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第三話 初日

危機管理室は、本館七階のいちばん奥にあった。


正確には、部署として整った部屋というより、空いていた会議室を急ごしらえで使えるようにしただけの場所だった。壁際の書庫には前に使っていた部署の名残らしい古いファイルが何冊か差さったままで、机は四人分が島に組まれているものの、実際に使う人間が何人いるのかもまだ曖昧だった。新品のノートパソコンと電話機は二台ずつ置かれていたが、配線は床を這い、養生テープの端が少し浮いている。窓は細長く、隣の棟の外壁しか見えない。


澪は部屋の前で一度だけ足を止め、扉横の差し替えプレートを見た。


危機管理室。


白地に黒文字の簡素な表示だった。昨日まで存在しなかった名前が、今朝はもうそこにある。辞令が出たからといって、部署が一晩で完成するわけではない。その当たり前のことが、プレートの薄さひとつでよく分かった。


「入らないんですか」


背後から声がして、澪は振り返った。


高橋翔人が立っていた。片手に紙コップのコーヒーを持ち、もう片方の手で社員証のストラップを軽くいじっている。営業部にいた頃と変わらない、どこか力の抜けた立ち方だった。


「見学してました」


「新居ですもんね」


「仮設事務所の間違いでは」


「それはそうです」


高橋は笑って、澪の横に並んだ。扉のプレートを見上げる。


「危機管理室、ですか」


「読めますね」


「観察してますから」


澪は思わず高橋を見た。


高橋は何でもない顔をしていたが、口元だけが少し上がっている。聞いていたのか、偶然なのか、一瞬判断がつかなかった。


「それ、便利な言葉ですね」


「便利ですよ。だいたいのことは通ります」


「乱用すると信用を失いますよ」


「篠宮さんに言われると効きますね」


軽い調子だった。だが、軽いだけではない。相手の返しを半歩先で待っているような間がある。営業らしいと言えばそうだが、それだけでもない気がした。


澪は先に扉を開けた。


部屋の中は、まだ誰の気配も定着していなかった。机の上には備品の入った段ボールが二箱、壁際には未開封のコピー用紙、ホワイトボードには何も書かれていない。会議室だった頃の名残で、壁の時計だけが妙に場慣れした顔をしている。


「何から決めます?」


高橋が言った。


「席ですか、運用ですか、それとも諦める順番ですか」


「最後の選択肢はありません」


「じゃあ席からですかね」


澪は部屋を見回した。係長だからといって上座があるわけでもない。だが、入口に近い席の方が人の出入りには対応しやすい。電話もそちらに寄っている。


「入口側を私にします」


「了解です」


「高橋さんは向かいで」


「はい」


高橋はあっさり頷いた。異論も冗談も挟まない。その素直さが少し意外だった。


澪が鞄を机に置いたところで、開け放したままの扉の向こうから台車の音が近づいてきた。見ると、総務部の三浦が段ボールを二つ積んだ台車を押している。額にうっすら汗をかいていた。


「あ、おはようございます」


「おはよう」


「おはようございます」


三浦は部屋の中を見て、少しだけ目を丸くした。


「ほんとに会議室ですね」


「見れば分かります」


「いや、もっとこう……部署っぽいかと」


「期待しすぎです」


三浦は苦笑しながら台車を止めた。


「備品の追加です。文具一式と共有用のファイル、あと延長コード。総務の保管庫にあったやつ、かき集めてきました」


「助かります」


「助かるのはこっちです。これ運んだら戻りますけど」


三浦はそう言って、段ボールを机の脇に下ろした。


「朝から電話鳴りっぱなしで。篠宮さん抜けた穴、思ったよりでかいです」


澪は返事をしなかった。できなかった、に近い。


総務部が忙しいのは分かっていた。自分が抜けたからといって止まる部署ではないことも分かっている。だが、こうして荷物を運びに来た人間の口から言われると、別の重さがあった。


「荷物運びまで戦力ですか」


高橋が言うと、三浦は肩をすくめた。


「今の総務、わりと本気でそうです」


「大変ですね」


「そっちも大変そうですけど」


三浦は部屋を見回し、少しだけ笑った。


「机、ちゃんとあるだけましですね」


「基準が低いですね」


「総務にいると下がるんです」


その言い方が妙にもっともらしくて、澪は少しだけ口元を緩めた。


「ありがとう。戻っていいですよ」


三浦は一礼して台車を引いた。扉のところで一度だけ振り返る。


「……なんか、ほんとに始まるんですね」


その言葉だけ残して、すぐに廊下へ消えた。


部屋に静けさが戻る。


「総務、きつそうですね」


高橋が言った。


「きついでしょうね」


「戻りたくなります?」


澪は机の上の段ボールを見たまま答えた。


「今さらです」


高橋はそれ以上は聞かなかった。


会議室Aは同じフロアの中央にある中会議室だった。ガラス壁にブラインドが下りていて、中の様子は見えない。二人で入ると、すでに矢吹常務が奥の席に座っていた。秘書も資料もいない。ノート一冊だけが机の上に置かれている。


