第二十九話 確保
エレベーターホールへ向かいながらも、小夜の足はひどく重かった。
先に下へ。
澪にそう言われたのに、背中へ張りつく気配が離れない。
振り返ってはいけない気がして、けれど振り返らずにいることも苦しかった。
廊下の角を曲がる直前、小夜はほんの一瞬だけ足を止めた。
耳を澄ませても、後ろから聞こえてくるのは低く抑えた声だけで、言葉までは拾えない。
それがかえって不安を煽る。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるように、小さく呟く。
澪が大丈夫だと言った。
あの声に嘘はなかった。
だから進まなければならない。
小夜は浅く息を吸い、エレベーターのボタンを押した。
到着を待つ数秒が、ひどく長い。
背後の廊下は静かなままだ。
けれどその静けさの下で、何かが確実に動いている。
そんな感覚だけが、肌にまとわりついて離れなかった。
やがてエレベーターが開く。
小夜が乗り込もうとした、そのときだった。
「柿谷さん」
低い声に呼ばれ、肩が跳ねる。
振り返ると、高橋が早足でこちらへ来ていた。
「高橋さん……」
「すみません、少しだけ下で待っていてもらえますか」
声は穏やかだったが、目は周囲を見ている。
「篠宮さんからですか」
「はい」
高橋は短く頷いた。
「一人にはしませんので」
その一言で、小夜は少しだけ息をつけた。
澪だけではない。
もう周囲が動いている。
そう分かるだけで、足元の不安がわずかに薄れる。
「……分かりました」
「ありがとうございます」
二人でエレベーターに乗り込む。
扉が閉まる直前、高橋はさりげなく廊下の奥へ視線を送った。
その目つきだけが、いつもの柔らかさより少し鋭い。
下降する箱の中で、小夜は指先を握りしめた。
「上で、何か」
聞きかけて、言葉が止まる。
高橋はすぐには答えなかった。
階数表示を見上げたまま、静かに言う。
「まだです」
「まだ」
「はい。まだ、話しているだけです」
その“だけ”に、どれだけの意味が含まれているのか分からない。
けれど高橋は続けた。
「ただ、もう逃がさないようにはしてあります」
小夜は息を呑んだ。
逃がさない。
その言葉で、曖昧だったものが一気に現実になる。
エレベーターが一階へ着く。
ロビーは夕方の人の出入りでざわついていたが、小夜にはその音が遠く感じられた。
「こちらへ」
高橋に促され、ロビー脇の応接スペースへ移る。
人目はあるが、話し声は拾われにくい位置だった。
「少しお待ちください」
「……はい」
小夜が腰を下ろすと、高橋は少し離れた場所に立った。
完全に離れるわけではない。
けれど近すぎもしない。
守るための距離だと分かる立ち位置だった。
数分後、高橋のスマートフォンが短く震えた。
画面を見た高橋の表情が、わずかに変わる。
「来ます」
「……え」
「篠宮さんたちが下ります」
小夜は反射的に立ち上がりかけ、けれど膝に力が入らず、椅子の端を掴んだ。
心臓がうるさい。
喉が乾く。
視線は自然とエレベーターのほうへ吸い寄せられた。
ほどなくして、扉が開く。
最初に出てきたのは澪だった。
表情は変わらない。
けれど目だけが、いつもよりさらに冷えて見える。
その半歩後ろに、藤崎真弓がいた。
そして少し遅れて、別方向から来た男性社員が二人、自然な動きで合流する。
囲む、というほど露骨ではない。
だが進路はきれいに狭まっていた。
小夜は息を止めた。
藤崎はまだ穏やかな顔をしていた。
乱れた様子も、取り乱した様子もない。
それなのに、その穏やかさが今はひどく不自然だった。
「こちらで少しお話を伺います」
澪の声は低く、事務的だった。
「急にどういうことですか」
藤崎は困ったように眉を寄せる。
「私はただ、少し確認したいことがあって声をかけただけです」
「承知しています」
澪は淡々と返した。
「そのうえで、こちらへお願いします」
藤崎の視線が一瞬だけ流れる。
逃げ道を探したのかもしれない。
けれどすぐに、それがないと悟ったようだった。
「……何か誤解があるのでは」
「その可能性も含めて確認します」
「ここでですか」
「必要な場所で」
短いやり取りだった。
声は荒がっていない。
誰も大きな音を立てない。
それでも、もう形は決まっていた。
藤崎はそこで初めて、小さく息を吐いた。
笑みはまだ消えていない。
だがその端が、わずかに硬い。
「ずいぶん手回しがいいんですね」
その言葉に、高橋が一歩だけ位置を変える。
澪は表情を動かさなかった。
「業務上、必要な対応です」
「……そうですか」
藤崎の目が、ふとロビーの奥へ向く。
その先に小夜がいることに気づいたのだと、すぐ分かった。
視線が合う。
ほんの一瞬だった。
けれど小夜の背筋は凍りついた。
あの穏やかな顔の下に、何があるのか。
