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第一話 火種

篠宮澪が総務部のフロアに入った時には、始業前の空気はもう半分ほど動き出していた。


複合機の前で新人が紙を盛大にぶちまけ、来客用会議室の空調が入っていないと受付から内線が入り、給湯室ではコーヒーの補充が切れている。誰かが困っているほどではないが、放っておけば確実に誰かが困る。そういう細かな綻びが、朝の総務部にはよく似合った。


澪は鞄を机に置く前に、まず受付へ折り返した。


「会議室、今入れます。お客様、九時半でしたよね」

『はい、お願いします』

「間に合います」


受話器を置き、そのまま設備管理へ内線を回す。空調の立ち上げを頼み、複合機の前で固まっている新人の横にしゃがみ込んだ。


「大丈夫。拾えば終わるから」

「すみません、篠宮さん」

「謝るのはあと。角、揃えて」


新人が慌てて頷く。澪は散らばった紙を手早く集めながら、視線だけで時計を見た。まだ余裕はある。


「受付表、出した?」

「まだです」

「先に出して。お茶は私がやる」

「はい」


立ち上がって自席へ向かう途中、窓際の島の奥にある机へ目が行く。相沢はもう来ていた。パソコンを開き、紙の資料に目を落としている。少し離れた席の若手が、確認書類を持って声をかけた。


「相沢主任、こちら昨日の分です」

「置いといて」

「押印、先にいただいたほうがいいですか」

「あとで見る」


主任、という呼び方が、まだ時々澪には不思議だった。昇進して数か月。仕事の流れは大きく変わっていないのに、周囲の呼び方だけが少しずつ変わった。けれど本人は相変わらずで、呼ばれたところで顔色ひとつ変えない。


澪は自分の机に鞄を置き、朝一番で確認が必要な書類を二件抜き出して相沢の机に置いた。


「これ、先にお願いします」

「ん」


相沢は書類に目を落としたまま受け取る。澪もそれ以上は言わず、自席に戻って端末を立ち上げた。総務部では、言葉にしなくても回ることが多い。長く一緒にいると、なおさらだった。


九時を回る頃には、朝の小さな綻びは一通り塞がっていた。会議室の空調は戻り、来客対応も終わり、新人もどうにか落ち着いた。澪はようやく一息ついて給湯室へ向かったが、棚を開けたところで小さく息をついた。


コーヒーがない。


昨日のうちに補充されていると思っていたが、箱ごと切れている。今日は買いに行く暇があるかどうかも怪しい。仕方なく水で済ませるつもりで席へ戻ると、机の端に缶コーヒーが一本置かれていた。


顔を上げると、相沢は別の書類を見ている。


「……ありがとうございます」


相沢はペンを動かしたまま言った。


「備品棚の下」

「隠してたんですか」

「切らすと思ったから置いといた」

「それ、隠してたって言うんです」

「そうかもな」


澪は缶を手に取った。まだ少し冷たい。たぶん、さっき自販機で買ってきたのだろう。礼を重ねるほどのことでもない顔をしているのが、相沢らしかった。


午前十時過ぎ、地方拠点の総務担当から電話が入った。


災害備蓄品の棚卸し中に、保存水と非常食の一部で期限切れが見つかったという報告だった。加えて、帳票上の在庫数と現物に差があるらしい。規模としては大きくない。だが、こういうものは小さいうちに揃えておかないと後で面倒になる。


澪は必要事項を順に確認した。


「期限切れは何点ですか」

『保存水が二箱、非常食が一ケースです』

「使用期限は」

『先月末です』

「不足数は」

『まだ精査中ですが、帳票との差分が数点……』

「写真、ありますか」

『あります』

「現物はそのままで。棚全体が分かるものと、期限が見えるもの、両方送ってください。去年の棚卸し記録も一緒に」

『分かりました』


電話を切ると、澪はそのまま相沢の机へ向かった。


「地方拠点の備蓄品で管理不備です。期限切れと帳票差分」

「規模は」

「今のところ小さいです」

「写真は」

「送らせます」

「去年の記録も見よう」

「はい」


相沢は短く答えて端末を開いた。澪も自席に戻り、過去の棚卸し記録を引っ張り出す。災害備蓄品の管理不備は、総務部にとって珍しい案件ではない。担当者が変われば、引き継ぎ漏れや記録の癖で小さなずれは起きる。大事なのは、表に出る前に整えることだ。


