第二十六話 陰影
その夜、小夜は澪にマンションの前まで送られた。
車が止まり、シートベルトを外しても、すぐにはドアを開けられなかった。
エントランスの灯りが、今夜は妙に白く見える。
見慣れているはずの建物なのに、どこかよそよそしかった。
「部屋に入ったら、鍵をかけてください」
澪が言った。
「……はい」
「入ったら連絡を」
「分かりました」
小夜は頷いて車を降りた。
足をつけた瞬間、夜気が思ったより冷たく感じる。
エントランスへ向かいながら、一度だけ振り返った。
澪はまだ車を出していなかった。
こちらを見ているのが分かる。
その視線に少しだけ息をついて、小夜は中へ入った。
エレベーターを待つ時間が長い。
背後の気配が気になって、何度も入口のほうを見そうになる。
誰もいない。
それでも、肩の奥の強張りは抜けなかった。
部屋に入ると、すぐに鍵をかけた。
チェーンも掛ける。
それで終わるはずなのに、玄関からしばらく動けなかった。
昨夜、ここに戻ってきたときのことを思い出す。
ポストの中に入っていた封筒。
差出人のない紙。
自分の行動を知っているような文面。
あれを見た瞬間の冷たさが、まだ体のどこかに残っている。
スマートフォンを取り出し、短くメッセージを送った。
『部屋に入りました。鍵もかけました』
すぐに既読がつく。
『分かりました。今日はもう休んでください』
それだけの文面なのに、少しだけ呼吸がしやすくなった。
小夜はソファに腰を下ろした。
部屋は静かだった。
静かすぎて、冷蔵庫の作動音や外を走る車の音まで近く聞こえる。
目を閉じると、会議室の光景が浮かぶ。
モニターに並んだ静止画。
高橋の声。
澪の低い声。
そして、藤崎真弓という名前。
まだ断定ではない。
それでも、もうただの可能性では済まないところまで来ている。
小夜は膝の上で手を組んだ。
指先が少し冷たい。
入社して間もない頃のことを思い出す。
夕方の廊下。
コピー機の音。
書類を抱えて歩いていた自分。
その先に、誰かが立っていた気配。
顔は見ていない。
振り向いたわけでもない。
けれど、見られていると分かった瞬間があった。
あれが本当に藤崎真弓だったのかは分からない。
でも、もし最初から知っていたのだとしたら。
あの頃からずっと、自分は視界に入れられていたのかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥がひやりとした。
小夜は立ち上がってカーテンを閉めた。
窓の鍵も確かめる。
いつもなら気にしないことを、一つずつ確認しないと落ち着かなかった。
ベッドに入っても、すぐには眠れなかった。
廊下の物音がするたびに意識がそちらへ向く。
隣室のドアが閉まる音にも肩が揺れる。
大丈夫だと、自分に言い聞かせる。
けれど、言い聞かせるほど逆に意識してしまう。
そのたびに思い出すのは、昼間の澪の声だった。
――今は、そこまで決めなくて大丈夫です。
――ただ、切らずに残しましょう。
あの落ち着いた声を思い出すと、少しだけ呼吸が戻る。
怖さが消えるわけではない。
それでも、全部を一人で抱えなくていいと思えるだけで違った。
翌朝、小夜は少し早めに家を出た。
人の多い時間帯のほうが、かえってましな気がした。
会社に着いても、落ち着かなさは消えない。
エレベーターの中でも、廊下を歩いていても、誰かの視線に敏感になる。
後ろから足音が近づくだけで、背中が強張った。
自席に着いてしばらくした頃、澪が来た。
「おはようございます」
「……おはようございます」
小夜が返すと、澪は一度だけ表情を和らげた。
「昨夜は眠れましたか」
「少しだけ」
「そうですか」
短いやり取りのあと、澪は周囲に聞こえる程度の声量で続けた。
「今日は移動の予定が入るかもしれません」
「移動、ですか」
「はい。単独では動かないでください」
「……分かりました」
「何かあれば、すぐ声をかけてください」
「はい」
業務連絡の形を取っているのに、言葉の芯ははっきりしていた。
小夜は小さく頷く。
午前の仕事を進めながらも、意識はどこか落ち着かなかった。
資料を確認していても、ふとした拍子に昨日の会議室が浮かぶ。
藤崎真弓。
入社時のメール。
常務秘書。
視線。
投函。
アクセスログ。
ばらばらだったものが、少しずつ同じ方向を向き始めている。
昼前、澪に呼ばれて小夜は別室へ入った。
机の上には資料が数枚だけ置かれている。
昨日より少ない。
必要なものだけに絞ったのだと分かった。