今さらのように思い知らされる。
次の瞬間、澪がわずかに立ち位置をずらした。
それだけで藤崎から小夜が見えにくくなる。
「行きましょう」
澪が言う。
藤崎は何か言いかけ、結局やめた。
代わりに小さく肩をすくめるような仕草をして、促されるまま歩き出す。
男性社員二人が自然に前後へつく。
高橋も合流し、四人の動きはあくまで静かだった。
騒ぎにはしない。
けれど、もう自由にはさせない。
その意思だけがはっきり見えた。
小夜はその背中を見送った。
足先が冷たい。
指先の感覚も薄い。
なのに頭だけが妙に冴えている。
確保されたのだ。
藤崎真弓が。
もう疑いではなく、もう候補でもなく。
現実として、そこに線が引かれた。
どれくらいそうしていたのか分からない。
やがて高橋が一人で戻ってきた。
「柿谷さん」
呼ばれて顔を上げる。
「……はい」
「もう大丈夫です」
その言葉に、張りつめていたものが少しだけ緩む。
「篠宮さんは」
「少しだけ確認があります。すぐ来ます」
「そうですか」
小夜は座り直した。
力が抜けたせいで、今度は逆に体が重い。
高橋は向かいには座らず、斜め前に立ったまま言う。
「今日はこのままお送りします」
「え」
「常務からも、そのようにと」
小夜は目を瞬いた。
あの短い言葉の向こうに、見えない配慮がいくつもあったのだと、今になって分かる。
「……ありがとうございます」
「いえ」
高橋は少しだけ表情をやわらげた。
「澪さんにも、そうするよう言われています」
その名前を聞いた途端、胸の奥が少しだけほどける。
まだ全部は終わっていない。
事情聴取も確認も、この先きっと続く。
けれど少なくとも、今この瞬間は越えたのだと思えた。
しばらくして、澪が戻ってきた。
足音だけで分かった。
顔を上げると、澪はまっすぐ小夜の前まで来て立ち止まる。
「お待たせしました」
「……はい」
小夜は澪の顔を見た。
いつも通り落ち着いている。
けれど近くで見ると、張っていた緊張がまだ完全には解けていないのが分かる。
「終わったんですか」
小夜の声は、自分でも驚くほど小さかった。
澪は数秒だけ黙った。
それから、はっきりと言う。
「終わりました」
その一言は短く、静かで、そして決定的だった。
小夜は息を吸い、ゆっくり吐いた。
胸の奥に沈んでいた重いものが、少しずつ形を変えていく。
怖さが消えたわけではない。
むしろ現実になった分だけ、別の震えがある。
それでも、もう曖昧ではなかった。
「……藤崎さん、だったんですね」
「はい」
澪は目を逸らさない。
「もう候補ではありません」
その言葉で、小夜の中の何かがようやく追いついた。
もう候補ではない。
疑いでもない。
見間違いでも、考えすぎでもない。
自分が感じていた違和感も、怖さも、全部そこへつながっていたのだ。
小夜は唇を結び、目を伏せた。
泣くつもりはなかった。
けれど張りつめていた糸が切れたように、視界が滲む。
「……すみません」
「謝らなくていいです」
澪の声は低く、やわらかかった。
「よく耐えました」
その一言で、こらえていたものが少しだけ零れた。
小夜は俯いたまま、小さく息をつく。
肩が震えないようにするので精一杯だった。
澪は急かさなかった。
高橋も何も言わない。
ロビーのざわめきだけが遠く流れていく。
しばらくして、小夜はようやく顔を上げた。
「……帰れますか」
「はい」
澪が答える。
「今日は私が送ります」
「高橋さんは」
「私は後ろで動きます」
高橋が静かに言った。
「気にしないでください」
その言い方がありがたくて、小夜は小さく頭を下げた。
立ち上がると、足元はまだ少し頼りなかった。
けれど澪がすぐ隣に立つ。
それだけで、どうにか歩ける気がした。
ロビーを出る前に、小夜は一度だけ振り返った。
もう藤崎の姿は見えない。
さっきまでそこにいたはずなのに、まるで最初からいなかったように空間だけが残っている。
けれど、もう消えはしない。
起きたことは、なかったことにはならない。
外へ出ると、夕方の空気は少しだけ涼しかった。
張りつめていた社内の空気とは違う、現実の温度だった。
「冷えますね」
澪が言う。
「……少しだけ」
「車を近くまで回します」
「はい」
短いやり取りが、ひどくありがたかった。
難しいことを考えなくていい。
今はただ、その声に従っていればいい。
澪は小夜の歩幅に合わせて歩いた。
急がせず、離れず、けれど必要以上に触れもしない。
その距離が、今の小夜にはちょうどよかった。
建物の灯りが背後で滲む。
今日一日が終わったわけではない。
むしろここから整理されることのほうが多いのだろう。
それでも、ひとつだけはっきりしている。
もう、候補ではない。
その事実だけを胸に抱えながら、小夜は澪と並んで夜の入口へ歩き出した。




