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線になるまで

 澪は、目の前に並んだ資料を見ながら、胸の奥に沈んでいた違和感が少しずつ形を持ち始めるのを感じていた。


 最初は、本当に小さな引っかかりでしかなかった。何かがおかしいと断言できるほどではない。けれど、何もかも自然だと言い切るには、ほんの少しだけずれている。柿谷のまわりに生まれる視線。気遣っているようでいて、どこか踏み込みすぎている距離。会話の端に残る、説明のつかない近さ。そういうものを、澪は何度か見てきた。


 そのたびに、自分の中で打ち消してきた。考えすぎかもしれない。気にしすぎかもしれない。社内が落ち着かない時期だから、神経が尖っているだけかもしれない。そう思えば、その場ではやり過ごせた。違和感は薄れて、いつもの仕事に戻れた。


 けれど、消えたわけではなかった。


 見過ごしたはずのものは、胸のどこかに残り続けていた。小さく、曖昧なまま、沈殿するみたいに。


 SNS投稿が騒ぎになったときも、澪はただ社内の空気が変わったと感じていただけだった。人の視線が増えて、言葉の選び方が慎重になって、誰もが平静を装いながら周囲をうかがっていた。そのざわつきの中で、藤崎真弓が柿谷に話しかけているのを見た。


 長い会話ではなかった。立ち止まって、短く言葉を交わして、それで終わる程度のやり取りだった。だからその場では、特別な意味を考えなかった。常務秘書である藤崎が、常務の姪である柿谷に声をかけること自体は不自然ではない。あの状況なら、気遣うような一言があってもおかしくなかった。


 そう思ったから、流した。


 けれど今になって思えば、あのとき澪の中には確かに引っかかりが残っていた。


 距離だったのだと思う。


 藤崎の態度は、表向きには自然だった。声のかけ方も、立ち位置も、周囲から見ればおかしくはない。けれど、その自然さの中に、ほんの少しだけ別のものが混じっていた。気遣っているように見えるのに、踏み込み方だけが近すぎる。相手を案じているというより、相手の内側に入り込もうとしているような近さだった。


 ほんのわずかなずれだった。だからその場では見過ごせた。けれど、見過ごしたからといって、なくなるわけではなかった。


 入社時のメールもそうだ。あれは長いあいだ、ただの事務連絡でしかなかった。誰が送ったかなんて、気に留めるようなことではない。そこに意味を見出すほうが不自然だった。


 でも今は違う。


 藤崎真弓は、最近になって柿谷を知ったわけではない。入社の時点で、もう知っていた。名前だけではなく、常務の姪として、どういう位置にいる人間かも含めて、最初から認識していたはずだ。


 そう考えた瞬間、ばらばらだったものの時間がつながった気がした。


 最近になって急に視界に入った相手ではない。もっと前から、ずっと近くにいたのかもしれない。


 しかも藤崎真弓は、過去に一度接点があっただけの人間ではない。今も常務秘書のままだ。常務のすぐ近くで、何事もない顔のまま動ける場所にいる。予定にも、人の出入りにも、資料にも触れられる。近くにいること自体が不自然にならない。


 それが、澪には何より怖かった。


 外から近づいてくる人間なら、まだ警戒できる。けれど中にいて、自然に振る舞える人間は見えにくい。見えていても、危険だと判断するまでに時間がかかる。違和感は違和感のまま沈んで、意味を持たないまま積み重なっていく。


 昨夜の投函は、その曖昧さに急に輪郭を与えた。


 ポストに入れられた封筒。それだけでも、もう偶然では済まされない。さらにその前後で、個人情報管理システムへのアクセスがある。まだ誰のIDかは確定していない。アクセスしたことが、そのまま持ち出しを意味するわけでもない。けれど、時間の重なり方が悪すぎる。


 そこへ、柿谷の中に残っていた“見られている感覚”まで重なる。


 入社して間もない頃、役員フロア近くの廊下で感じた視線。顔は見ていない。ただ、誰かがいて、自分を見ていて、目が合いそうになった瞬間に逸らされた気がした――その曖昧な記憶まで並べると、もう一つずつ切り離して考えることができなかった。


 見えていたのに、意味が分からなかった。


 気づいていたのに、つなげられなかった。


 澪は、自分が何も見ていなかったわけではないと思った。むしろ、見ていた。見て、引っかかって、それでもその引っかかりに名前を与えられなかっただけだ。根拠が足りないと思っていた。断定するには早すぎると思っていた。間違っていたらどうするのかと、自分の感覚を後ろへ押しやってきた。


 慎重であることは必要だったはずだ。けれど、その慎重さが、見えていたものを曖昧なまま放置することにもつながっていたのかもしれない。


 そう思うと、胸の奥が鈍く痛んだ。


 でも、今は違う。


 入社時のメールがある。騒ぎの渦中での接触を、自分が見ている。今も常務秘書として中にいることが分かっている。昨夜の投函があり、アクセス記録があり、柿谷の記憶の断片もある。


 まだ断定ではない。決めつけるには早い。


 それでも、もう何もかもを偶然として片づける段階ではなかった。


 点だったものが、ようやく線になり始めている。


 そしてその線は、今、確かに一人の名前へ寄り始めていた。


 藤崎真弓。


 その名前を心の中でなぞった瞬間、澪は自分の中にあったためらいの質が変わるのを感じた。怖さが消えたわけではない。むしろ、名前を持ったことで恐怖は前よりはっきりした。


 けれど同時に、見えていたものを見えていたままにしておく段階は終わったのだとも思った。


 自分が見たこと。

 自分が引っかかったこと。

 今ここで、ようやくつながり始めたこと。


 その全部を、もう曖昧なままにはしない。


 取りこぼしたくなかった。もう、見えていたのに意味を与えられなかったとは言いたくなかった。柿谷のそばで起きていたことも、自分が見ていたはずのことも、ここから先は一つずつ確かめていくしかない。


 ばらばらだったものが同じ場所を指し始めたのなら、その先にいる誰かからも、もう目を逸らしてはいけないのだと思った。


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