第二十四話 照合
会議室の空気は、朝からずっと張りつめたままだった。
壁際のモニターには、防犯カメラの映像を切り出した静止画が並んでいる。
マンションのエントランス前、通用口脇の歩道、角の自販機の前。
時間表示だけが淡々と積み重なり、そこに映る人影はどれも決め手に欠けた。
柿谷は少し離れた席に座り、画面を見ていた。
見ているだけで、肩の奥が固くなる。
昨夜、自分のポストに封筒が入れられた。
その事実はもう動かない。
けれど映像の中にあるのは、帽子をかぶった人物、俯いた横顔、通り過ぎる背中ばかりで、誰かを確定させるには遠かった。
「この時間帯で絞ると、二十分弱ですね」
高橋がモニター脇で言った。
机の上には時系列をまとめた紙が広げられている。
「管理会社から回収できた映像はこれで全部です。正面は粗い。通用口側のほうがまだ見える。ただ、肝心のポスト前が死角になってる」
「都合がいいですね」
澪が低く言った。
画面から目を離さないまま、続ける。
「偶然にしては、少し出来すぎてる」
「同感です」
高橋は一枚紙をめくった。
「投函があったと見ていい時間帯の前後で、建物の周囲を二度横切ってる人物がいます」
「同一ですか」
「たぶん」
「顔は」
「拾いきれません」
澪はモニターを見たまま、数秒黙った。
映っているのは、薄手の上着を着た人物だった。
色味も輪郭も曖昧で、性別すら断定しづらい。
ただ、一度通り過ぎたあと、数分後にもう一度現れている。
「迷ってるように見えます」
澪が言った。
「はい」
高橋も頷く。
「場所を確認してる感じですね。初見か、慎重か、その両方か」
柿谷は画面の人物を見つめた。
知らない背中のはずなのに、胸の奥に小さなざわつきが立つ。
見覚えがある、とは言えない。
けれど、まったく何も感じないわけでもなかった。
「柿谷さん」
澪に呼ばれて、顔を上げる。
「無理に答えなくて大丈夫です」
澪はそう前置きしてから、モニターを軽く示した。
「この動きに、何か引っかかるものはありますか」
「……分かりません」
柿谷は正直に言った。
「でも」
「はい」
「見られている感じ、というか……様子をうかがわれている感じは、少しします」
「それで十分です」
澪はすぐに言った。
「今は断定しなくていいです。感覚のまま残しておいてください」
高橋が別の資料を差し出す。
「こっちは社内側です。個人情報に触れられる経路を洗い直しました」
澪が受け取る。
「人事、総務、緊急連絡先、入社時提出書類、役員室まわりの共有資料。直接住所が載ってるものと、間接的に辿れるものを分けてます」
「絞れそうですか」
「まだです。ただ」
高橋は資料の一枚を抜いた。
「藤崎真弓が柿谷さんを知っていたかどうかは、もう論点じゃないです」
会議室の空気が、わずかに沈む。
「入社時の関連メール、藤崎真弓から柿谷さん本人に送られてます。しかもあの件でSNSが騒いだとき、そのやり取りは話題にもなってる」
柿谷の指先がぴくりと動いた。
高橋は淡々と続ける。
「つまり、藤崎真弓は柿谷さんを確実に知ってる。しかも最近知ったんじゃない。入社時点から認識してる」
「……そうですね」
澪が低く言う。
「“知っていた可能性”の話じゃない」
「はい」
高橋は頷いた。
「そこはもう事実として置いていいです」
柿谷は膝の上で手を握り直した。
胸の奥が、ひやりと冷える。
可能性ではない。
事実。
その言葉が、思った以上に重かった。
「それだけじゃありません」
高橋が続ける。
「SNS投稿が騒ぎになった時期、藤崎真弓と柿谷さんが会話しているのを、澪さんが見ています」
柿谷が顔を上げる。
澪は一度だけ息を吸ってから、静かに頷いた。
「見ています」
