第二十八話 挑発
午後の空気は、午前よりもさらに重かった。
別室の時計が刻む音だけが、妙に耳につく。
小夜は机の上の資料を開いたまま、ほとんど同じ行を何度も目でなぞっていた。
文字は読めるのに、意味が頭へ入ってこない。
意識はずっと、廊下の向こうへ引かれている。
澪から届いた短いメッセージは、それきりだった。
『このままそこで待っていてください』
それだけで、何かが動いているのだと分かる。
けれど何が、どこまで進んでいるのかは分からない。
分からないまま待つ時間は、思っていた以上に長かった。
ノックの音がするたび、肩が揺れる。
足音が近づいては遠ざかるたび、呼吸が浅くなる。
自分でも神経が尖りすぎていると分かるのに、どうにもならない。
やがてドアが開き、澪が戻ってきた。
「……おかえりなさい」
言ってから少しだけ気まずくなる。
けれど澪は、今日はすぐに返した。
「ただいま」
その一言が、思いがけないほど静かに胸へ落ちる。
小夜は目を伏せ、指先をそっと握った。
「何か、分かりましたか」
澪はドアを閉めてから、小夜の向かいに立った。
「一つずつ、つながってきました」
「……つながった」
「はい」
澪の声は低く、いつも通り落ち着いている。
その落ち着きが、逆に事態の重さを伝えてきた。
「共有端末の使用時間、役員フロア寄りの移動、総務側への不自然な立ち寄り」
澪は言葉を選ぶように区切った。
「それぞれ単体なら、まだ偶然で片づけられます」
「でも」
「重なり方が偶然では済まないところまで来ています」
小夜は息を止めた。
喉の奥が、ひどく乾く。
「……藤崎さん、ですか」
自分で口にした名前なのに、ひどく遠く聞こえた。
澪はすぐには答えなかった。
数秒の沈黙のあと、静かに言う。
「内部では、ほぼ見ています」
「ほぼ……」
「断定に近いです」
小夜の指先が、膝の上でわずかに震えた。
断定に近い。
その言葉は、予感していたよりもずっと重かった。
疑いではない。
もう、候補の一人でもない。
名前の輪郭が濃くなりすぎて、目を逸らせないところまで来ている。
「ただ、まだ表には出しません」
澪が続ける。
「今ここで動けば、相手に逃げる余地を与える可能性がある」
「……はい」
「ですから、小夜さんはこのまま待機してください」
「分かりました」
頷きながらも、胸の奥は落ち着かなかった。
待つしかないと分かっている。
それでも、自分のことなのに自分だけが外に置かれているような感覚がある。
澪はその表情を見たのか、少しだけ声をやわらげた。
「置いていくわけではありません」
小夜は顔を上げる。
「え」
「必要なことは、きちんと伝えます」
その言い方は、説明というより約束に近かった。
「だから今は、ここにいてください」
「……はい」
そのとき、再びドアがノックされた。
「失礼します」
入ってきたのは高橋だった。
今日も首の後ろに手を当てているが、顔つきは昨日までより引き締まっている。
「すみません、少しだけ」
高橋はそう言って、澪へ薄いファイルを差し出した。
「最終確認、取れました」
澪が受け取る。
「確定ですか」
「かなり近いです。もう十分、見ていいと思います」
高橋は疲れたように息を吐いた。
「共有端末の使用者、時間帯、出入りの記録、きれいに重なってます」
「本人の言い逃れは」
「まったくできないとは言いませんけど、少し厳しいですね」
高橋はそこで一度、小夜を見た。
気遣うように、少しだけ声を落とす。
「偶然で通すには、無理があると思います」
「このあと、どうしますか」
高橋が澪に聞く。
「今日はまだ表立っては動きません」
澪は即答した。
「位置だけ見ます」
「分かりました。常務にも一応、報告は入れてあります」
高橋は少し声を落とした。
「"小夜"をよろしく頼む、と。」
「ありがとうございます」
「人は」
「もう置いてあります」
高橋は短く答えた。
「目立たないようにはしてます」
「十分です」
「では、戻ります」
高橋は首を軽く回し、顔をしかめた。
「終わったらちゃんと休んでください」
澪が言うと、高橋は少しだけ苦笑した。
「そうしたいですね」
それだけ言って、高橋は部屋を出ていった。
ドアが閉まる。
静けさが戻る。
小夜は膝の上の手を見つめた。
もう、ほぼ間違いない。
