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第十八話 揺動

 翌朝、小夜は出勤前に一度だけスマートフォンの画面を見て、すぐに伏せた。


 昨夜のうちに届いていたメールは、結局それ以上増えていない。たった一行だけの文面なのに、頭のどこかに薄く貼りついたまま剥がれなかった。


 見えているなら、黙っていないでください。


 責めているようにも、促しているようにも読める。

 けれど、誰に向けた言葉なのかは曖昧で、その曖昧さがかえって気味悪かった。


 会社に着くと、総務部のフロアはいつも通り動いていた。電話の音、コピー機の作動音、誰かの足音。見慣れた朝の景色なのに、小夜には少しだけ遠く感じられる。


「おはよう」

 隣の席の派遣社員が声をかけてくる。

「おはようございます」


 返事はした。声もたぶん普通だった。

 けれど、自分がちゃんと普段通りに見えているのか、小夜には分からなかった。


 席に着いてメールを開く。業務連絡が並ぶ中に、昨夜の一通だけが異物のように残っている。削除しようかと思ったが、篠宮に転送してほしいと言われたことを思い出し、そのまま閉じた。


 午前中、差し替え資料の確認で篠宮が総務部に来た。


「おはようございます」

 小夜が立ち上がると、篠宮はいつも通りの落ち着いた顔で頷いた。

「おはようございます。昨日の件、転送ありがとうございました」

「いえ」

「その後、何か増えていませんか」

「今のところは」

「そうですか」


 それだけのやり取りだった。

 周囲から見れば、ただの業務確認にしか見えない。けれど小夜には、その短い言葉の中に「見ています」という含みがあるように思えた。


 少しだけ、ほっとした。

 同時に、それをほっとしてしまう自分にも気づいた。


 昼休み、給湯室でマグカップを洗っていると、背後で声がした。


「柿谷さんって、危機管理室と仕事あるんだっけ」


 振り返ると、経理の女性社員が何気ない顔で立っていた。隣には総務の別チームの社員もいる。


「え?」

「いや、さっき篠宮さんと話してたから」

「ああ、差し替え資料の件で」

「そうなんだ」


 それだけだった。

 それだけのはずなのに、小夜は妙に喉が渇いた。


 相手の声色に悪意があったわけではない。

 ただ、見られていたのだと思った。


 午後、危機管理室では高橋が小夜の周辺の動きを簡単に整理していた。


「露骨なものはありません」

 モニターを見ながら高橋が言う。

「でも、柿谷さんが篠宮さんと話していたことは、もう周囲に認識され始めています」

「早いですね」

 澪が言う。

「はい。本人に向けた直接の圧力というほどではないですが、視線が集まり始めている感じです」

「見られていると分かるだけでも、人は揺れます」

「ええ」


 澪は短く息をついた。


 昨日のメールは、相手が一歩踏み込んだ証拠だった。

 そして今日の空気は、その一歩が小夜の周囲にも波紋を広げ始めていることを示している。


「相沢さんには」

「夕方、まとめて報告します」

 高橋が答えた。


 その日の午後遅く、小夜のもとに内線が入った。


『総務部、柿谷さんですか』

「はい」

『一階受付に、お届け物が届いています』

「お届け物?」

『差出人名が個人名で、確認をお願いしたいそうです』


 小夜は一瞬、言葉に詰まった。


「……分かりました」


 受話器を置いたあと、すぐには立ち上がれなかった。

 何かを頼んだ覚えはない。個人名の荷物が会社に届くこと自体、なくはない。だが、今のタイミングでは偶然と思いきれなかった。


 結局、小夜は受付へ向かった。


 一階の受付カウンターで示されたのは、小さな封筒だった。差出人欄には見覚えのない名前が書かれている。送り状の文字は整っていて、妙に事務的だった。


「こちらでお間違いないですか」

 受付担当が言う。

「……はい」


 受け取った封筒は軽かった。

 中に紙が一枚だけ入っている感触がある。


 その場では開けず、フロアへ戻る途中の人気のない階段脇で、小夜はそっと封を切った。


 入っていたのは、折りたたまれたコピー用紙だった。


 開くと、中央に一文だけ印字されていた。


 ――見えているのに、まだ黙るんですか。


 小夜の指先が冷たくなる。


 メールと似ている。

 けれど、今度は会社に届いた。

