第十七話 水面下
翌朝、危機管理室に入った澪は、最初に共有モニターを見た。
匿名投稿の一覧は昨夜のままで、新しい書き込みは増えていない。
「止まりましたね」
高橋が言う。
澪は小さく頷いた。
社内SNSに会社情報を書き込むこと自体、もともと禁止されている。今回の件では、そこに加えて改めて注意喚起が出された。未確認情報や憶測を含む投稿は調査対象とする、と明記された文面だった。
もともと禁じられていたことを、さらに明文化して念押しした。
それで表の動きが止まるのは、ある意味では当然だった。
「通達が効いたというより」
澪が言う。
「続ける理由がなくなったんでしょうね」
「はい」
高橋も低く答える。
「もう同じ場所ではやりにくい」
それでも、終わった感じはしなかった。
見えていたものが消えただけで、流れそのものはまだどこかに残っている。そんな妙な静けさが、朝のフロア全体に薄く広がっていた。
「相沢さんには、このあと報告します」
澪が言う。
「お願いします」
高橋はモニターを見たまま答えた。
「止まったこと自体が、逆に気持ち悪いです」
午前の早い時間に、澪と高橋は整理した内容を持って相沢のところへ向かった。
相沢は自席ではなく、空いている打ち合わせスペースにいた。資料に目を通していた手を止め、二人を見る。
「どうだ」
「社内SNSの新規投稿は止まりました」
澪が答える。
「当然だな」
相沢は淡々と言った。
「もともと禁止されてる。さらに念押しまで入った。ここで続けるなら、ただの雑魚だ」
「……でも、終わった感じはしません」
「終わってないだろうな」
相沢は即答した。
「表で打てなくなっただけだ。こういうのは、止まるときほど面倒になる」
「水面下に移る」
「そういうことだ」
高橋が手元のメモを開く。
「投稿が止まったあと、フロアの空気だけが残ってる感じがあります」
「残るだろう」
相沢は短く言った。
「見える場所で撒いたものは、消してもすぐには消えん」
その言葉が、妙に現実味を持って胸に残った。
午前中、澪は差し替え対応の確認を名目に総務部へ向かった。小夜の席は窓際の列の端にある。周囲にはいつも通りの電話の声と、紙をめくる音が流れていたが、どこかだけ薄く張っているような空気がある。
「おはようございます」
澪が声をかけると、小夜はすぐに立ち上がった。
「おはようございます、篠宮さん」
「少しだけいいですか」
「はい」
廊下の端、人の往来を邪魔しない場所まで移ると、澪は声を落とした。
「何か変わったことはありましたか」
「変わったこと、ですか」
「昨日から今日にかけて。業務でも、それ以外でも」
小夜は少し考え、それから答えた。
「社内SNSは静かです」
「ええ」
「でも、その代わりかどうかは分からないんですけど」
そこで小夜は一度言葉を切った。
「今朝、変なメールが来ました」
「メール」
「はい。社内アドレスじゃなくて、フリーメールでした」
澪の表情は変えなかったが、背筋が冷えた。
「内容は」
「一行だけです」
小夜は低い声で言った。
「“見えているなら、黙っていないでください”って」
澪は数秒、何も言わなかった。
昨日まで社内SNSに書かれていた文と、同じ温度だった。
断定はしない。
だが、読む相手の中にだけ責任を生じさせる。
「残っていますか」
「削除はしていません」
「あとで転送してください」
「はい」
小夜は頷いたが、不安を見せまいとしているのが分かった。指先だけが、薄く握られている。
「他には」
「今朝、席に着いたとき、話していた人たちが急に黙ったので」
「誰が」
「経理の方と、総務の派遣さんです。でも、たまたまかもしれません」
「そうかもしれません」
澪は静かに言った。
「今は、全部をつなげて考えすぎないでください」
「はい」
小夜は素直に答えた。だが、その目にはわずかな迷いが残っていた。
「柿谷さん」
澪はできるだけ平静な声で続けた。
「しばらく、知らない差出人からの連絡には反応しないでください」
「分かりました」
「何かあったら、すぐ私に」
「はい」
小夜は頷いたあと、少しだけためらってから口を開いた。
「私、何かしたんでしょうか」
「どうしてそう思うんですか」
「気づいたことを話したから」
小夜は小さく言った。
