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第二話 辞令

朝の総務部は、まだ人が少なかった。


天井の照明はいつも通り点いている。複合機の低い駆動音だけが奥で続き、始業前の島は静かだった。


相沢は自席で電子掲示板を開いていた。


人事発令。


簡素な見出しの下に、異動者の氏名が並んでいる。


高橋翔人(現営業部)を危機管理室へ異動する。

篠宮澪(現総務部)を危機管理室へ異動する。

なお、篠宮澪は係長に任用する。


相沢はその三行を見たまま、しばらく動かなかった。


危機管理室の新設も、篠宮の異動も昨日の通達で知っている。だが、正式な発令として並ぶと意味が違った。


高橋も入る。

そして篠宮には役が付く。


右腕を抜かれるだけじゃない。

役付きで持っていかれる。


小さく息を吐いたところで、部の入口の方で足音がした。


篠宮だった。いつも通りの時間、いつも通りの歩幅で入ってくる。相沢はその姿を見てから声をかけた。


「篠宮」


澪が足を止める。


「はい」


「見たか」


「まだです」


相沢はモニターを示した。


澪は少しだけ眉を寄せ、そのまま近づいて画面をのぞき込んだ。上から順に目で追い、自分の名前で止まり、最後の一文で完全に止まる。


なお、篠宮澪は係長に任用する。


「……係長」


「大抜擢だな」


「他人事みたいに言いますね」


「他人事じゃないから言ってる」


澪は一行目に目を戻した。


「高橋さんもですか」


「そう書いてある」


「見れば分かります」


「観察してますから、じゃないのか」


澪はそこでようやく相沢を見た。


「よく覚えてますね」


「お前が何回も言うからだ」


澪はもう一度、画面に目を落とした。


高橋翔人(現営業部)を危機管理室へ異動する。


以前、最悪の事態を先に見ているのではないかと疑った、あの高橋だった。因果なものだと澪は思った。


「階段飛ばし」


「何がだ」


「係長です」


「軽くない」


「でしょうね」


澪はまだ画面を見ていた。


異動だけではない。役付きだ。

会社がこの人事を本気でやるつもりなのだと分かる。


「嫌な顔してます?」


「してない」


「してます」


「お前ほどじゃない」


澪は小さく息をついた。


「不満か」


「まさか」


即答だった。


「ただ、重いなと」


「重いだろ、俺も相手がお前になると思うと気が重い」


「はい」


それで会話は一度切れた。


遠くで椅子を引く音がした。誰かの「おはようございます」が壁に当たって薄く返る。いつもの朝だ。なのに、画面の三行だけがそこから浮いて見えた。


危機管理室。

高橋翔人。

篠宮澪、係長任用。


昨日までは遠かった言葉が、今朝は妙に近い。


「でも」


澪が言った。


「私が移る意味、そこまでありますか」


相沢はすぐに答えた。


「ある」


「即答ですね」


「俺とお前で回ってるように見えるだけだ」


澪は黙った。


「それじゃ続かない」


「属人化、ですか」


「そうだ」


短い言葉だった。だが、それで十分だった。


自分たちが拾ってきた。つないできた。表に出る前に潰してきた。だから回っていた。だが、回っていたからこそ、仕組みの足りなさも見えなくなっていた。


誰かが気づく。

誰かが動く。

その“誰か”が固定されている。


それは強さでもあるが、組織としては危うい。


「矢吹常務らしいですね」


「らしいな」


澪は小さく息をついた。


納得したわけではない。けれど、意味は分かる。危機管理室は、ただ火消しを集める部署じゃない。自分たちが埋めてきた隙間を、仕組みに変えるための部署なのだ。


部内に人が増え始めた。パソコンの起動音が重なり、朝の静けさが少しずつほどけていく。


澪は自席に鞄を置いた。


「引き継ぎ、今日から詰めます」


「そうしてくれ」


「かなりありますよ」


「分かってる」


「私が抜けたら困る仕事、多いですし」


相沢はそこで初めて澪を見た。


「だから困らない形にするんだろ」


澪は言い返せなかった。


悔しい、というより、見透かされた気がした。自分がいなくなれば困る。その事実に、どこかで寄りかかっていたのかもしれない。


だが、危機管理室へ行くということは、その寄りかかり方ごと変えるということだ。


自分がいなくても回る形を作る。

誰が見ても、同じように拾い、同じように上げられる線を引く。

それができて初めて、部署になる。


「高橋さん、やりにくそうですね」


澪が言うと、相沢は少しだけ口元を動かした。


「お前もだろ」


「否定はしません」


「だろうな」


澪は椅子を引いた。端末を立ち上げる前に、もう一度だけ相沢のモニターを見る。そこにはまだ、人事発令の三行が表示されたままだった。


高橋翔人。

篠宮澪。

係長任用。


どれも昨日までは自分の外にあった言葉だ。

今日からは違う。


「篠宮」


相沢に呼ばれて、澪は顔を上げた。


「はい」


「行くなら、ちゃんと作ってこい」


その言葉に、澪は一瞬だけ息を止めた。


火消しをしてこい、ではない。

頑張れ、でもない。


部署を。

仕組みを。

線を。


「……はい」


それしか言えなかった。


相沢は画面を通常の業務画面に戻した。人事発令の掲示が消え、見慣れたポータルのトップページが現れる。


たったそれだけのことなのに、何かが決まったように見えた。


澪も端末を起動した。未読通知の件数も、回覧の一覧も、会議室予約の表示も昨日と変わらない。


変わらないものの中で、自分だけがもう別の場所へ向かっている。


その向こうにある三年分の重さを、澪はまだ知らなかった。


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