その声は落ち着いていたが、硬かった。
「長い会話ではなかったです。でも、あのとき私は確かに見ました」
「……澪さん」
柿谷の声がかすれる。
澪は柿谷を見た。
「そのときは、そこまで強く引っかからなかったんです。社内もざわついていましたし、藤崎さんが声をかけること自体は不自然じゃなかったから」
そこで一度、言葉を切る。
「でも今思うと、違和感が残ってます」
「違和感?」
高橋が促す。
「距離です」
澪は答えた。
「気遣っているように見えるのに、少し近すぎた。踏み込み方が自然じゃなかった」
会議室が静まる。
「入社時のメールだけじゃない」
澪は資料へ目を落としたまま言った。
「藤崎さんは、ずっと柿谷さんの近くにいたんだと思います」
柿谷は息を呑んだ。
ずっと近くにいた。
その言葉は、ただの事実以上の重さを持って胸に落ちた。
「前々から常務秘書で、入社時のメールも送ってる。騒動の時期にも柿谷さんと会話してる」
澪が整理するように言う。
「なら、最初から継続して柿谷さんを視界に入れていても不自然じゃない」
「ええ」
高橋が応じる。
「しかも、現在の所属も常務秘書です」
澪の視線が上がる。
高橋は続けた。
「過去の接点だけじゃない。今も常務のすぐ近くにいる。入社時から現在まで、継続して柿谷さんの視界に入り得る位置にいる、ということです」
「……過去の話じゃないんですね」
澪が低く言う。
「はい。現在進行形です」
高橋は頷いた。
「外れた人間じゃない。今も中にいる。だから近くにいても不自然じゃないし、目立たず動ける」
「秘書だと、近くにいても目立たない」
澪が言う。
「予定も資料も、人の出入りも拾えます。しかも“知っていて当然”の顔ができる」
「厄介です」
「かなり」
柿谷は自分の指先を見た。
膝の上で組んだ手が、知らないうちに強くこわばっている。
藤崎真弓は、後から自分を知ったのではない。
入社の時点で、もう知っていた。
そして騒ぎの最中にも、自分に話しかけている。
しかも今も、常務のすぐ近くにいる。
それはただの接点ではなかった。
時間を隔てて、何度も自分の近くにいたということだ。
「それと」
高橋が資料をめくる。
「藤崎真弓の立場を考えると、単に住所を知り得たかどうかだけじゃ弱いです」
澪が顔を上げる。
「どういう意味ですか」
「常務への私怨があるなら、狙いは本人に直接向くとは限らない」
高橋は言った。
「常務が立てた危機管理室、常務の判断で守られているもの、常務の身内。そういう“常務の側にあるもの”に向くほうが自然です」
柿谷の呼吸が浅くなる。
高橋は言葉を選びながら続けた。
「柿谷さんは、その一つになり得ます。常務の姪で、入社時から藤崎真弓に認識されていて、しかも今は危機管理室の案件の中心にいる」
「……象徴になる」
澪が低く言った。
「はい」
高橋は頷いた。
「常務本人に届かないなら、常務が作ったものや守るものを崩す。その延長で見ると、線としては通ります」
柿谷は息を呑んだ。
自分が狙われているのだとしても、それは自分自身のためではない。
誰かにとって、自分は別の誰かへ届くための位置に置かれている。
そう思った瞬間、足元が少しだけ遠くなった気がした。
「ただ」
澪が言った。
「動機としては、まだ粗いです」
「ええ」
高橋はすぐに返す。
「常務が憎い、だけじゃ弱い。何か具体的な理由があるはずです」
「でも、今そこを決め打ちするのは危ない」
「同感です」
高橋は頷く。
「今は接点と導線を固めるほうが先です」
澪は小さく息を吐いた。
自分の中でも、何かが少しずつつながり始めているのが分かった。
あのとき見た会話。
その場では流してしまった違和感。
入社時のメール。
今も変わらない所属。
