第二十二話 帰路
終業を待たずに上がることになったあとも、小夜の足取りはどこか定まらなかった。
自分の意思で帰るのではない。
上から話が通り、体調不良として切り上げることになっただけだ。
そう理解していても、席を立つ瞬間には、置いていかれるような心細さがあった。
鞄を肩に掛け、机の上を見回す。
今日やり残したことが目に入るたび、胸の奥がざわつく。
だが今は、それを片づけるだけの集中力が残っていないことも、自分で分かっていた。
フロアを出ると、少し先に篠宮澪が立っていた。
「送ります」
短く告げられ、小夜は目を上げる。
「……すみません」
「気にしないでください」
「でも」
「今日は一人にしないほうがいいと判断されました」
澪は淡々と言った。
「それだけです」
それ以上、余計な慰めも気遣いも口にしない。
その距離感が、今の小夜にはありがたかった。
エレベーターを待つ間、小夜は無意識に周囲の音を拾っていた。
誰かの話し声。
靴音。
遠くの電話。
どれも普通だ。
普通なのに、昼のあの一言だけが、異物のように耳の奥に残っている。
――見たでしょう。
本当に聞こえたのか。
それとも、自分が勝手にそう聞いただけなのか。
分からない。
エレベーターの扉が開き、二人は乗り込んだ。
閉まりかけた扉の向こう、廊下を横切る人影が一瞬だけ見える。
見覚えがあるような、ないような、曖昧な背中だった。
扉が閉まる。
その瞬間、小夜は自分の手のひらに爪が食い込んでいることに気づいた。
痛みがある。
それでようやく、今ここに立っている自分の輪郭を確かめる。
会社を出ると、夕方の空気はまだ明るさを残していた。
人通りも多い。
駅へ向かう歩道には、仕事帰りの会社員や買い物客が絶えず行き交っている。
それでも、小夜は何度も背後を気にしてしまう。
誰かが少し近くを歩いただけで、肩が強張る。
同じ方向へ向かう人影があるだけで、足音の数を数えてしまう。
「後ろが気になりますか」
澪が前を向いたまま言った。
小夜は少し迷ってから、頷いた。
「……はい」
「今は振り返らなくていいです」
「え」
「気になるなら、私が見ます」
その言い方は静かで、事務的だった。
「あなたは前だけ見ていてください」
小夜は返事の代わりに、小さく息を吐いた。
安心したのか、情けなくなったのか、自分でも分からない。
駅までの道では、結局、何も起こらなかった。
誰かに呼び止められることもない。
不自然に距離を詰めてくる人影もない。
ただ人の流れがあり、その中に自分たちも紛れているだけだった。
改札を抜け、ホームへ向かう。
電車を待つ数分が、妙に長く感じられた。
「今日はこのままご自宅まで」
澪が言う。
「……そこまでしていただかなくても」
「必要です」
短く言い切られ、小夜はそれ以上言えなくなった。
電車が来て、二人は乗り込む。
車内は混みすぎてもおらず、空きすぎてもいない、中途半端な混雑だった。
座席には座れず、ドア脇に立つ。
窓に映る自分の顔は、思っていた以上に青白かった。
揺れに合わせて視線を上げるたび、向かい側の乗客の顔が目に入る。
誰もこちらを見ていない。
誰も小夜を知っているようには見えない。
それでも、ふとした拍子に、誰か一人だけがこちらを認識しているのではないかという感覚が拭えなかった。
「……すみません」
小夜は小さく言った。
「何がですか」
「こんなことで」
澪は少しだけ間を置いた。
「“こんなこと”ではありません」
「でも、声がした気がしただけで」
「紙片は現実にありました」
澪の声は低く、揺れなかった。
「今日の件が幻聴だったとしても、昨日までのことは消えません」
「……」
「切り分けて考えるべきです」
その言葉に、小夜は少しだけ救われる。
全部が自分の思い込みだと片づけられないこと。
少なくとも、そう判断してくれる人がいること。
電車を降り、最寄り駅を出る。
ここまで来ると、人通りは会社の近くより少なくなる。
住宅街へ向かう道は、夕方の生活音に満ちていた。
自転車のブレーキ音。
遠くで鳴く子どもの声。
どこかの家のテレビの音。
日常の音ばかりなのに、小夜にはどれも薄い膜を隔てて聞こえるようだった。
「この先です」
小夜が言うと、澪は周囲を一度見回した。
「分かりました」
マンションの前に着いたとき、小夜はようやく少しだけ肩の力を抜いた。
ここまで何もなかった。
少なくとも、目に見える形では。
「ありがとうございました」
「部屋に入るまで確認します」
