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第十九話 圧迫

 翌朝、総務部のフロアに入った小夜は、最初に自分の机を見た。


 昨日と同じ。

 書類の位置も、ペン立ての向きも、退勤前に整えたままだった。


 それだけで、少しだけ息をつく。


 何もない。

 少なくとも、見える範囲には。


 鞄を置き、パソコンを立ち上げる。画面が明るくなるまでの数秒が、妙に長く感じられた。


「おはようございます」

 隣の席の派遣社員が声をかける。

「おはようございます」


 返した声は昨日より少しだけ硬かった。自分でも分かる。

 けれど、それを直そうと意識するほど、かえって不自然になる気がした。


 午前中は目立ったことは起きなかった。

 電話を取り、伝票を回し、差し替え資料の確認をする。手は動く。頭も仕事をしている。だが、意識のどこかがずっと周囲の気配を拾い続けていた。


 誰かが立ち止まる。

 誰かがこちらを見る。

 それだけで、胸の奥が小さく強張る。


 昼前、コピー機の前で経理の女性社員と一緒になった。


「昨日、受付行ってたよね」

 何気ない調子だった。

「え?」

「ほら、荷物。珍しいなと思って」

「ああ……はい」

「何だったの?」

「ちょっと、家の関係で」

「そうなんだ」


 相手はそれ以上踏み込まなかった。

 けれど、小夜はコピー用紙を取り出す指先に力が入るのを感じた。


 見られていた。

 やはり、あの受け取りは誰かの目に入っていたのだ。


 午後、危機管理室では高橋が受付の記録を確認していた。


「差出人名は偽名の可能性が高いです」

 画面を見ながら言う。

「配送自体は一般的な方法で、特別な痕跡は薄い。ただ、会社宛てに個人名で送ることに慣れている感じがあります」

「慣れている」

 澪が繰り返す。

「はい。迷いがないです。受付で止まることも織り込んでる」

「つまり、届くことより、届く過程も含めて使っている」

「そう見えます」


 澪は腕を組んだ。


 小夜に届けばいいだけなら、自宅宛てでもいい。

 それをあえて会社に送ったのは、受け取りの事実を誰かに見せるためだ。


「周囲の反応は」

「じわじわです」

 高橋が言う。

「露骨な噂にはなっていません。でも、“何かあるらしい”という認識は広がり始めています」

「最悪ですね」

「はい。いちばん嫌な広がり方です」


 午後三時過ぎ、総務部に一本の外線電話が入った。


「総務部です」

 小夜が受話器を取る。


 数秒、無言。


「……もしもし?」

『柿谷さんですか』


 男とも女ともつかない、平坦な声だった。


「はい」

『見えているなら、もう分かりますよね』


 小夜の喉が凍る。


「どちらさまですか」

『黙っていると、困る人がいます』


 そこで電話は切れた。


 受話器の向こうから、無機質な切断音だけが残る。


「柿谷さん?」

 近くの席の社員が顔を上げた。

「大丈夫?」

「……はい」

 小夜は反射的に答えた。

「間違い電話みたいです」


 受話器を置く手が震えそうになるのを、机の縁に指を押しつけて止めた。


 今度は声だった。

 しかも、業務中の自分を狙って、部署の電話にかけてきた。


 周囲に聞かせるつもりだったのか。

 それとも、自分だけに届けばよかったのか。

 どちらにしても、もう距離の取り方が変わってきている。


 終業前、篠宮が総務部に来たとき、小夜は自分から声をかけた。


「篠宮さん」

 澪が足を止める。

「どうしました」

「少し、お時間いいですか」


 昨日までよりも、小夜の声は明らかに低かった。


 廊下の端に移ると、小夜は短く息を整えてから言った。


「電話がありました」

「電話」

「外線です。“見えているなら、もう分かりますよね”って」

 澪の表情が変わる。

「他には」