 自分の名前で。

 自分がここにいることを知っている相手から。


 紙を持つ手がわずかに震えた。


「柿谷さん?」


 不意に声をかけられ、小夜ははっとして振り返った。総務部の男性社員が、階段のほうへ来かかっていた。


「どうしました?」

「いえ、何でも」

 小夜は反射的に紙を折りたたんだ。

「ちょっと、確認していただけです」

「そう?」

「はい」


 相手はそれ以上何も言わずに去っていったが、小夜の鼓動はしばらく収まらなかった。


 席に戻ってからも、封筒を引き出しにしまう手がうまく動かなかった。

 見られている。

 その感覚だけが、今度ははっきりと形を持って迫ってくる。


 終業前、篠宮が総務部に来たのは、ほとんど偶然のようなタイミングだった。


「柿谷さん」

 低い声で呼ばれ、小夜は顔を上げた。

「少しだけ」


 会議室ではなく、廊下の端。昨日と同じ、人目につきにくい場所だった。


「何かありましたか」

 篠宮の声は静かだったが、問いはまっすぐだった。


 小夜は数秒迷ったあと、鞄から封筒を取り出した。


「これが」

「……受付経由ですか」

「はい」

「中は」

「紙が一枚だけです」


 篠宮はその場で受け取らず、まず小夜の顔を見た。


「開けましたか」

「はい」

「内容は」

「“見えているのに、まだ黙るんですか”って」


 澪の目がわずかに細くなる。


「分かりました。こちらで確認します」

「私、やっぱり」

 小夜はそこで言葉を止めた。

「狙われてるんでしょうか」


 澪はすぐには答えなかった。


「今の段階で断定はしません」

 静かな声だった。

「ただ、偶然として片づけないほうがいいとは思っています」

「……そうですか」

「一人で判断しないでください。何か来たら、すぐ知らせてください」

「はい」


 小夜は頷いた。

 その返事は、自分でも思っていたより弱かった。


 危機管理室に戻った澪は、封筒と紙を高橋に渡した。


「物理に来ましたか」

 高橋が低く言う。

「ええ。受付経由です」

「嫌ですね」

「かなり」


 高橋は封筒の宛名と送り状を見比べながら、眉を寄せた。


「メールより一段近いです」

「はい」

「会社に届く形を選んだのは、本人への圧力だけじゃない。受け取りの事実そのものを周囲に見せる意図もあるかもしれません」

「私もそう思います」

 澪は答えた。

「給湯室でも、すでに周囲は気づき始めています」


 夕方、澪は資料を持って相沢のもとへ向かった。


 短い報告を聞き終えた相沢は、封筒を見て顔をしかめた。


「雑じゃないな」

「はい」

 澪が答える。

「社内SNSが使えなくなったあと、メールに移って、さらに物理に来ました」

「段階を踏んでる」

「ええ」

「相手は、柿谷を黙らせたいのか、しゃべらせたいのか」

 高橋が言う。

「どっちにも見えます」

「どっちでもいいんだろう」

 相沢は低く言った。

「揺れればいい。黙っても、しゃべっても、動けばいい」


 澪はその言葉に、胸の奥が冷えるのを感じた。


 相手は答えを求めているわけではない。

 反応を見たいだけだ。


「明日から」

 相沢が続ける。

「柿谷の周辺をもう少し丁寧に見ろ。露骨に守るな。だが、一人にする時間は減らせ」

「分かりました」

「それと、受付経由の荷物は記録を洗え。差出人名が偽名でも、出し方に癖は残る」

「はい」


 報告を終えて危機管理室へ戻る途中、澪はふと足を止めた。


 小夜は、どこまで耐えられるだろう。

 まだ崩れてはいない。

 だが、今日の返事は昨日より明らかに弱かった。


 見えない場所から始まった圧力が、少しずつ形を持ち始めている。

 メール。視線。封筒。

 どれも決定打ではない。だからこそ、逃げ場がない。


 終業後、総務部のフロアは静かだった。小夜の席はもう空いている。整えられた机の上には、いつも通りの文具と書類だけが残されていた。


 その“いつも通り”が、今日は妙に頼りなく見えた。


 相手は近づいてきている。

 しかも、急がず、確実に。


 次に来るのが言葉なのか、物なのか、それとも別の形なのかはまだ分からない。

 ただ一つ分かるのは、もうこれは偶然ではないということだけだった。


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