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第二十一話 接触

 翌朝、小夜は、会社の最寄り駅のホームに降り立った瞬間から、肩に力が入っているのを自覚していた。


 昨日の紙片は、結局、夢ではなかった。

 鞄の内ポケットに入れたままのそれが、まだそこにあるという事実だけで、胸の奥が重くなる。


 ――近くにいるのに、まだ分からないんですか。


 文字を思い出すだけで、喉の奥がひやりとした。


 改札を抜け、会社へ向かう人の流れに紛れながら歩く。

 誰もがいつも通りに見える。

 誰もこちらを見ていないようにも見える。

 それでも、背中のどこかがずっと薄く粟立っていた。


 総務部のフロアに入ると、朝の空気は昨日と変わらなかった。

 電話の保留音、コピー機の駆動音、誰かが交わす短い挨拶。

 その平穏さが、かえって小夜を落ち着かなくさせる。


「おはよう、柿谷さん」


 声をかけられて顔を上げると、三浦がいた。


「おはようございます」

「今日は少し早いね」

「……はい」

「昨日お願いした修正、あとで見せてもらっていい?」

「分かりました」


 三浦はそこで一度言葉を切り、小夜の顔を見た。


「ちゃんと眠れた?」

「え」

「いや、顔色があまりよくないから」


 小夜は一瞬だけ返事に詰まったが、すぐに視線を落とした。


「大丈夫です」

「ならいいけど」

 三浦はそれ以上踏み込まず、いつもの調子で言った。

「無理しないで。今日、午後ちょっと立て込むから、しんどかったら早めに言って」

「はい」


 それだけ言って、自席へ戻っていく。


 昨日なら、その気遣いすら探りに思えたかもしれない。

 けれど今朝の三浦には、やはり不自然なところはなかった。

 小夜の変化に気づくのは、指導係として当然なのだろう。

 そう頭では分かっても、神経の張りつめた状態は簡単にはほどけない。


 午前中は、目の前の作業に集中することでどうにか持ちこたえた。

 伝票の数字を追い、押印漏れを確認し、回覧の順番を整える。

 手を動かしている間だけは、余計なことを考えずに済む。


 だが、ふとした瞬間に意識が浮く。


 誰かが後ろを通った。

 今の足音は、自分の席の近くで一度止まらなかったか。

 コピー機の前に立っているあの人は、さっきもあそこにいなかったか。


 そんなことばかりが気になってしまう。


 昼前、別部署へ書類を届けるよう頼まれたとき、小夜はほんのわずかにためらった。

 フロアを出て、一人で廊下を歩く。

 それだけのことが、今は妙に心細い。


 けれど断る理由もない。

 小夜は書類を抱え、静かに席を立った。


 廊下は昼休み前の中途半端な時間帯で、人通りが途切れることはないが、混み合っているほどでもなかった。

 向こうから来る社員とすれ違い、角を曲がり、エレベーター前を通り過ぎる。

 どこにでもある社内の風景だ。


 そのはずだった。


 曲がり角を抜けた瞬間、すぐ近くで、声がした気がした。


「――見たでしょう」


 小夜の足が止まる。


 低かったのか、高かったのかも分からない。

 男の声だったのか、女の声だったのかも判別できない。

 耳元だったような気もするし、少し後ろからだったような気もする。

 ただ、言葉だけが妙にはっきりと残った。


 見たでしょう。


 反射的に振り向く。

 だが、そこには数人の社員がそれぞれの速度で歩いているだけだった。

 誰もこちらを見ていない。

 誰も立ち止まっていない。

 誰が今の声を発したのか、見当もつかなかった。


「……っ」


 喉がひくりと震える。


 聞こえた。

 たしかに聞こえた気がした。

 けれど、本当に誰かが言ったのかと問われたら、言い切れない。


 昨日から張りつめていた神経が、勝手に音を拾っただけかもしれない。

 すれ違った誰かの別の会話が、そう聞こえただけかもしれない。

 そう思おうとしても、胸の内側に落ちた冷たいものは消えなかった。


「柿谷さん?」


 後ろから別の社員に声をかけられ、小夜ははっとする。


「どうしたの?」

「いえ……」

 小夜は慌てて首を振った。

「少し、めまいがして」

「大丈夫? 顔色悪いよ」

「すみません、少ししたら戻ります」


 相手は心配そうにしたが、急ぎの用があったのか、そのまま去っていった。


 小夜は壁際に寄り、抱えていた書類を落とさないように持ち直す。

 指先が冷えていた。

