第二十七 輪郭
夕方、会社を出る頃には、空の色が少しだけやわらいでいた。
小夜は澪と並んでエレベーターへ向かった。
今日は一日、ほとんど別室で過ごしたせいか、時間の流れがいつもより曖昧だった。
仕事はしていたはずなのに、気持ちはずっとどこか張ったままで、肩の奥に薄い疲れが残っている。
「そのまま帰れそうですか」
澪が歩幅を合わせたまま聞く。
「……はい」
「無理なら言ってください」
「大丈夫です」
そう答えたものの、声に少し力が足りなかった。
澪はそれ以上は言わなかった。
ただ、小夜の半歩外側を歩く位置を崩さない。
エレベーターを降り、エントランスを抜ける。
外気に触れた瞬間、小夜はわずかに息をついた。
社内にいる間よりは、少しだけましだった。
けれど完全に気が抜けるわけではない。
車に乗り込んでからもしばらく、小夜は窓の外を見ていた。
流れていく街の灯りが、どこか遠い。
信号待ちで止まるたび、歩道の人影に目が向く。
誰もこちらを見ていない。
それでも、見られているかもしれないという感覚だけが残る。
「今日は、少し早めに休んでください」
澪が前を見たまま言った。
「……はい」
「考えすぎないように」
「難しいです」
小夜が小さく言うと、澪はほんの少しだけ口元を緩めた。
「そうでしょうね」
その返し方が、少しだけ救いになる。
「でも、考えなくていいところまでは、こちらで持ちます」
小夜は返事をしなかった。
できなかった、のほうが近い。
胸の奥が静かに熱を持って、言葉がうまく出てこない。
マンションの前に着くと、澪は昨日と同じように周囲へ視線を走らせた。
エントランス前、植え込み、通りの向こう、駐車車両。
その確認の仕方が自然すぎて、かえって小夜は何も言えなくなる。
「入ったら連絡を」
「はい」
「鍵も忘れずに」
「……はい」
小夜は車を降りた。
エントランスへ向かいながら、また一度だけ振り返る。
澪はまだそこにいた。
その姿を見てから、小夜は中へ入った。
部屋に戻り、鍵をかける。
チェーンも掛ける。
カーテンを閉め、窓の鍵も確かめる。
昨日と同じ動作なのに、今日は少しだけ手順が早かった。
慣れたわけではない。
ただ、確認しなければ落ち着かないことが、もう体に入ってしまっていた。
澪へ短く連絡を入れる。
『入りました』
すぐに返ってくる。
『分かりました。何かあればすぐに』
小夜は画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。
それからソファに座り、背もたれへ体を預ける。
静かだった。
けれど昨日ほど、静けさに押される感じはない。
怖さが消えたわけではない。
ただ、輪郭のない不安だけではなくなってきている。
相手がいる。
まだ断定ではないが、近づいている。
そしてこちらも、ただ怯えているだけではない。
そう思えることが、わずかに支えになっていた。
翌朝、小夜が出社すると、空気が少し違っていた。
表向きはいつも通りだ。
人が行き交い、電話が鳴り、資料が運ばれる。
けれどその下に、見えない緊張が一枚敷かれているような感覚がある。
自席に着いてほどなく、澪が来た。
「おはようございます」
「……おはようございます」
「体調は」
「大丈夫です」
小夜が答えると、澪は一瞬だけ小夜の顔を見た。
「無理はしてますね」
「……少しだけ」
「正直で助かります」
その言い方に、小夜はわずかに目を伏せた。
「今日は午前中、ここで通常業務です」
澪が続ける。
「ただし移動は単独でしないでください」
「はい」
「昼前に一度、別室へ」
「分かりました」
小夜は頷いた。
そのとき、廊下の向こうで誰かのヒールの音がした。
反射的にそちらへ意識が向く。
秘書室の方向だった。
姿は見えない。
ただ、それだけで胸の奥がざわつく。
自分でも過敏だと思う。
けれど、もう気のせいだけでは済まないところまで来ている。
午前の仕事は、思った以上に集中できなかった。
資料の数字を追っていても、ふとした拍子に視線が浮く。
誰かが通る。
足音が止まる。
それだけで肩が強張る。
昼前、澪に呼ばれて小夜は席を立った。
廊下へ出ると、澪は自然な動きで小夜の外側に立つ。
その位置取りが、もう説明なしでも分かるようになっていた。
別室へ入ると、机の上には新しい紙が二枚だけ置かれていた。
澪はドアを閉めてから、小夜の向かいに座る。
「昨夜から今朝にかけて、追加で見えたことがあります」
小夜は息を整えて頷いた。
「藤崎真弓の動きです」
その名前が出た瞬間、胸の奥が少しだけ固くなる。
「昨日、総務側の共有スペース付近へ出ていた件ですが、前後の動線を追うと、理由の薄い移動がもう一つあります」
「……どこですか」
「役員フロア寄りの廊下です」
小夜の指先がわずかに動いた。
「時間は短いです。ただ、用件が見えない」
