第二十話 接近
翌朝、小夜は改札を抜けたところで一度だけ足を止めた。
背後に、誰かの気配を感じた気がしたからだ。
振り返っても、通勤客の流れがあるだけだった。スーツ姿の会社員、学生、足早に階段を上がっていく人影。見慣れた朝の雑踏の中に、特別なものは何もない。
気のせい。
そう思って歩き出したものの、胸の奥のざわつきは消えなかった。
会社に着いて総務部のフロアへ入ると、いつもの空気がそこにあった。電話の音、キーボードを打つ音、誰かの小さな咳払い。昨日までと同じ朝のはずなのに、小夜にはそのどれもが少し遠く、薄く感じられる。
自分の席に向かいながら、机の上を確認する。
何もない。
引き出しも、書類の位置も、昨日のままだ。
それでも完全には安心できず、鞄を置く手がわずかに遅れた。
「おはよう、柿谷さん」
声をかけられて顔を上げると、三浦が立っていた。
「あ……おはようございます」
「少し早いね」
「はい、ちょっと」
「そう」
三浦はそこで会話を切ってもよかったはずなのに、ほんの一拍置いてから続けた。
「昨日、少し顔色悪かったけど、大丈夫?」
小夜の肩がわずかに強張る。
「え?」
「いや、午後からちょっと元気なさそうだったから。気のせいならいいんだけど」
「……大丈夫です」
「ならいいけど。無理しないでね。まだ慣れないことも多いだろうし」
言葉自体は自然だった。
指導係として、むしろ普通の気遣いに近い。
けれど今の小夜には、その“普通”がかえって引っかかった。
昨日、受付へ行ったこと。
電話を受けたあと、少し顔色が変わっていたかもしれないこと。
三浦はどこまで見ていたのだろう。
「何かあったら言って」
三浦は穏やかに言った。
「仕事のことでも、それ以外でも。指導係として気になるから」
「……はい」
「じゃあ、午前中の伝票整理、あとで一緒に確認しようか」
「分かりました」
三浦はそれだけ言って自席へ戻っていった。
小夜はしばらく立ったまま、その背中を見ていた。
探っているようにも見える。
ただ気にかけているだけのようにも見える。
どちらなのか分からないことが、いちばん落ち着かなかった。
午前中、仕事はいつも通り進んだ。
伝票整理の確認で三浦と並んで座ったときも、彼は特に変わった様子を見せなかった。数字の見方、回し方、差し戻しの基準。説明は丁寧で、必要以上に踏み込んでくることもない。
「ここ、前回と処理が違うから気をつけて」
「はい」
「あと、この欄は空欄に見えても備考に回ってることがあるから」
「分かりました」
いつも通りだ。
少なくとも、表面上は。
だが小夜は、三浦が書類を指し示す指先や、ふとした視線の向きにまで意識を向けてしまう。自分が過敏になっているのは分かっていた。分かっていても、止められない。
昼前、三浦は別の後輩社員にも同じように声をかけていた。
「昨日の集計、ちょっと急ぎすぎたでしょ。ミスはなかったけど、焦ると危ないから」
「すみません」
「怒ってるわけじゃないよ。確認だけは丁寧にね」
そのやり取りを聞きながら、小夜は小さく息をついた。
三浦は、誰に対してもこうなのかもしれない。
気づく。声をかける。必要以上には踏み込まない。
それが指導係としての距離感なのだとしたら、朝の言葉も特別ではない。
そう思った瞬間、逆に自分の神経がひどく尖っていることを思い知らされる。
午後、総務部に危機管理室から資料確認の依頼が入った。担当者名を見た小夜の指先が止まる。
篠宮澪。
内容自体は簡単な確認だった。
だが、依頼書の文字を見ただけで、胸の奥に張っていたものが少しだけ緩むのを感じる。
しばらくして、篠宮が総務部に現れた。
「お疲れさまです」
澪は周囲にも聞こえる程度の声で言った。
「資料の確認をお願いできますか」
「はい」
小夜は立ち上がる。
「こちらです」
会議室ではなく、共有スペースの端で資料を広げる。
人目はある。だが、会話の細部までは聞こえにくい位置だった。