 呼吸を整えようとしても、うまくいかない。


 今のは何だったのだろう。

 誰かが言ったのか。

 自分が勝手に聞いたのか。

 分からない。

 分からないことが、いちばん怖かった。


 どうにか書類を届けて戻ると、席に着く前に三浦が気づいた。


「柿谷さん、大丈夫?」

「……はい」

「いや、大丈夫な顔じゃないけど」

 三浦は声を落とした。

「少し休む?」

「平気です」

「無理しなくていいよ」

「すみません」


 三浦は数秒だけ小夜を見たが、それ以上は追及しなかった。


「じゃあ、これだけ終わったら一回席外していいから。給湯室でも行ってきなよ」

「……ありがとうございます」


 その言い方は、やはりただの気遣いだった。

 少なくとも、今の小夜にはそう思えた。

 もし三浦が何かを知っているなら、もっと別の反応をする気がする。

 そう考える余裕が少しだけ戻ったことで、逆に、廊下での声の異様さが際立った。


 午後、危機管理室から総務部へ確認依頼が入った。

 担当者名を見た瞬間、小夜は小さく息を呑む。


 篠宮澪。


 昨日に続いて、資料確認という名目だった。

 小夜は必要書類を持って共有スペースの端へ向かう。


「お疲れさまです」

 澪はいつも通りの落ち着いた声で言った。

「この箇所だけ、確認をお願いします」

「はい」


 書類を広げ、周囲からは業務上のやり取りにしか見えない距離を保つ。

 澪は数枚めくったあと、視線を落としたまま低く言った。


「何かありましたね」

 小夜の指先が止まる。

「……どうして」

「顔色と、手の震えです」

「……」

「朝からですか」

「いえ」

 小夜は唇を湿らせた。

「さっき、廊下で」

「はい」

「声が、した気がして」


 澪は表情を変えなかった。


「どんな声ですか」

「分かりません」

「分からない?」

「男の人か女の人かも、分からなくて」

 小夜は自分でも曖昧さに戸惑いながら言葉を継ぐ。

「すぐ近くで聞こえた気がしたんです。でも、振り向いたら誰か分からなくて」

「内容は」

 小夜は一度だけ目を閉じた。


「……『見たでしょう』って」

 澪の指先が、紙の端で止まる。

「確かですか」

「それも、分かりません」

 小夜はかすれた声で言った。

「そう聞こえた気がしただけかもしれないんです。私、昨日からずっと変で……だから、幻聴みたいなものかもしれなくて」

「そう思いたいですか」

「……分かりません」


 澪は数秒黙ったあと、静かに言った。


「今の段階では、どちらとも決めつけません」

「え」

「実際に誰かが言った可能性もある。緊張状態でそう聞こえた可能性もある」

 淡々とした口調だった。

「大事なのは、あなたがそう感じたことです」

「感じたこと」

「はい。切り捨てないでください」


 小夜は書類の上に視線を落としたまま、小さく息を吐く。


「……私、やっぱり何か見たんだと思います」

 その言葉は、ほとんど独り言のようだった。

「でも、ちゃんと思い出そうとすると、そこで止まるんです」

「止まる」

「見た場面の前後が、うまくつながらないんです」

「いつ頃のことですか」

「まだ、はっきり言えません」

 小夜は首を振る。

「でも、相手はそれを知ってるみたいで」

「そうですね」


 澪の声は低く、静かだった。


「昨日の紙片と、今日の件がつながっているなら、相手はあなたに“思い出させたい”か、“思い出しているか確かめたい”」

「……」

「どちらにしても、接触の仕方が近くなっています」


 その言葉に、小夜の背筋が冷える。


 接触。

 昨日までは、紙や気配だった。

 今日は、声だったかもしれないものがある。

 それが本物かどうか分からないままでも、距離だけは確実に縮まっている。


「今日は一人で動く時間を減らしてください」

 澪が言う。

「移動が必要なときは、できるだけ周囲に人がいる経路を」

「はい」

「それから、今後また同じことがあったら、曖昧でも構いません。すぐに伝えてください」

「……はい」


 短い確認を終え、澪は資料をまとめた。

 周囲から見れば、ただの業務連絡にしか見えない。

 だが小夜には、その数分が辛うじて現実に足をつけ直す時間だった。


 その日の午後、小夜の様子はさらに目立つようになった。


 書類を受け取る手がわずかに遅れる。

 呼ばれて一拍遅れて顔を上げる。

 何でもない物音に肩が揺れる。


 三浦も、それに気づかないはずがなかった。