「そうですか」
「はい。しかも、その時間帯は小夜さんの移動と近い」
小夜は息を詰めた。
澪はそこで言葉を切った。
必要以上に畳みかけない。
その間があるから、小夜もどうにか呼吸を戻せる。
「まだ、それだけで何かを決めるつもりはありません」
澪が静かに言う。
「ただ、見ておくべき重なり方です」
「……はい」
そのとき、ドアが軽くノックされた。
「失礼します」
入ってきた高橋は、今日も首の後ろを押さえていた。
昨日より少しだけ顔がしかめられている。
「大丈夫ですか」
澪が見る。
「大丈夫じゃないです」
高橋は即答した。
「でも一件だけ」
机の端に紙を置く。
「追加で一件。共有端末の件、かなり寄ってます」
小夜の呼吸が浅くなる。
澪が紙へ目を落とした。
「昨日より進みましたか」
「はい。確定まではまだですけど、使える人間がかなり絞れた」
「藤崎真弓は」
「候補の中にいます」
短い沈黙が落ちる。
「それと、時間の重なり方がやっぱり良くないです」
高橋は首を押さえ直した。
「詳しいのは後で送ります。俺は戻ります」
「分かりました」
澪が頷く。
「休んでください」
「休めたら休みます」
高橋はそれだけ言って、すぐに部屋を出ていった。
ドアが閉まる。
残された紙の重さだけが、部屋に残った。
小夜は膝の上で手を握った。
昨日より、さらに近い。
まだ断定ではない。
それでも、もう名前の輪郭はかなり濃くなっている。
「怖いですか」
澪が静かに聞いた。
小夜は少し迷ってから、頷いた。
「……はい」
「そうでしょうね」
澪の声は低く、落ち着いていた。
「でも、今ここで一人にすることはありません」
小夜は顔を上げる。
「今日も、ですか」
「今日もです」
澪は迷いなく言った。
「必要なら明日も、その先も」
その言葉に、小夜は一瞬だけ息を止めた。
必要なら明日も、その先も。
短いのに、思った以上に深く胸へ落ちる。
守るための言葉だと分かっている。
それでも、ただの業務連絡としては受け取れなかった。
「……ありがとうございます」
やっとそれだけ言うと、澪は小さく頷いた。
「午後、少し動きます」
「動く?」
「はい。こちらで確認したいことがあります」
澪は紙を整えながら言った。
「柿谷さんは別室で待機してください」
「私も行ったほうがいいですか」
「いいえ」
返答は即答だった。
「今は、行かないほうがいい」
「……分かりました」
小夜は頷いた。
自分が行けば、余計に相手を刺激するかもしれない。
そう思えば納得はできる。
けれど、何も知らされないまま待つことへの落ち着かなさもあった。
午後、小夜は別室で資料整理をしていた。
文字を追っていても、頭には入ってこない。
時計を見る回数ばかり増える。
廊下の向こうで足音が止まるたび、意識がそちらへ向く。
ノックの音がするたび、肩が揺れる。
そのたびに、自分でも分かるほど神経が尖っていた。
しばらくして、スマートフォンが震えた。
澪からだった。
『このままそこで待っていてください』
短い文面。
それだけで、何かが動いているのだと分かる。
小夜は画面を見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。
待つしかない。
今はそれしかできない。
十分ほどして、ドアが開いた。
入ってきたのは澪だった。
「……おかえりなさい」
思わずそう言ってから、小夜は少しだけ目を見開いた。
自分でも、その言葉が自然に出たことに驚いた。
澪も一瞬だけ目を止めたが、すぐに表情を戻した。
「ただいま、と言うべきでしょうか」
その返しに、小夜はわずかに息をつく。
緊張の中で、ほんの少しだけ空気がやわらいだ。
「何か、ありましたか」
「確認を一つ」
澪は答えた。
「まだ途中です。ただ、見ていた方向は間違っていません」
「……そうですか」
「はい」
それ以上は言わなかった。
言えないのだと分かる。
けれど、外していないという一言だけで十分だった。
夕方、帰る支度をしながら、小夜は窓の外を見た。
空は薄く色を変え始めている。
昼と夜の境目のような時間だった。
曖昧だったものが、少しずつ形を持つ。
見えなかったものが、近づくほど輪郭を持つ。
それは怖いことでもある。
けれど同時に、もう逃げ場のない不安だけではなくなってきていた。
帰り際、澪が言った。
「今日は昨日より、少し進みました」
「……はい」
「だからこそ、気を抜かないでください」
「分かりました」
「送ります」
小夜は小さく頷く。
「お願いします」
並んで部屋を出る。
廊下の照明が床へまっすぐ落ちていた。
その光の中を歩きながら、小夜は静かに思う。
相手はまだ、完全には姿を見せていない。
けれど、こちらももう目を逸らしてはいない。
近づいているのは、向こうだけではなかった。