「この差し替え箇所だけ、念のため確認したくて」
澪が書類を示す。
「はい」
「……顔色がよくないですね」
低い声で、書類に目を落としたまま言う。
「何かありましたか」
小夜は一瞬、返事をためらった。
「いえ」
「柿谷さん」
澪の声は静かだった。
「今は、気のせいで済ませないほうがいい段階です」
その言い方に、小夜は唇を結ぶ。
三浦のときには言えなかったことが、篠宮の前では喉元まで上がってくる。
それがなぜなのか、自分でもよく分からなかった。
「……朝、駅で」
小夜は小さく言った。
「誰かいる気がしました」
「気配ですか」
「はい。でも、振り返っても分からなくて」
「他には」
「それだけです」
言ってから、小夜は少し迷い、続けた。
「でも、最近ずっと、見られてる感じがして」
「分かりました」
澪はそれ以上急かさなかった。
ただ、資料をめくるふりをしながら、声を落とす。
「一つだけ聞きます」
「……はい」
「相手が、あなたに“何かを知っている”前提で接触してきていると感じますか」
小夜の指先が止まる。
「それは」
「答えられる範囲で構いません」
「……感じます」
小夜は絞り出すように言った。
「でも、私、自分で何を知ってるのか、ちゃんと分からないんです」
「分からない」
「見たかもしれないことはあります。でも、それが関係あるのか分からない」
澪は目を上げずに聞いていた。
「何を見たんですか」
「まだ……うまく言えません」
「分かりました」
否定も、催促もなかった。
そのことに、小夜はかえって救われる。
「言えるようになったらで構いません」
澪は静かに言った。
「ただ、今後は“気のせいかもしれない”と思ったことも、できるだけ捨てないでください」
「はい」
「一人で判断しないで」
「……はい」
短いやり取りを終え、澪は資料をまとめた。
周囲から見れば、ただの確認作業にしか見えない。
だが小夜には、その数分が今日初めてまともに息をつけた時間のように思えた。
危機管理室へ戻る途中、澪は高橋に連絡を入れた。
「朝、駅で気配を感じたそうです」
『姿は?』
「確認できていません」
『でも本人が言ったんですね』
「ええ。あと、“見たかもしれないことがある”と」
『やっとそこまで来ましたか』
「まだ断片です。本人も整理できていない」
『十分です。相手が“知っている前提”で押しているなら、そこが核でしょうね』
通話を切ったあと、澪は短く息をついた。
小夜はようやく、自分の中にある“何か”の存在を認め始めている。
だが、それは同時に、相手の接近が効いている証拠でもあった。
午後遅く、総務部で小さなトラブルが起きた。
共有棚に置かれていた回覧資料の一部が見当たらず、担当者たちが周囲を確認し始めたのだ。
「このファイル、誰か動かしました?」
「いや、見てないです」
「午前中にはあったはずなんだけど」
小夜も席を立ち、棚の周辺を確認する。
そのとき、足元に薄い紙片が落ちているのが見えた。
メモ用紙の切れ端だった。
誰かが落としただけかもしれない。
そう思いながら拾い上げた瞬間、小夜の呼吸が止まる。
そこには、印字された文字が一行だけあった。
――近くにいるのに、まだ分からないんですか。
小夜の指先から血の気が引く。
「柿谷さん?」
近くにいた社員が声をかける。
「何かあった?」
「……いえ」
反射的に紙を裏返す。
「ただのメモです」
声が少し掠れた。
相手は不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
近くにいる。
その言葉が、朝の駅の気配と重なる。
会社の中に。
少なくとも、自分の動線の近くに。
そう思った瞬間、周囲の人影すべてが急に輪郭を変えたように見えた。
終業前、三浦が小夜の席に来た。
「柿谷さん、今日の伝票確認、ここだけ修正お願いしていい?」
「あ、はい」
三浦は書類を差し出し、それから小夜の顔を見て眉を寄せた。
「本当に大丈夫?」
「え」
