第二十五話 視線
午後の危機管理室は静かだった。
澪は机の上の資料を見下ろしていた。
入社時のメール。
アクセスログ。
昨夜の投函時刻。
役員フロアの見取り図。
どれも決定打ではない。
けれど、並べると同じ方向を向き始めている。
向かいで高橋がノートPCを見ていた。
「共有端末の利用者、もう少しで絞れます」
「候補は」
「まだ三人です」
「多いですね」
「でも減ります」
澪は短く頷いた。
昨夜の投函。
その前後のアクセス。
入社時からの接点。
騒ぎの中で見た短い会話。
そして、小夜の中に残っていた視線の記憶。
偶然で片づけるには、重なりすぎていた。
「柿谷さんは」
澪が聞く。
「別室です。少し休んでます」
「そうですか」
あれ以上、無理に思い出させるべきではなかった。
けれど、小夜の断片は大きい。
入社して間もない頃。
役員フロア近くの廊下。
夕方。
誰かの視線。
顔は見ていない。
でも、見られていた感覚だけが残っている。
「篠宮さん」
高橋が画面を見たまま言った。
「藤崎真弓、今日の午後に総務へ行ってます」
澪が顔を上げる。
「理由は」
「表向きは書類受け渡しです」
「表向きは」
「はい。少し長い」
澪は黙った。
総務。
共有端末。
個人情報管理システム。
また一つ、線が近づく。
そのとき、ドアが控えめに開いた。
小夜が入ってくる。
「起きてて大丈夫ですか」
「じっとしてるほうが落ち着かなくて」
「無理はしないでください」
「はい」
小夜は澪の隣に座った。
顔色はまだ白い。
でも、目は少し戻っていた。
「何か思い出しましたか」
澪が聞く。
小夜は少し迷ってから口を開く。
「思い出したっていうより、引っかかってることがあって」
「はい」
「入社した頃、役員フロアの近くで、見られてる感じが一度じゃなかった気がするんです」
高橋の手が止まる。
「回数は分かりません」
小夜は続けた。
「でも、一回だけなら、こんなに残らない気がして」
「場所は」
「たぶん同じあたりです」
「時間は」
「夕方が多かったような……でも曖昧です」
「十分です」
澪は言った。
「今は切らずに残しましょう」
小夜は少しだけ肩の力を抜いた。
「もう一つ」
小夜が言う。
「藤崎さんのこと、最初から“いるのが自然な人”として見てた気がします」
「秘書だから」
「はい。常務の近くにいて当然の人、って」
澪は小さく息をついた。
それがいちばん厄介だった。
近くにいても不自然じゃない。
見かけても引っかからない。
知っていても警戒されにくい。
「高橋さん」
「はい」
「当時の秘書室の配置、役員フロアの動線、洗ってください」
「了解です」
小夜は膝の上で手を組んだまま言った。
「私、気にしすぎなんだと思ってました」
「そう思って打ち消してきたんですね」
「……はい」
「でも、全部が無意味だったとは限りません」
澪は静かに言った。
「だから、もう自分の感覚を全部否定しなくていいです」
小夜は黙って頷いた。
「共有端末、候補が二人まで絞れました」
高橋が言う。
「一人は総務。もう一人は秘書室からの立ち寄りです」
室内の空気が変わる。
「個人名は」
澪が聞く。
「まだです。でも、時間的には藤崎真弓が動ける範囲に入ってます」
小夜の指先がわずかに動いた。
「まだ確定じゃありません」
澪はすぐに言った。
「ここで決めないでください」
「……はい」
「可能性が上がっただけです」
高橋も頷く。
「映像確認を先にします」
澪は短く息を吐いた。
焦ってはいけない。
必要なのは思い込みではなく、積み上げだ。
「柿谷さん」
「はい」
「今日の帰宅は一人にしません」
小夜が顔を上げる。
「送ります」
「でも」
「でも、じゃないです」
澪はきっぱり言った。
「しばらく単独行動は減らしてください」
「……分かりました」
高橋が続ける。
「自宅周辺の追加確認も回します」
「お願いします」
「ポスト周辺の別カメラも当たります」
「助かります」
小夜は机の上の紙を見つめていた。
どの紙も、自分へつながっている気がした。
「篠宮さん」
「はい」
「もし藤崎さんだったとして、どうしてなんでしょう」
澪は少しだけ間を置いた。
「常務に向けたものかもしれません」
小夜は目を伏せる。
「……はい」
「その可能性はあります。でも、今は動機を決めません」
「分かりました」
「ただ」
澪はまっすぐ小夜を見た。
「あなたが巻き込まれていい理由は一つもありません」
小夜は息を止めたように見えた。
「だから、ここから先は私たちが詰めます」
澪は言う。
「あなたは思い出せることを、断片のまま渡してください」
「……はい」
「映像、来ました」
高橋が画面を拡大する。
粗い映像だった。
顔までは分からない。
でも、立ち止まる姿と服の輪郭は見える。
澪は数秒、黙って見た。
「……秘書室ですね」
「ええ」
高橋が答える。
「断定はまだですが、かなり寄りました」
小夜は画面を見つめたまま動かなかった。
その横顔が強張るのを見て、澪はすぐにモニターの角度を変えた。
「今日はここまでです」
澪が言う。
「これ以上は今やる必要がない」
「続きは私が見ます」
高橋が頷く。
「了解です」
小夜はようやく画面から目を離した。
「すみません」
「謝らないでください」
澪はすぐに返す。
「ここにいるだけで十分です」
夕方の光が少し傾いていた。
違和感は、もうただの違和感ではない。
記録と記憶が重なり、点が線になり始めている。
まだ断定はできない。
でも、その先にいる人間は、かなり近いところまで浮かび上がっていた。
澪は立ち上がる。
「柿谷さん、帰る準備をしてください」
「……はい」
「今日は私が送ります」
「お願いします」
高橋が画面を見たまま言う。
「こっちは夜までにもう一段詰めます」
「無理はしないでください」
「そっちこそ」
小夜が立ち上がる。
さっきより足元は少しだけ定まっていた。
澪は机の上の資料を一度見た。
入社時のメール。
騒ぎの中の接触。
現在の所属。
共有端末のアクセス。
投函時刻。
視線の記憶。
全部、まだ途中だ。
でも、もう見失わない。
澪はドアを開け、小夜を先に通した。
廊下の向こうに、夕方の光が細く伸びている。
あの頃と同じような時間だった。
役員フロア近くの廊下で、小夜が視線を感じた時間。
何も分からないまま、違和感だけが残った時間。
でも今は違う。
見えていたものを、今度こそ取りこぼさない。
そう思いながら、澪は小夜の後ろを静かに歩いた。