「……はい」
エントランスへ向かいかけて、小夜は足を止めた。
ポストに、見慣れない白い封筒が差し込まれていたからだ。
公共料金の通知でも、広告でもない。
宛名も差出人もない、無地の封筒だった。
小夜の喉がひくりと鳴る。
「どうしました」
澪の声に、小夜は封筒を指さした。
「……あれ」
澪の視線がポストへ向く。
次の瞬間、その表情がわずかに硬くなった。
「触らないでください」
低く制され、小夜は伸ばしかけた手を止めた。
澪は周囲を確認してから、ハンカチ越しに封筒を抜き取った。
軽い。
中には紙が一枚だけ入っているようだった。
「開けます」
小夜は声も出せず、頷く。
封筒の中から折られた紙片が取り出される。
澪がそれを開き、目を落としたあと、小夜へ向けた。
そこには、昨日と同じ、整いすぎた文字で、短く一文だけ書かれていた。
――帰っても同じです。
小夜の血の気が引く。
足元が一瞬、遠くなる。
昼に聞いたかもしれない声とは違う。
これは誰が見ても現実だった。
紙があり、文字があり、今ここに存在している。
「……どうして」
かすれた声が漏れる。
「どうして、ここが」
自宅を知っている。
その事実が、紙の文面よりも深く、小夜の内側に沈んだ。
会社の中だけではない。
通勤経路だけでもない。
自分の生活の終点まで、相手は知っている。
澪は紙片を見たまま、静かに言った。
「住所を把握している人間がいるということです」
「……」
「社内情報に触れられる可能性も含めて考えます」
その言葉に、小夜は顔を上げた。
「社内……」
「少なくとも、偶然ではありません」
澪は封筒と紙片を丁寧に戻しながら続けた。
「あなたの住所を知る手段がある人間か、そこへ辿る情報を持っている人間です」
小夜はポストを見つめたまま、指先を強く握りしめる。
自宅を知られている。
その現実は、昼の曖昧な声よりもはるかに重かった。
幻聴かもしれない、聞き間違いかもしれない、そうやって逃げる余地がない。
澪はすぐに端末を取り出した。
「相沢さん」
短く呼びかける声は、いつもよりさらに低い。
「本人宅のポストに投函がありました。無地の封筒、中に紙片一枚。文面は『帰っても同じです』」
小夜はその場に立ち尽くしたまま、澪の言葉を聞いていた。
「はい。現物は確保しています」
少し間を置いて、澪は続ける。
「住所を把握している経路を洗う必要があります。社内で個人情報に接触し得た範囲も含めて」
電話の向こうで何か返答があったらしい。
澪は短く「分かりました」とだけ答えた。
通話を切ると、小夜はようやく声を絞り出した。
「……誰なんでしょう」
「まだ断定はできません」
「でも、住所を知ってる人なんて」
「限られます」
澪ははっきり言った。
「だからこそ、洗えます」
その言葉は慰めではなかった。
だが、曖昧な恐怖に輪郭を与えるには十分だった。
「過去に、あなたの個人情報に触れた可能性のある人間を確認します」
澪は続ける。
「人事、総務、関連書類の取扱者、緊急連絡先の管理経路」
「……」
「それと、過去の案件との接点も」
小夜はその一言に、わずかに顔を上げた。
「過去の……」
「あなたが“見たかもしれないこと”に繋がる人物です」
澪の視線はまっすぐだった。
「そこに、個人情報へ触れる機会が重なる人間がいないかを見ます」
小夜の胸の奥で、ひとつの名前がまだ形にならないまま沈んでいく。
思い出せそうで、思い出せない。
けれど、何かがそこに引っかかっている感覚だけはあった。
澪は封筒を持ったまま、マンションの入口を一度見た。
「今日は一人にしません」
「え」
「判断が変わりました」
澪は淡々と言う。
「このまま保護を優先します」
小夜は返事もできず、ただ頷いた。
家に帰れば終わると思っていたわけではない。
それでも、家まで来れば少しは息がつけるかもしれないと、どこかで思っていた。
だが、その最後の逃げ場にまで、もう相手の手は届いている。
帰っても同じです。
その一文は脅しというより、宣告に近かった。
会社を出ても。
駅を越えても。
家の前まで来ても。
まだ終わらない。
小夜はポストを見つめたまま、自分の日常の輪郭が静かに崩れていくのを感じていた。
そして危機管理室では、この投函を境に、調べるべき対象の輪がひとつ狭まろうとしていた。
小夜の住所を知り得る者。
過去の出来事に接点を持つ者。
その両方に、手が届く人間。
まだ名前は出ていない。
だが、そこへ繋がる線は、確かに引かれ始めていた。