昼前には、地方拠点から写真と資料が届いた。


棚の奥に積まれた段ボール、手前に寄せられた期限切れの保存水、手書きで修正された在庫表。見慣れた種類の雑さだった。澪は画像を拡大し、帳票の日付と担当者名を確認する。


「去年の時点で、もうずれてますね」


相沢の机の横に立って画面を見せると、相沢は椅子にもたれたまま目を細めた。


「担当交代の時に拾えてないな」

「たぶん現場で後回しになってます」

「よくある」

「よくありますけど」

「済ませないために今やる」


澪は少しだけ肩の力を抜いた。


「拠点長まで上げますか」

「まだいい。先に全拠点の棚卸し状況を洗う」

「横展開ですね」

「今日中に依頼文、出せるか」

「出します」


各拠点への確認依頼をまとめ、必要最低限の共有先だけを選ぶ。広報や法務に回すほどではない。社内で静かに処理して終える。いつもの流れだった。


そのはずだった。


午後一時四十分過ぎ、三浦が早足で総務部へ入ってきた。普段はどちらかといえば飄々としている男が、珍しく表情を固くしている。


「篠宮さん、ちょっと」

「どうしました」

「これ、見てください」


差し出されたスマートフォンの画面には、匿名アカウントの投稿が表示されていた。


社員の命を守る備蓄すら管理できない会社。

期限切れの水、足りない非常食、形だけの防災対策。


文面の下には、見覚えのある写真が添付されていた。地方拠点からさっき送られてきたものと同じ棚、同じ段ボール、同じ在庫表の一部。切り取り方だけが違う。


澪の喉がひやりと冷えた。


「いつ上がったんですか」

「十分くらい前です。もう転載が回り始めてる」

「元データ、社内からですね」

「たぶん」


澪はスマートフォンを受け取ったまま相沢を見た。相沢はもう立ち上がっていた。


「会議室」

「はい」


小会議室に入ると、三浦が拡散状況を確認し、澪はメール履歴を開いた。相沢は扉を閉めてから、短く言った。


「写真の送信先、洗う」

「はい」

「投稿文面、現場を知ってる書き方です」と三浦が言う。

「外から拾った感じじゃないな」と相沢。

「共有範囲、出します」

「広報は待機だけ。先にログ保全」

「情報システムに回します」


澪は受信時刻、転送履歴、閲覧権限を確認した。まだ限られた範囲にしか出していない。にもかかわらず、投稿は早すぎた。


「先回りされてる……」


思わず漏れた声に、相沢が視線を上げた。否定もしない。その顔で、澪には十分だった。


問題は、備蓄品の期限切れそのものではない。そんなものは是正すれば済む。だが、把握したばかりの情報が、是正より先に外へ出た。しかも、会社の姿勢を問う文脈に乗せられて。


火種ではなく、火のつけ方を知っている誰かがいる。


午後は、ほとんど息をつく暇がなかった。


各拠点への緊急確認依頼。広報との文言調整。情報システムへのログ保全依頼。地方拠点への追加ヒアリング。社内掲示板の監視。役員秘書室からの問い合わせ対応。澪は電話を切るたびに次の電話を取り、メールを送りながら別のチャットに返答した。


その合間にも、投稿は伸びていく。


防災意識が低い。

社員を守れない会社。

内部告発ありがとう。


言葉は簡単に膨らむ。事実より早く、感情のほうが広がっていく。


夕方近く、役員秘書室から内線が入った。


「篠宮さん、矢吹常務がお呼びです」


澪は一瞬だけ手を止めた。相沢を見ると、相沢は書類から目を上げて「行ってこい」と言った。


役員フロアは、総務部のある階とは空気が違う。秘書に案内されて入った部屋で、矢吹常務は窓際に立っていた。振り返った顔には、疲れも苛立ちも見えない。静かすぎて、かえって身構える。


