第二十三話 浮上
目が覚めたとき、自分がどこにいるのか、一瞬だけ分からなかった。
白い天井。
薄いカーテン。
空調の低い音。
見慣れない部屋ではない。会社が手配した一時待機用の部屋だと、意識が追いつくまでに少し時間がかかった。
昨夜、自宅には戻らなかった。
ポストに入っていた無地の封筒。
中の紙片。
整いすぎた文字で書かれた、短い一文。
――帰っても同じです。
思い出した瞬間、胸の奥が冷たく縮む。
小夜は毛布の上で指先を握り、ゆっくり息を吐いた。
眠れたのかどうかも曖昧だった。
何度も目が覚めた気がするし、ずっと浅いところを漂っていただけのような気もする。
枕元の時計を見る。
まだ朝の早い時間だった。
起き上がると、テーブルの上にペットボトルの水と簡単な朝食が置かれていた。
誰が運んだのかは分からない。
けれど、そういう細かい配慮が、かえって今の自分が“保護される側”に置かれていることを意識させた。
顔を洗い、鏡を見る。
ひどい顔だった。
目の下に薄く影が落ち、肌色も悪い。
それでも、昨日よりは少しだけ頭が冷えていた。
紙片は現実だった。
自宅を知られているのも現実だ。
そこから先を考えないようにしても、考えないままではいられない。
部屋を出ると、廊下の先に篠宮澪がいた。
「おはようございます」
「……おはようございます」
澪は小夜の顔を見て、短く言った。
「少しは眠れましたか」
「たぶん」
「そうですか」
それ以上は聞かない。
小夜も助かった。
「相沢さんが先に入っています」
「はい」
案内されるまま、小さな会議室へ入る。
中には相沢と高橋がいた。
机の上には封筒、透明の保管袋、数枚の資料、ノートパソコンが並んでいる。
小夜が入ると、相沢が椅子を引いた。
「座って」
「……失礼します」
高橋はいつもの軽さを抑えた顔で会釈した。
「おはようございます」
「おはようございます」
扉が閉まる。
会議室の空気は静かだったが、昨日までとは質が違っていた。
曖昧な不安を扱う場ではなく、現実の事案を整理する場の空気だった。
相沢が保管袋に入った封筒へ視線を落とす。
「昨夜の投函物は、現物をこちらで預かってる」
小夜は頷いた。
「指紋や付着物が取れるかはまだ分からない。ただ、少なくとも“本人宅のポストに投函された”事実は動かない」
その言葉に、小夜の喉がわずかに詰まる。
「ここからは、二つに分けて考える」
相沢の声は低く、落ち着いていた。
「ひとつは、投函した人間がどうやって住所を把握したか。もうひとつは、これまでの紙片や接触と同一線上にあるかどうか」
高橋が資料を一枚めくる。
「住所の把握経路については、社内で個人情報に触れられる範囲を洗ってます。人事、総務、緊急連絡先の管理経路、関連書類の保管履歴、そのあたりから」
相沢は頷いた。
「藤崎真弓の線も残しておいて」
「分かってます」
高橋は短く返した。
「ただ、そこに寄せすぎるのはまだ早いですね」
「うん。決め打ちはしない」
相沢はそう言ってから、小夜へ視線を向けた。
「でも、過去案件との接点は切り離さないほうがいい」
小夜は膝の上で手を重ねる。
その名前が出る前から、胸の奥に薄いざわつきがあった。
高橋が資料の端を指で押さえたまま言う。
「昨日の投函で、社内の誰か、もしくは社内情報に触れられる人間って線はかなり強くなりました。完全に外部の偶発って見方は、だいぶしづらいです」
「そうですね」
相沢は淡々と応じる。
「人事に話が要るなら、こっちで通す。総務も同じ。止まるようならすぐ言って」
「助かります」
高橋は頷き、続けた。
「それと、過去の書類の取扱者を遡ってたら、名前が一つ重なりました」
小夜の呼吸が浅くなる。
高橋は一度だけ相沢を見た。
相沢は何も言わず、先を促すように視線を返す。
「藤崎真弓です」
会議室の空気が、わずかに沈む。
小夜はその名前を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
知っている。
そのはずなのに、どこで、どういうふうに知っているのかが、すぐには掴めない。
「……藤崎、真弓」
自分の口から出た声が、ひどく遠く聞こえた。
相沢は急かさなかった。
「思い出せそう?」
「……分かりません」
小夜は額に手を当てる。
「名前は、知ってる気がします。でも、はっきりしなくて」
「無理に引っ張らなくていい」
相沢の声は変わらない。
「断片でいい。引っかかるものがあれば、それだけで十分」
高橋が資料を見ながら説明を続ける。
「藤崎真弓は、当時の関連書類に接触できる位置にいました。直接の担当ではないですけど、閲覧と受け渡しの動線には入ってる」
「住所情報に触れられる可能性は」
相沢が問う。