「もしそうなら、余計なことをしたのかなって」
澪は一瞬だけ言葉を選んだ。
「そうとは限りません」
「でも、タイミングが」
「タイミングだけで決めないでください」
澪は静かに言った。
「今は、余計な意味づけをしないほうがいいです」
「……はい」
危機管理室に戻ると、高橋がすぐに顔を上げた。
「どうでした」
「直接接触が一件」
澪は答える。
「フリーメールで、“見えているなら、黙っていないでください”」
「やっぱり」
高橋が低く言う。
「表から裏に移りましたね」
「ええ」
「柿谷さん、動揺してましたか」
「表には出していません。でも、気づいています」
昼前、澪は追加情報を持って、もう一度相沢のところへ向かった。
今度は相沢も席を外していて、短いやり取りは廊下脇の小さな打ち合わせスペースになった。
「柿谷さんに来ました」
澪が言う。
「フリーメールで一行。“見えているなら、黙っていないでください”」
相沢の目がわずかに細くなる。
「狙いは同じだろうな」
「同じ」
「読んだ人間の中に、“自分のことかもしれない”を作る」
相沢は低く言った。
「社内SNSはもともと禁じ手だ。さらに念押しまで入った。なら、次は見えない場所でやる」
「個別に揺さぶる段階に入った」
「そういうことだろう」
澪は小夜の表情を思い出していた。
怯えているわけではない。
だが、自分が何かの輪郭に触れてしまったことは分かっている顔だった。
「他にも来ると思いますか」
「来るだろう」
相沢は即答した。
「柿谷だけとは限らん。だが、最初に行くならあいつみたいなタイプだ」
「反応しそうだから」
「違う」
相沢は短く切った。
「反応を表に出しにくいからだよ」
澪はその言葉に目を上げた。
「表に出しにくい人間は、周囲から見えにくい」
相沢は続ける。
「見えにくい揺れは、長引く」
午後になっても、社内SNSに新しい投稿はなかった。
それでも、静けさは安心につながらない。むしろ、見えない場所へ移った分だけ、輪郭がつかみにくくなっていた。
夕方、小夜から転送されてきたメールを確認すると、本文は一行だけだった。
“見えているなら、黙っていないでください”
件名も署名もない。送信元は無料のメールサービス。本文の癖は薄く、社内SNSの投稿ほど特徴が出ていない。
「切り分けてますね」
高橋が画面を見ながら言う。
「投稿と同じ人間でも、わざと癖を消してるかもしれない」
「あるいは別口」
澪が言う。
「連動してる可能性もあります」
「どっちにしても、柿谷さんを見てますね」
終業前、澪はその内容を簡潔にまとめて相沢へ共有した。返ってきたのは短い指示だけだった。
「明日から、総務部との連携名目で柿谷に接触する回数を増すように」
「不自然になりませんか」
「ぎりぎりの線で」
「はい」
「高橋は、社内SNSが止まったあとの動きを見ろ。投稿が消えたあとに誰が何を言い始めたか、拾える範囲で拾え」
「分かりました」
「それと」
相沢は最後に声を落とした。
「柿谷本人には、まだ“狙われている”とは言うないように」
「……はい」
「自分が標的だと意識した瞬間、人は動きを変える。向こうにとっても、こっちにとっても、それはノイズになる」
澪は頷いた。
正しい判断だと思った。
だが同時に、小夜に何も言わないまま見ていることへの後ろめたさも残る。
終業後、総務部のフロアを通りかかったとき、小夜はまだ席にいた。画面に向かったまま、何かを打ち込んでいる。周囲の席は少しずつ空き始めていた。
澪は足を止めかけて、やめた。
今ここで声をかければ、不自然になる。
見ていることが、見えてしまう。
そのまま通り過ぎたあと、ガラス越しに一度だけ振り返る。小夜は気づかない。白い照明の下で、いつも通り静かに仕事をしているように見えた。
だが、その“いつも通り”が、どこまで保てるのかはもう分からなかった。
社内SNSは止まった。
それは、通達が効いたからというより、もともと禁じられていた場所が完全に使えなくなっただけだ。
見える場所から消えただけで、流れそのものはまだ残っている。
むしろ今は、見えないぶんだけ厄介だった。
誰が揺れるか。
誰が黙るか。
誰に、次の一通を送るか。
その選別は、もう水面下で始まっていた。