澪は椅子を引きながら言った。
「今日は確認だけにします」
「……はい」
「昨日出た情報を、今の動きと重ねています」
小夜は頷いて座った。
澪が紙を一枚手に取る。
「藤崎真弓は、入社時点で小夜さんを認識していた」
低い声が、静かな部屋に落ちる。
「その後も接点が切れていない。騒動の時期にも会話がある。今も常務秘書として近い位置にいる」
小夜は膝の上で手を組み直した。
「……はい」
「ここまでは、もう偶然で片づけにくいです」
澪は言った。
「ただ、まだ断定はしません」
その言葉に、小夜は少しだけ息をつく。
「今は、接点と導線を固める段階です」
そのとき、ドアが軽くノックされた。
「失礼します」
入ってきた高橋は、片手で首の後ろを押さえていた。
顔色は悪くないが、動きが少し硬い。
「首、大丈夫ですか」
以前も感じた違和感のまま澪が見る。
「気にしないで。報告だけしますね」
高橋は短く言って、机の端に紙を一枚置いた。
「追加で一件。共有端末の件、かなり寄ってます」
部屋の空気がわずかに張る。
澪の視線が紙へ落ちた。
「どこまで」
「藤崎真弓が使える位置にあった端末です。まだ確定前ですけど、前後の動きが嫌な重なり方してる」
「……そうですか」
「はい。だから一応、先に」
高橋はそこで小さく首を押さえ直した。
「詳しいのは後で送ります。俺、いったん戻ります」
「分かりました」
澪が頷く。
「無理はしないでください」
「そっちも」
高橋はそれだけ言って、すぐに部屋を出ていった。
ドアが閉まる。
短い報告だったのに、残った重さは小さくなかった。
小夜は机の上の紙を見た。
文字までは読めない。
けれど、今のやり取りだけで十分だった。
「昨日より、近づいてますよね」
気づけば、そう口にしていた。
澪はすぐに答えた。
「はい」
短く、はっきりした声だった。
「近づいています」
「……そうですか」
「でも、こちらも同じです」
小夜が顔を上げる。
澪はまっすぐ小夜を見ていた。
「向こうが近くにいたなら、こちらももう見失いません」
その言葉は静かだった。
けれど、昨日よりも強かった。
小夜は息をつく。
怖い。
それは変わらない。
けれど、ただ追われるだけではないのだと、その一言で少しだけ思えた。
「今日は午後も別室で」
澪が言う。
「必要な資料は私が持ってきます。移動は一人にしません」
「……はい」
「何か思い出しても、今すぐ整理しなくていいです」
小夜は頷く。
「断片のままで残してください」
「分かりました」
話が切れたあと、部屋に短い沈黙が落ちた。
小夜は机の上の紙コップに手を伸ばした。
水を一口飲んでも、胸のざわつきは消えない。
それでも昨日とは違った。
曖昧だったものが、少しずつ形を持ち始めている。
怖さは増しているのに、同時に、どこを見ればいいのかも見え始めていた。
午後、小夜は澪の指示どおり別室で仕事をすることになった。
必要な資料は澪が持ってくる。
移動も一人ではしない。
窓の外は明るかった。
何事もない昼の光が、かえって現実感を薄くする。
それでも、現実は確かに動いている。
記録の中で。
人の動きの中で。
そして、自分の記憶の中で。
小夜は資料へ目を落とした。
文字を追っていても、意識のどこかではずっと考えている。
入社した頃から続いていたかもしれない視線。
今も社内にいる誰か。
昨日の封筒。
そして、藤崎真弓という名前。
光の下に出てきたものは、もう完全には隠れない。
曖昧だった輪郭が、少しずつ形を持ち始めている。
その形が何を意味するのか、まだ全部は見えていない。
けれど、昨日までとは違う。
ただ怖がるだけの段階は、もう過ぎつつあった。
夕方が近づく頃、澪が資料を持って部屋へ戻ってきた。
「少し休憩を入れてください」
「……はい」
「今日はこのまま、私が送ります」
小夜は顔を上げた。
「でも」
「決定です」
澪の言い方は穏やかだったが、譲る気はなかった。
小夜は小さく頷いた。
「分かりました」
「それと」
澪は一度言葉を切る。
「何か思い出したら、断片のままで構いません。すぐに言ってください」
「……はい」
「一人で抱えないでください」
その一言が、静かに胸へ落ちる。
小夜は紙コップを持ったまま、ゆっくり息を吐いた。
昨日よりも、影は濃くなっている。
けれど同時に、どこに落ちている影なのかも見え始めていた。
光が強くなるほど、陰影ははっきりする。
ならばもう、目を逸らさずに見ていくしかないのだと、小夜は静かに思った。