「ゼロじゃないです」
高橋は答えた。
「少なくとも、単独で全部を見られたかはまだ確認中です。ただ、他部署経由の書類に触れてた形跡はあります」
「なるほど」
相沢は短く言った。
「じゃあ、過去案件との接点と、個人情報への接触可能性が重なってる」
「はい」
「十分だね」
小夜はそのやり取りを聞きながら、胸の奥に沈んでいた何かが少しずつ浮いてくる感覚を覚えていた。
書類。
廊下。
閉じた会議室。
誰かの横顔。
視線。
けれど、そこから先へ進もうとすると、頭の内側に薄い膜が張る。
思い出したくないのか、思い出せないのか、自分でも分からない。
「柿谷」
相沢に呼ばれ、顔を上げる。
「藤崎真弓の名前で、何か一つでも残るものはある?」
「……視線、かもしれません」
「視線」
「見られていた、ような」
言いながら、小夜は自分の言葉の曖昧さに息苦しくなる。
「でも、確信はありません」
「それでいい」
相沢はすぐに言った。
「今は確信じゃなくていい。切らないで残しておけばいい」
高橋が小さく息を吐く。
「この感じだと、本人への接触は慎重にしたほうがよさそうですね」
「そうだね」
相沢は頷いた。
「先に周辺を固めたい。記録、経路、接触履歴。本人に動かれる前に、外堀を埋める」
「了解」
「それと」
相沢は保管袋の封筒へ目をやった。
「投函の件は、社内に広げないで。知ってる人間を増やしたくない」
「分かってます」
高橋は即答した。
「共有範囲は絞ります」
会話は落ち着いているのに、内容だけが静かに深くなっていく。
小夜はその場に座っているだけで、足元が少しずつ削られていくような感覚を覚えた。
藤崎真弓。
名前に輪郭がついたことで、恐怖は少しだけ形を持った。
だが形を持ったぶん、逃げ場も減る。
得体の知れないものではなく、現実の誰かかもしれないと思ってしまうからだ。
「今日の動きだけど」
相沢が言う。
「柿谷は引き続き単独行動なし。移動もこちらで見る」
「……はい」
「負担は分かってる。でも、今はそうさせて」
小夜は頷いた。
拒む理由はなかった。
もう、自分一人で“気のせいかもしれない”と処理できる段階ではない。
高橋が資料を閉じる。
「こっちは今日中に、藤崎真弓の周辺と個人情報の経路をもう少し詰めます。何か出たらすぐ回します」
「お願い」
相沢は短く言った。
「人を足したいなら言って」
「今のところは大丈夫です」
「無理はしないで」
「そっちこそ」
高橋がわずかに口元を緩める。
それでも、いつもの軽さまでは戻らなかった。
会議が終わりに近づいたころ、小夜はふと、机の上の保管袋を見た。
透明な袋の中で、無地の封筒はただの紙にしか見えない。
なのに、その中身ひとつで、自分の生活は簡単に形を変えられてしまった。
帰っても同じです。
あの一文は、もう脅し以上の意味を持っていた。
相手は知っている。
自分の帰る場所を。
自分の生活の境界を。
そして、その境界を越えられることを。
「……相沢さん」
小夜は小さく呼んだ。
「何」
「もし、藤崎真弓だったとして」
言いかけて、喉が止まる。
「……どうして、今なんでしょう」
相沢は少しだけ黙った。
すぐに答えを作らなかった。
「まだ、そこは分からない」
やがて静かに言う。
「でも、“今だから”動いたんじゃなくて、“今まで止まっていたものが動き出した”可能性はある」
「止まっていたもの……」
「見たくないものを見た人間がいると、困る人間はいる」
相沢の声は低い。
「それが誰かは、これから詰める」
小夜はその言葉を胸の中で反芻した。
困る人間。
見たくないもの。
止まっていたもの。
全部がまだ断片のままだ。
けれど断片は、もう無関係には見えなかった。
会議室を出るとき、澪が外で待っていた。
相沢は扉の前で足を止め、高橋へだけ聞こえるくらいの声で言った。
「藤崎真弓、動きがあればすぐ」
「分かってる」
「あと、昨日の投函経路。防犯カメラ、拾えるなら押さえて」
「もう当たってる」
「早いね」
「そっちが急がせるから」
高橋の返しに、相沢はほんの少しだけ口元を動かした。
「急いだほうがいい案件でしょ」
「それはそう」
短いやり取りだった。
だがその中に、もう互いが同じ危機感を共有していることが滲んでいた。
小夜は澪に促されて歩き出す。
廊下の先は静かで、窓から入る朝の光が白く床に落ちていた。
藤崎真弓。
その名前は、まだ確定ではない。
けれど、曖昧だった恐怖の水面に、初めてはっきりと浮かび上がった名前だった。
そして小夜は、自分の中にもまた、その名前に繋がる記憶が沈んでいることを知ってしまった。
思い出せば、何かが決定的に変わる。
そんな予感だけが、静かに、確かに、胸の底へ沈んでいった。