「おはよう」


「おはようございます」


二人が頭を下げる。


矢吹は五十代半ば、痩せた体つきで、声を張らない人だった。だが、張らないからこそ聞き漏らせない種類の圧がある。総務畑でも営業畑でもない、経営企画と管理を長く渡ってきた人間特有の目をしている、と澪は前から思っていた。


「座って」


二人が席に着くと、矢吹はノートを開きもせずに言った。


「まず確認しておく。危機管理室は、問題が起きてから呼ばれる部署ではない」


澪は顔を上げた。


「起きる前に拾う。起きた後は広げない。起きたものは再発させない。そのための部署だ」


言葉は短い。だが、昨日相沢と話したことが、そのまま別の角度から置かれた気がした。


「総務がやってきたことと重なる部分もある。営業や法務や情報システムとも重なる。だが、重なることを理由に誰も持たない領域がある。そこを持つ」


矢吹の視線が二人を順に通る。


「火消し役を集めたつもりはない。勘のいい人間を寄せ集めても、仕組みにならなければ意味がない。属人化を終わらせるために作る」


澪は無意識に背筋を伸ばしていた。


「篠宮」


「はい」


「あなたには運用を作ってもらう。相談の入口、一次判断、共有先、記録、エスカレーション。線を引く役だ」


「承知しました」


「高橋」


「はい」


「現場の匂いを持ち込んでほしい。営業は問題を隠す部署だと言うつもりはないが、表に出る前の空気をいちばん早く吸う部署ではある」


高橋は少しだけ笑った。


「耳が痛いですね」


「痛いくらいでちょうどいい」


矢吹は表情を変えなかった。


「準備期間はない。今日から相談は来る。すでに二件、こちらに回すよう指示してある。大きくはない。だが、こういうものを雑に扱うと後で効く」


矢吹はそこで一度言葉を切った。


「もう一つ。危機管理室は、各部の上に立つ部署ではない。監査でも査問でもない。責任追及を先に置くな。目的は損失の最小化だ」


高橋が口を開く。


「権限の線は、どこまで見ていいんでしょう。各部の案件に首を突っ込む部署だと思われると、最初に嫌われますよね」


「嫌われるなとは言わない」


矢吹は高橋を見た。


「だが、必要な時に入れなければ意味がない。必要性を説明しろ。自分の言葉で通せ。通らなければ私の名前を使っていい」


「了解です」


「以上。質問は」


澪は一瞬迷ってから口を開いた。


「人員の追加予定はありますか」


矢吹は少しだけ間を置いた。


「ある。だが、すぐではない」


「承知しました」


「最初から人数がそろう部署なら、そもそも新設の必要はない」


それは身も蓋もない言い方だったが、否定しようもなかった。


会議室を出ると、廊下の空気が少しだけ軽く感じた。緊張していたのだと、その時になって分かる。


「人数の質問、助かりました」


高橋が言った。


「聞きたかったので」


「僕もです。薄々二人で全部やるんだろうなって思ってましたけどね」


「今もだいたいそうでしょう」


「ですよね」


高橋は笑った。その時、ふと首の後ろに手をやった。揉むというほどではなく、指先で確かめるように押さえる。


澪はそれを見たが、何も言わなかった。


部屋に戻ると、共有アドレス宛てのメールがすでに数件入っていた。件名には「相談」「確認依頼」「共有」といった曖昧な言葉が並んでいる。部署ができたと聞いて、とりあえず投げてきたのが分かる。


「雑ですねえ」


高橋がモニターをのぞき込んで言う。


「入口ができたばかりですから」


澪は椅子に座り、最初のメールを開いた。


一件目は、地方支店での取引先対応に関する相談だった。担当者が先方から口頭で受けた要望を正式な依頼と誤認し、社内で先走った調整を始めてしまっている。まだ表面化はしていないが、このまま進めば「言った・言わない」の揉め方になる。


二件目は、EC運営部からの共有で、キャンペーン告知文の一部表現について法務確認が未了のまま公開スケジュールが組まれているというものだった。こちらもまだ事故ではない。だが、止めるなら今しかない。


「どっちも地味ですね」


高橋が言った。


「地味なうちに拾う部署ですから」


澪は答えながら、メモ用のノートを開いた。紙で回す運用にするのか、データで統一するのか、それすらまだ決めていない。だが、決まっていないからといって記録を後回しにはできない。