「柿谷さん」

 終業前、三浦が席の横に来る。

「今日はもう上がったほうがいい」

「え」

「顔色が悪いし、集中も切れてる。無理して続けても危ないよ」

「でも」

「仕事のことなら気にしなくていいから」

「大丈夫です」

 小夜は反射的に言った。

「少し休めば戻れます」

「いや、そういう感じじゃないと思う」

「本当に大丈夫です」


 言いながら、自分の声が少し強くなっているのが分かった。

 三浦は驚いたように目を瞬かせたが、責めるような顔はしなかった。


「……帰りたくないの?」

 その問いに、小夜は息を止める。


 図星だった。


 一人になるのが嫌だった。

 家に帰るまでの道も、帰ってからの静けさも、今はひどく怖い。

 人のいる場所にいたい。

 少なくとも、誰かの気配があるところに。


「すみません」

 小夜は視線を落とした。

「少し、ここにいたほうが落ち着くので」

 三浦はしばらく黙っていた。

「……分かった。でも、このままはよくない」

「はい」

「少なくとも、少し休んで」

「……はい」


 三浦はそれ以上強く言わず、自席へ戻っていった。


 だが、そのやり取りを、少し離れた位置から澪が見ていた。


 危機管理室へ戻ると、澪はすぐに相沢へ報告した。


「本人は休むのを拒んでいます」

『状態は』

「限界に近いです。ですが、自分からは引きません」

『理由は』

「一人になるほうが不安なのだと思います」

 短い沈黙のあと、澪は続けた。

「こういうときに無理をするタイプです」

『……らしいな』

「はい」

『総務にはこちらから話を通す』

 相沢の声は低く、迷いがなかった。

『本人判断に任せる段階じゃない。今日は上がらせろ』

「分かりました」


 通話を切ったあと、澪は小さく息をついた。


 ほどなくして、総務部の上席に連絡が入り、三浦が再び小夜の席へ来た。


「柿谷さん」

「はい」

「今日はここまでにしよう」

「え」

「上からも話が来てる。体調不良扱いで上がって」

 小夜の顔がこわばる。

「でも、まだ」

「大丈夫。残りはこっちで見る」

「すみません」

「謝らなくていいよ」

 三浦はやわらかく言った。

「今は休むのも仕事だから」


 その言葉に、小夜は何も返せなかった。


 自分の意思ではない形で席を立たされることに、わずかな抵抗があった。

 けれど同時に、どこかでほっとしている自分もいた。

 もう無理をしなくていいのだと、誰かに決めてもらえたことに。


 帰り支度を整えながら、小夜は鞄の中の紙片に一度だけ触れた。

 冷たい感触が、まだそこにある。


 フロアを出ると、少し先に澪が立っていた。


「送ります」

 短く言われ、小夜は目を上げる。

「……すみません」

「気にしないでください」

 澪はそれだけ言った。


 エレベーターを待つ間、小夜は周囲の気配に耳を澄ませてしまう自分を止められなかった。

 誰かの話し声。

 靴音。

 遠くの電話。

 どれも普通だ。

 普通なのに、もう何一つ、完全には信じられない。


 昼のあの声は、本当にあったのだろうか。

 それとも、自分が勝手に聞いただけなのだろうか。


 分からない。


 けれど、分からないままでも、恐怖だけは確かに残っている。


 エレベーターの扉が開き、二人は乗り込んだ。

 閉まりかけた扉の向こう、廊下を横切る人影が一瞬だけ見える。


 見覚えがあるような、ないような、曖昧な背中だった。


 扉が閉まる。


 その瞬間、小夜は自分の手のひらに爪が食い込んでいることに気づいた。

 痛みがある。

 それでようやく、今ここに立っている自分の輪郭を確かめる。


 聞こえたのかもしれない。

 聞こえていないのかもしれない。

 けれど、もし本当に誰かが言ったのだとしたら、その相手はもう、手の届くところにいる。


 近くにいる。

 昨日の紙片がそう告げた。

 そして今日、その“近さ”は、声になったかもしれない。


 曖昧なまま触れられることほど、恐ろしいものはない。

 形がないから逃げ場がない。

 証拠がないから否定もできない。

 小夜はそのことを、今日初めて身をもって知った。


 接触は、たしかにあったのかもしれない。

 あるいは、そう思わされただけなのかもしれない。

 どちらであっても、相手はもう、小夜の内側にまで手をかけ始めていた。


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