「“黙っていると、困る人がいます”と」

「周囲に聞かれましたか」

「少しは」

「……そうですか」


 小夜は唇を結んだあと、意を決したように続けた。


「これ、私だけの話じゃないですよね」

 澪は答えなかった。

「誰かのことを言わせたいんですよね」

「柿谷さん」

「私、何を知ってることになってるんですか」


 その問いは、怯えよりも疲労に近かった。


 澪は慎重に言葉を選ぶ。


「今は、相手の意図を一つに決めないほうがいいです」

「でも」

「ただ、偶然ではありません」

 澪は静かに言った。

「そこは、もうそう考えています」

「……はい」


 小夜は頷いたが、その目にはもう昨日までの“持ちこたえようとする力”だけではないものが混じっていた。

 限界が近づいた人間の、諦めに似た静けさだった。


 危機管理室に戻った澪は、電話の内容を高橋に共有した。


「メール、封筒、電話」

 高橋が指を折る。

「順番に近づいてますね」

「ええ」

「しかも、全部“答えを求めているようで、実際は反応を見ている”」

「同じです」

「嫌なやり方だな……」


 高橋は椅子にもたれ、天井を仰いだ。


「相沢さんには、今すぐ」

「はい」


 夕方、澪は高橋とともに相沢へ報告した。


 会議室のドアが閉まると、相沢は資料を一通り見てから机に置いた。


「電話まで来たか」

「はい」

 澪が答える。

「部署の外線です」

「周囲に聞かせる位置を選び始めたな」

 相沢は低く言った。

「本人を揺らすだけじゃない。周りにも“何かある”と思わせたい」

「受付の荷物と同じ意図ですね」

 高橋が言う。

「そうだ」


 短い沈黙のあと、相沢は澪を見た。


「柿谷はどうだ」

「かなり消耗しています」

「まだ折れてはいません」

 高橋が補う。

「だが、時間の問題かもしれません」

「……そうか」


 相沢は椅子に深く座り直した。


「ここで守り方を間違えると、逆に目立つ」

「はい」

 澪が答える。

「ただ、もう放置できる段階でもありません」

「分かってる」


 相沢は数秒考え、それから言った。


「明日、柿谷から自然に話せる形を作れ」

「自然に」

「呼び出すな。囲うな。業務の延長でいい」

「はい」

「本人の口から、“何を見たか”“何を気にしているか”を出させろ。こっちが聞き出した形にするな」

「……分かりました」


 澪は頷いたが、その指示の重さをすぐに理解した。


 小夜はもう限界に近い。

 ここで不用意に踏み込めば、崩れる。

 だが、踏み込まなければ、相手の圧力に押し切られるかもしれない。


 報告のあと、危機管理室へ戻る廊下で高橋が小さく言った。


「明日、分岐ですね」

「ええ」

「柿谷さんが話すか、黙るか」

「どちらでも、状況は動きます」

「はい」


 澪は窓の外を見た。

 夕暮れのガラスに、廊下の照明が白く映っている。


 相手は急いでいない。

 少しずつ距離を詰め、逃げ場をなくし、本人が自分から揺れるのを待っている。


 そのやり方が、何より厄介だった。


 総務部のフロアでは、小夜が一人、帰り支度をしていた。鞄に手帳を入れ、机の上を整え、椅子を戻す。動作はいつも通り丁寧なのに、その一つ一つがどこか遅い。


 ふと、彼女の手が止まる。


 机の引き出しにしまった封筒を思い出したのかもしれない。

 あるいは、さっきの電話の声がまだ耳に残っているのかもしれない。


 小夜は数秒そのまま動かず、やがて何事もなかったように鞄を閉じた。


 だが、その背中にはもう、昨日までの静かな均衡は残っていなかった。


 押されている。

 確実に。

 そして、次はたぶん、選ばされる。


 話すか。

 黙るか。

 そのどちらも、自分の意思だけでは済まない場所まで来ていた。


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