「まず分類ですね」


「相談、共有、要対応、緊急、くらいですか」


「仮でいいので作りましょう。受付時刻、起点部署、担当、一次判断、対応先、完了日」


「項目、多いですね」


「後でAI使って最適化させます。最初は多い方がいい」


高橋は二件目のメールを開いていた。


「こっちはEC運営部ですね。公開予定、今日の十七時」


「法務確認未了で?」


「メール上はそう読めます」


高橋は画面を見たまま、また首の後ろに触れた。今度はさっきより長い。澪は視線だけを向ける。


「高橋さん」


「はい」


「肩こりですか」


高橋は手を下ろした。


「そんなところです」


「便利な言い方ですね」


「そっくり返します」


澪はそれ以上は聞かなかった。


「支店案件は僕が見ます」


高橋が言った。


「営業の言い回しの方が角が立ちにくいので」


「お願いします。私はEC運営部の方を見ます」


役割が決まると、部屋の空気が少しだけ落ち着いた。何もない場所でも、やることが見えれば部署らしくなる。


澪はEC運営部の担当者に内線をかけた。二コールで若い女性が出る。


『はい、EC運営部です』


「危機管理室の篠宮です。共有いただいたキャンペーン告知文の件で確認したいのですが」


相手が一瞬黙る。危機管理室、という名前にまだ慣れていないのは向こうも同じだろう。


『あ、はい。すみません、急にこんな部署ができたって聞いて、どこまで投げていいのか分からなくて』


「それで大丈夫です。現状だけ教えてください」


話を聞くと、法務確認の依頼自体は出しているが、担当者不在で返答待ちのまま、公開スケジュールだけが先に固定されていた。文言の中に景品表示法に触れかねない表現が一つある。担当者は気づいているが、止める権限が曖昧で、共有だけ先に上げたらしい。


「公開は止められますか」


『部長判断があれば』


「では、部長に上げる前提で、問題箇所を文面で送ってください。法務にもこちらから並行で確認します」


『助かります……』


受話器越しの声が、はっきりと安堵したのが分かった。


澪は電話を切り、すぐにメモをまとめた。止めるべき理由、必要な確認先、公開延期の影響。総務にいた頃も似たようなことはしていたが、ここではそれを「個人の気づき」で終わらせず、残る形にしなければならない。


高橋の方も通話を終えたらしく、椅子を少し引く音がした。


「支店案件、先方への返答は止めました」


「早いですね」


「営業は、まず止血です」


「物騒な言い方ですね」


「危機管理室向きでしょう」


軽口のようでいて、間違っていない。


「ただ」


高橋の声が少しだけ低くなった。


「この案件、支店だけじゃないですね」


澪は顔を上げた。


「どういうことですか」


高橋は自分の画面をこちらに向けた。メールスレッドの下に、さっきは見えていなかった転送履歴が続いている。件名の前半が別件の大型提案と同じだった。


「担当者個人の行き違いじゃなくて、本筋の提案の流れにぶら下がってます。こっちを雑に処理すると、別件まで巻き込むかもしれない」


澪は画面に目を凝らした。


「……本部案件ですか」


「ですね。担当者が焦ってる理由、これだと思います」


高橋はそう言って、また首の後ろに手をやった。今度は押さえるというより、痛みの位置を探るような動きだった。


「ひどいんですか」


澪が聞くと、高橋は一瞬だけ目を伏せた。


「ちょっと嫌な感じがするだけです」


「首がですか、案件がですか」


高橋は答えず、代わりに小さく息を吐いた。


「両方、ですかね」


澪は数秒だけ黙った。


ただの肩こりかもしれない。寝違えかもしれない。だが、会議の後、案件を開いた時、話が一段深くなった時。出るタイミングが妙に悪い。いや、良すぎると言うべきか。


「支店長だけじゃ足りませんね」


澪は思考を切り替えた。


「本部側の営業責任者も押さえましょう。先方への返答文面は一本化。関連案件ありで管理します」


「了解です。僕から営業本部に当たります」


「私は法務とEC運営部を先に固めます」


二人の声が重なり、部屋の空気が一段締まった。


机は仮置き。運用は未定。共有フォルダの名前すら決まっていない。


それでも案件は来る。拾えば次が見える。線を引けば、部署になる。


澪は営業本部の連絡先を引きながら、ふと総務部のことを思った。今ごろ三浦は戻って、何事もなかったように自分の席で電話を取っているだろう。相沢も、いつも通りの顔で仕事をしているはずだ。