そう言われたのに、現実感だけが少し遅れてやってくる。
「怖いですか」
澪が静かに聞いた。
小夜は少し迷ってから、頷いた。
「……はい」
「そうでしょうね」
澪は否定しない。
慰めるような軽い言葉も使わない。
ただ、そのまま受け止める。
「でも、ここまで来たら曖昧なままでは終わらせません」
小夜はゆっくり顔を上げた。
「終わるんですか」
「終わらせます」
その言葉に、迷いはなかった。
小夜は息をついた。
安心したのか、余計に怖くなったのか、自分でも分からない。
ただ、澪の声だけが不思議とまっすぐ胸へ入ってくる。
「今日はこのまま、帰るまで一人にしません」
「……今日も、ですか」
「今日もです」
澪は言った。
「必要なら、その先も」
以前に聞いた言葉と同じなのに、今日は少し意味が違って聞こえた。
守るためだけではない。
決着の前に立つ人の声だった。
夕方が近づくにつれ、社内の空気はさらに張っていった。
表向きは変わらない。
電話が鳴り、コピー機が動き、人が行き交う。
けれど、その下に見えない線が何本も引かれているような感覚がある。
誰がどこにいて、誰が何を見ているのか。
小夜には全部は分からない。
それでも、もう何人かが同じ方向を向いていることだけは伝わってきた。
帰る時間が近づき、澪は小夜を別室から出した。
廊下へ出ると、照明の白さがやけに冷たく見える。
「このまま下へ」
「はい」
澪はいつものように、小夜の外側を歩いた。
その位置は変わらない。
けれど今日は、守るためだけではなく、何かに備えるための距離にも見えた。
エレベーターホールの手前で、澪が一度だけ足を止める。
視線が廊下の先へ向いた。
小夜もつられてそちらを見る。
秘書室の方向から、誰かが歩いてくる。
ヒールの音は一定で、急ぎも迷いもない。
やがて姿が見えた。
藤崎真弓だった。
小夜の喉がひどく狭くなる。
足が止まりそうになるのを、どうにかこらえる。
藤崎はいつもと変わらない表情をしていた。
整った髪、乱れのない服、穏やかな口元。
それなのに、今はその何もかもが薄く作られたもののように見える。
澪は立ち止まったまま、表情を変えなかった。
小夜の前へ出るわけでもなく、かといって離れるわけでもない。
ただ、そこにいる。
藤崎は二人の少し手前で足を止めた。
視線はまず澪へ向き、それから一瞬だけ小夜へ流れる。
その一瞬だけで、小夜の背中に冷たいものが走った。
「お疲れさまです」
藤崎は柔らかく言った。
「お疲れさまです」
澪の返答は平坦だった。
短い沈黙が落ちる。
周囲にはまだ人の気配がある。
けれどこの場所だけ、音が遠のいたように感じた。
藤崎は微笑みを崩さないまま、澪を見た。
「……澪さん、少しよろしいですか」
その声は穏やかだった。
丁寧で、落ち着いていて、どこにも不自然さはない。
なのに小夜は、胸の奥が一気に冷えるのを感じた。
タイミングが、できすぎていた。
こちらが何かを掴んだ、その直後に。
まるで、それを知っていたかのように。
澪は一拍だけ置いて、藤崎を見返した。
その目にはもう迷いがない。
小夜には分かった。
澪は、もう確信している。
「内容によります」
静かな声だった。
藤崎の笑みが、ほんのわずかに深くなる。
「すぐ済みます」
その言い方は丁寧なのに、どこか試すようでもあった。
小夜は息を潜めたまま、二人を見た。
穏やかな会話の形をしているのに、そこには見えない刃のようなものがある。
藤崎は気づいているのかもしれない。
こちらの視線に。
こちらの変化に。
そして澪が、自分をもう候補としてではなく見ていることに。
それでも自分から来た。
逃げるのではなく、測りに来た。
その事実が、何より怖かった。
澪は小夜を振り返らなかった。
けれど低く、はっきりと言う。
「柿谷さんは先に下へ」
小夜は一瞬、言葉を失った。
「でも」
「大丈夫です」
短いその一言に、逆らえない強さがあった。
小夜は唇を結び、かすかに頷く。
足を動かしながらも、背中に二人の気配を強く感じる。
通り過ぎる直前、藤崎の声がもう一度聞こえた。
「少しだけ、お話ししたかったんです」
その声音は、どこまでも穏やかだった。
けれど小夜には、それが挨拶でも相談でもなく、
静かに差し出された挑発のように思えた。