全部が一本の線になりかけている。
そしてその線の先にいるのが、藤崎真弓だ。
「柿谷さん」
澪が静かに呼ぶ。
「昨日、“視線”って言ってましたよね」
「……はい」
「それがいつ頃のものか、場所だけでも寄せられそうですか」
柿谷は息を詰めた。
頭の奥に、曖昧な像がある。
廊下。
コピー機の音。
閉まりきらないドア。
書類の束。
誰かが立っている気配。
「……社内、だと思います」
「はい」
「廊下、です。たぶん」
「どこの」
「そこまでは……」
言葉が途切れる。
思い出そうとすると、胸の内側がざらつく。
「すみません」
「謝らなくていいです」
澪は即座に言った。
「今出た分だけで十分です」
その言い方に、柿谷は少しだけ救われた気がした。
高橋がメモを取りながら口を開く。
「廊下、視線、書類動線。役員フロアと過去案件の動線、両方重ねてみます」
「お願いします」
澪は頷いた。
「あと、藤崎真弓の現在の所属と行動も押さえてください」
「現在の所属は常務秘書で確定です。行動のほうはもう回してます」
「早いですね」
「急いだほうがいい案件なんで」
高橋の返しは淡々としていたが、その奥に緊張があった。
澪は机の上の資料に目を落とした。
紙の上に並ぶ文字列は冷静なのに、その一つ一つが柿谷へ伸びる細い糸のように見えた。
「本人接触はまだしません」
澪が言う。
「先に周辺を固めます。記録、導線、今の動き。接触するなら、そのあとです」
「了解です」
高橋は短く答えた。
柿谷は二人のやり取りを聞きながら、少しだけ呼吸を整えた。
断定されないことが、今は救いだった。
もしここで「藤崎真弓で間違いない」と言われたら、たぶん耐えられなかった。
まだ候補でいてくれるから、かろうじて座っていられる。
だが同時に、候補のままで終わらないことも分かっていた。
「それと、これ」
高橋が新しい紙を一枚、机に置く。
澪が視線を落とす。
「昨日の投函時間帯の前後で、社内ネットワークから個人情報管理システムへのアクセスが一件あります」
柿谷の喉がひくりと動いた。
「誰のIDですか」
澪が問う。
「まだ確定前です。共有端末経由なんで、ログイン者の特定に少し時間がかかる。ただ、時間だけ見ると嫌な重なり方をしてる」
「どのくらい」
「投函推定時刻の一時間半前」
「……近いですね」
「はい」
澪は紙を見たまま、静かに言った。
「偶然で片づけるには、材料が揃いすぎてる」
「同じ見立てです」
高橋は答えた。
「ただ、ここもまだ断定はしません。アクセスしただけで持ち出しとは言えない」
「ええ。でも残してください」
「もちろんです」
柿谷は自分の背中に、じわじわと冷たいものが広がるのを感じた。
社内。
住所。
投函。
藤崎真弓。
ばらばらだったものが、少しずつ一本の線に寄り始めている。
そのとき、不意に頭の奥で何かが引っかかった。
白い蛍光灯。
夕方の薄暗い廊下。
書類棚の前で立ち止まる自分。
その先に、誰かがいる。
振り向いたわけではない。
顔も見ていない。
けれど、見られていると分かった瞬間があった。
「……あ」
小さく声が漏れた。
二人の視線が同時に向く。
「柿谷さん?」
澪の声は低い。
急かさない。
それがかえって、言葉を探す余地をくれた。
「入社して、そんなに経ってない頃だったかもしれません」
「入社直後ですか」
「……はい」
柿谷は眉を寄せる。
「夕方で、コピー機の近くです。たぶん、役員フロアに近い廊下で……」
高橋の手が止まる。
澪は何も言わず、先を待った。
「私、書類を持っていて。戻る途中で、誰かが立ってたんです」
「顔は」
高橋が静かに聞く。
「見てません」
「でも気づいた」
「はい」
柿谷は息を吐いた。
「見られてる、って」
