすぐには答えなかった。

 数秒の沈黙のあと、静かに返す。


「間に合ってよかったです」


 その一言に、小夜は目を伏せた。

 守ってもらったのだと、改めて分かる。

 大げさなことは何も言わないのに、その言葉だけで十分だった。


 車は大通りを抜け、住宅街へ入っていく。

 窓の外の光が少しずつ減り、見慣れた道が近づいてくる。

 帰る場所があることが、今夜はいつもよりありがたかった。


「高橋さんは、まだ会社ですか」

「はい。残りの確認があります」

「大丈夫でしょうか」

「大丈夫です」

 澪は短く答えた。

「高橋さんは、ああいうときほど手を抜きません」

 少しだけ、声がやわらぐ。

「たぶん今ごろ、首の後ろを押さえながら書類をまとめています」

 

 その様子が目に浮かんで、小夜はほんの少しだけ笑った。

「……そうですね」

「明日にはきっと、何事もなかった顔でコーヒーを飲んでいます」

「それも想像できます」

 

 小さな会話だった。

 けれど、その小ささがありがたかった。

 今日のことだけで世界が埋まってしまわないように、澪が少しだけ日常を戻してくれている気がした。


 やがて車が小夜のマンション前でゆっくり止まる。


「着きました」

「……はい」


 そう返したものの、すぐには動けなかった。

 ここで降りたら、本当に一人になる。

 部屋に入れば静かで、安全で、落ち着けるはずなのに、その静けさを想像すると少しだけ心細い。


 澪は急かさなかった。

 ただ、小夜が言葉を探すのを待っている。


「明日」

 小夜はようやく口を開いた。

「明日、会社に行けばいいんでしょうか」

「無理をしなければ、という前提ですが」

 澪は言った。

「来ても大丈夫です」

「……藤崎さんのことは」

「小夜さんが気にする必要はありません」

 きっぱりとした声だった。

「必要な対応はこちらで進めます」

 

 その言葉に、また少しだけ救われる。

 自分が背負わなくていい範囲を、澪がはっきり線引きしてくれる。


「今日は、できれば早く休んでください」

「眠れるか分かりません」

「眠れなくても、横になるだけで違います」

 澪は淡々と言った。

「温かいものを飲んで、連絡が取れる状態だけ残して、あとは何もしなくていいです」

 

 その指示は、業務連絡みたいに簡潔だった。

 けれど今の小夜には、その簡潔さがありがたかった。

 何をすればいいか分からない夜に、やることを少しだけ決めてもらえる。


「……分かりました」

「もし何かあれば、すぐ連絡してください」

「夜でもですか」

「夜でもです」

 迷いのない返答だった。


 小夜はドアに手をかけ、それからもう一度だけ澪を見た。

 車内の薄い灯りの中で見る横顔は、会社にいたときより少しだけやわらかい。

 けれど目の奥には、まだ今日の緊張が残っている。


「澪さんは、休めますか」

 そう聞くと、澪はほんの少しだけ目を細めた。

「努力します」

 

 その答えが澪らしくて、小夜はまた少しだけ笑った。

 今日初めて、肩の力が抜けた気がした。


「……おやすみなさい」

「おやすみなさい」


 車を降りる。

 夜気が頬に触れる。

 エントランスへ向かって数歩進いたところで、小夜は振り返った。


 車はまだそこにある。

 澪も、まだこちらを見ていた。


 小夜は小さく頭を下げる。

 澪もわずかに頷いた。

 それを見てから、ようやく前を向く。


 エントランスの自動ドアが開き、静かな建物の中へ入る。

 エレベーターを待つあいだ、ガラスに映る自分の顔は思っていたより疲れていた。

 それでも、朝よりは少しだけましに見える。


 部屋に入って鍵をかける。

 その小さな音に、ようやく胸の奥が追いついた。


 終わったのだ。

 少なくとも、今日のぶんは。


 バッグを置き、壁にもたれるようにして立ち尽くす。

 静かな部屋の中で、澪の声が何度もよみがえった。


『もう一人で抱える必要はありません』


 その言葉を思い出した途端、張りつめていたものがゆっくりほどけていく。

 怖さが消えたわけではない。

 明日になれば、また別の現実が待っているのだろう。

 それでも今夜は、少しだけ息ができる。


 小夜はゆっくりと靴を脱ぎ、部屋の奥へ歩き出した。


 長かった一日が、ようやく終わろうとしていた。


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