「朝より顔色悪いよ。無理なら今日はもう上がったほうがいいんじゃない」
「……大丈夫です」
「そう?」
三浦は少し迷うように言った。
「何かあるなら、抱え込まないで。仕事に影響出る前に言ってくれたほうが助かるから」
「はい」
「責めてるわけじゃないよ」
「分かってます」
三浦の声には、探るような色はなかった。
ただ、本当に心配しているだけだった。
そのことが分かった瞬間、小夜は朝から自分が三浦に向けていた警戒を少し恥じた。
違ったのだ。
三浦はただ、指導係として見ていただけだった。
だが、そうなると余計に、別の誰かの存在が濃くなる。
終業後、小夜は鞄の中に紙片を入れ、フロアを出た。
エレベーターへ向かう途中、廊下の角を曲がったところで足を止める。
少し先に、篠宮が立っていた。
「柿谷さん」
澪は小夜の表情を見て、すぐに言った。
「何かありましたか」
小夜は数秒迷ったあと、鞄から紙片を取り出した。
「これが」
澪は受け取り、目を落とす。
「……どこで」
「共有棚の近くです」
「誰か見ていましたか」
「分かりません」
「そうですか」
澪の声は静かだったが、その目は明らかに冷えていた。
「朝の件とつながっています」
「はい」
「“近くにいる”と明言してきた」
「……はい」
小夜はそこで、ようやく自分の中にあった言葉を口にした。
「私、もう会社の中でも安全じゃない気がします」
澪はすぐには答えなかった。
「そう感じるのは自然です」
「気のせいじゃ、ないですよね」
「もう、その段階ではありません」
はっきり言われたことで、小夜の顔からさらに色が引いた。
だが同時に、曖昧な不安が一つの形を持った気もした。
「今日は一人にならないようにしてください」
澪が言う。
「帰りも、できるだけ人の多い経路で」
「はい」
「明日以降はこちらでも動きます」
「……分かりました」
危機管理室に戻った澪は、紙片を高橋に渡した。
「社内ですか」
高橋が低く言う。
「ええ。共有棚の近くに落ちていたそうです」
「置いたのか、落としたのか」
「どちらにしても、本人の動線に入れてきています」
「三浦さんは?」
「違います」
澪は即答した。
「少なくとも、今日の反応を見る限り」
「ですよね」
高橋は紙片を見ながら息をつく。
「むしろ、読者なら一回疑う位置ですけど」
「ええ」
「でも違った」
「はい。だから厄介です」
夕方の報告を受けた相沢は、紙片の文面を見てしばらく黙っていた。
「近くにいる、か」
「はい」
澪が答える。
「本人の不安を現実に変える言い方です」
「しかも社内で」
高橋が言う。
「もう“外からの圧力”だけじゃない」
「分かってる」
相沢は椅子にもたれ、低く言った。
「相手は、柿谷の生活圏に入ったことを知らせたいんだ」
「はい」
「実際にどこまで入れているかは別として、そう思わせるだけで十分効く」
「かなり効いています」
澪は答えた。
「本人は、会社の中でも安全ではないと感じ始めています」
「当然だ」
短い沈黙のあと、相沢は資料を閉じた。
「明日から見る場所を変える」
「場所を」
「本人だけじゃない。本人の周囲だ」
「……分かりました」
「接近しているのは相手だけじゃない。こっちも近づく」
その言葉に、澪は小さく頷いた。
夜、総務部のフロアはすでに無人だった。
整えられた机、消えたモニター、落とされた照明。
昼間は人の気配で埋まっていた空間が、今は静かに沈んでいる。
その静けさの中に、誰かが一度でも立っていたのかもしれない。
小夜の席の近くに。
共有棚の前に。
あるいは、ただ通り過ぎただけなのかもしれない。
だが、もう“気のせい”では済まない。
見ているだけだったものが、近づいてきた。
声だけだったものが、生活の中へ入り込んできた。
そして小夜もまた、ようやく自分が何かを握っているのだと認め始めている。
近づいている。
相手も。
真相も。
そして、引き返せない地点も。
そのどれもが、もうすぐ手の届くところまで来ていた。