「そのとき、相手は何をしてたか分かりますか」
澪が問う。
「……分かりません。立っていただけ、かもしれないです。でも」
「でも?」
「私が見たら、少しだけ目を逸らした気がします」
高橋がすぐにメモへ落とす。
「時期は、入社の頃」
「たぶん」
柿谷は言ってから、自分の声が少し震えているのに気づいた。
「もし藤崎真弓が最初から私を知っていて、そのあともずっと近くにいたなら……あれも、偶然じゃなかったのかもしれません」
澪はすぐには答えなかった。
その代わり、柿谷の震える指先を一度だけ見てから、静かに言った。
「今は、そこまで決めなくて大丈夫です」
声は柔らかかったが、芯があった。
「ただ、切らずに残しましょう」
会議室の空気が、また少し変わった。
記録だけではなかった。
柿谷の中に沈んでいた感覚が、初めて“入社当初から続いていたかもしれないもの”として浮かび上がった。
高橋が顔を上げる。
「役員フロア近辺の動線、当時の座席配置、秘書室の位置関係、引き直します」
「お願いします」
澪は頷いた。
「あと、私が見た会話の位置と時間も重ねてください」
「了解です」
澪はそこで初めて、少しだけ息を吐いた。
疲れではなく、手応えを測るような呼吸だった。
「柿谷さん」
「……はい」
「今日はここまでにしましょう」
その言い方は、指示というより区切りだった。
「これ以上は、無理に掘らないほうがいいです」
柿谷は頷いた。
正直、助かった。
頭の奥を探るたびに、薄い吐き気のようなものが上がってくる。
「午後は別室で休んでください」
澪が続ける。
「私が付きます。移動は一人にしません」
「はい」
「何か思い出しても、今すぐ整理しようとしなくていいです。断片のままで残しておいてください」
「……分かりました」
高橋が資料をまとめながら言う。
「こっちは今日中に、役員フロアの動線とアクセスログ、もう一段詰めます」
「お願いします」
「あと、藤崎真弓の今日の動きも」
「そっちも」
「了解です」
会議はそこでいったん切れた。
廊下へ出ると、冷房の風が少し強く感じた。
澪は柿谷の歩幅に合わせて歩く。
「大丈夫ですか」
「……たぶん」
「無理はしないでください」
「はい」
短いやり取りのあと、二人で静かに歩く。
窓の外は昼に近づいていて、街は何事もないように明るかった。
何事もないように見える。
けれど実際には、もう何かが動いている。
背後で会議室の扉が閉まる音がした。
高橋はまだ中に残って、資料を詰めているはずだった。
藤崎真弓。
その名前は、昨日よりもはっきりと重さを持っていた。
記録に残り、動線に現れ、記憶の底にも触れ始めている。
まだ断定ではない。
それでも、もうただの仮名ではなかった。
別室の前で、澪が静かにドアを開ける。
柿谷は中へ入り、ソファに腰を下ろした。
部屋は静かだった。
静かすぎて、自分の呼吸の音がやけに近い。
目を閉じると、また廊下が浮かぶ。
夕方の光。
コピー機の作動音。
書類を抱えた腕の重さ。
そして、視線。
顔は見えない。
けれど、あのとき確かに誰かがいた。
その“誰か”に、今、名前が付きかけている。
柿谷はゆっくりと目を開けた。
胸の奥に沈んでいた恐怖は、もう輪郭を持ち始めていた。
曖昧だったから耐えられたものが、形を持つことで、逆に逃げられなくなる。
それでも、もう目を逸らす段階ではない。
机の上に置かれた紙コップの水へ手を伸ばしながら、柿谷は小さく息を吐いた。
照らし合わせれば、何かが出る。
記録と記憶。
現在と過去。
ばらばらだったものは、少しずつ同じ場所を指し始めている。
そしてその先にいる誰かもまた、こちらが近づいていることに、まだ気づいていないかもしれなかった。