その総務部では、昼前になってから三浦がようやく一息ついていた。


コピー用紙の補充、回覧の差し替え、会議室予約の調整、来客対応。午前中だけで細かい仕事が途切れず、危機管理室に荷物を運んだことすら少し前のことのように思える。


相沢は自席で決裁書類を見ていた。いつもの顔だった。澪が異動した朝だからといって、露骨に機嫌が悪いわけでも、逆に感傷的になるわけでもない。ただ、いつもより無駄口が少ない。


三浦は回覧ファイルを机に置いたついでに、何となく口を開いた。


「危機管理室、見てきました」


相沢は書類から目を上げなかった。


「お前は何しに行った」


「荷物運びです」


「なら荷物だけ置いてこい」


「置いてきましたよ」


「じゃあ報告はいらない」


三浦は少し笑った。


「スパイみたいなことするなって言われそうだなと思ったんですけど」


相沢はそこで初めて顔を上げた。


「思ったならやめろ」


「やっぱり」


「総務は暇じゃない」


「暇じゃないです」


三浦は素直に頷いた。だが、そのまま戻るには相沢の反応が少しだけ早すぎた。気にしていない人間の返しではない。


案の定、数秒後に相沢が書類へ視線を戻したまま言った。


「……で」


「はい」


「部屋はどうだった」


三浦は口元を引き締めた。笑うと怒られそうだった。


「会議室そのままって感じでした。机と電話はありましたけど、配線まだ床這ってました」


「そうか」


「篠宮さん、もう普通に席決めてました」


相沢の手が、書類をめくるところで一瞬だけ止まる。


「高橋は」


「いました。なんか、もう馴染んでる感じでした」


「初日だぞ」


「でもそう見えました」


相沢は小さく鼻で息を吐いた。


「お前、本当に偵察してきたのか」


「荷物運びです」


「二度と言うな」


「はい」


三浦は返事をしたが、相沢がそれ以上何も聞かないので、少しだけ意外に思った。もっと細かく聞くかと思っていたのだ。


だが、回覧ファイルを持って離れかけたところで、相沢がまた呼び止めた。


「三浦」


「はい」


「……篠宮、困ってる感じはあったか」


三浦は振り返った。


相沢はもう書類に目を落としている。声も平坦だった。気にしているようには聞こえないように、わざと整えた声だった。


「困ってるというより、もう仕事してました」


「そうか」


「高橋さんと案件見てるみたいでした」


「初日からか」


「みたいです」


相沢はそれきり黙った。


三浦は今度こそ離れたが、背中越しに、相沢がしばらく同じページをめくっていないのが分かった。


危機管理室では、その頃、営業本部からの折り返しが入っていた。


高橋が受話器を取り、短く要点を確認していく。相手を急かしすぎず、だが曖昧にもさせない話し方だった。営業で揉まれてきた人間の声だと澪は思う。


「はい。ええ、その認識で合っています。いま支店側の返答は止めています。先方への文面は一本化してください。担当者個人の判断では返さない方がいいです」


受話器を置いた高橋が、少しだけ眉を寄せた。


「本部もまだ全体像を把握してないですね」


「支店任せだったんですか」


「たぶん。悪気というより、忙しくて線が切れてた感じです」


「いちばん危ないやつですね」


「ですね」


澪はメモを整理しながら頷いた。


悪意がある案件より、誰も全体を見ていない案件の方が広がりやすい。責任者がいないのではなく、責任の線が細かく分かれすぎて、結果として誰も止められない。総務にいた頃から何度も見てきた形だった。


「受付票、作ります」


澪は自分のノートを見ながら言った。


「仮でいいので、案件番号を振る。受付時刻、起点部署、関連部署、一次判断、対応状況、次アクション。最低限これだけ」


「共有フォルダも作りますか」


「作ります。名前は後で変えればいいので」


「危機管理室案件台帳」


「固いですね」


「おしゃれにする余裕はないでしょう」


「ないですね」


二人とも少しだけ笑った。


その笑いが消えたところで、澪はふと気づいた。


高橋が、さっきから首に触らなくなっている。


痛みが引いたのか、それとも案件の輪郭が見えたからなのか。そこまでは分からない。ただ、引っかかりだけが残る。


「高橋さん」


「はい」


「さっきの、嫌な感じって」


高橋は一瞬だけ視線を上げた。


「何ですか」


「案件のことです」


「そうですよ」


「首じゃなくて」


高橋は少しだけ笑った。


「両方って言ったじゃないですか」


冗談めかした返しだった。だが、それ以上踏み込ませないための軽さにも見えた。


澪は追わなかった。


今はまだ、観察だけでいい。


危機管理室の初日は、静かに始まって、もう静かではいられなくなっていた。


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