「急に呼んで悪いね、篠宮さん」

「いえ」

「座って」


勧められるまま腰を下ろすと、矢吹常務は向かいではなく斜め前の席に座った。


「状況は聞いてる」

「はい」

「総務はよくやってくれてる。相沢くんも、頑張ってるね」

「……はい」


その言い方に、澪は少しだけ息をついた。評価というより、見ていた人の言葉だった。


「今回の件も、現場が怠けていたとは思っていない」

「はい」

「ただ、現場に預けすぎている」


澪は顔を上げた。


矢吹常務の声は穏やかだった。責める調子ではない。だからこそ、言葉がそのまま入ってくる。


「総務が拾える火種には限界がある。起きたことに対処するだけじゃ、もう追いつかない」

「……」

「火がつく前の空気を読む場所がいる。部署をまたいで見て、先に動ける場所が」


反発はあった。総務部はずっとやってきた。誰も見ていないところで、面倒なことを拾い、整え、表に出さずに済ませてきた。その積み重ねを軽く扱われたくはない。


けれど同時に、今日一日の遅れが頭から離れなかった。


把握した。確認した。整えようとした。

その全部より先に、外へ出た。


「君たちは持ちこたえてきたよ」

矢吹常務は静かに言った。

「でも、それだけじゃ守れないものが増えてる」


澪はすぐには答えられなかった。


守りたいものなら、ある。守ってきた場所もある。相沢のいる総務部は、その中心だった。けれど、守れていないものが増えているのも事実だった。


「……同じやり方では、間に合わないことがあると思います」

ようやくそう言うと、矢吹常務は小さく頷いた。


「近いうちに、動くよ」


それだけ言って、話は終わった。


総務部へ戻ると、慌ただしさはまだ続いていた。三浦が広報と電話をつなぎ、若手が各拠点から上がってきた確認票を整理している。相沢は席に座ったまま、画面と紙資料を交互に見ていた。


澪が近づくと、相沢は「どうだった」とだけ聞いた。


「状況確認です」

「それだけか」

「……それだけです」


相沢は一瞬だけ澪を見た。たぶん、それだけではないと分かっている。けれど追及しないのも相沢だった。


「拠点の差分、ほぼ出ました」と澪は話を戻した。「大きい不足はありません。期限切れも限定的です」

「公表文は」

「広報が案を作成中です。“一部拠点で管理不備が判明、全拠点で再点検を実施”の線で」

「妥当だな」

「はい」


少し間が空いた。


澪は自分の机に戻ろうとして、結局その場に立ち止まった。


「相沢さん」

「ん」

「総務だけじゃ足りないって言われたら、どうしますか」


相沢の手が止まった。


数秒黙ってから、相沢はペンを置いた。


「足りないところは足す」

「簡単に言いますね」

「難しく言っても同じだ」

「でも、その先が今いる場所じゃなかったら」

「……篠宮」


低い声で名前を呼ばれて、澪は息を止めた。


「まだ決まってないことを先に考えるな」

「決まるんですか」

「知らない」

「知らない、で済ませますか」

「済ませてるわけじゃない」


そこでまた、沈黙が落ちた。


怒っているわけではない。困っているのだと、澪には分かった。相沢は感情を言葉にするのが得意ではない。だから、言えないことがある時ほど、言葉が少なくなる。


「今日はもう上がれ」

「まだ残ります」

「顔が疲れてる」

「相沢さんもです」

「俺はいい」

「よくないです」


思わず返すと、相沢はほんの少しだけ口元を緩めた。


「じゃあ、缶コーヒー一本分だけ休め」

「短いですね」

「十分だろ」

「足りません」

「贅沢言うな」


そのやり取りだけで、澪は少しだけ呼吸を取り戻した。


夜には、投稿の勢いもようやく鈍り始めた。広報の一次コメントが出て、全拠点再点検の方針も社内共有された。完全な鎮火ではないが、少なくとも今日の最悪は越えたと言っていい。


退社したのは、日付が変わる少し前だった。


翌朝、澪が出社すると、総務部の空気は妙に静かだった。誰もが画面を見ている。キーボードの音まで遠慮がちだ。


「どうしたの」


近くの席の若手に聞くと、相手は言いにくそうに端末を少し回した。


全社メール。

件名は簡潔だった。


組織改編および新組織設立について


澪は立ったまま本文を読んだ。


リスク対応強化のため、全社横断組織として危機管理室を新設する。

室長は矢吹常務が兼任する。


そこまでは、まだ文字として読めた。


次の行で、視界が止まる。


篠宮澪を危機管理室へ異動とする。


一瞬、何も聞こえなくなった。


誰かが小さく息を呑む音。遠くで鳴る内線。コピー機の起動音。全部が薄い膜の向こうにあるみたいだった。


澪はゆっくり顔を上げた。


相沢の席が見える。相沢はもうメールを開いていた。表情は変わらない。けれど、その変わらなさが、かえって遠かった。


澪は何か言おうとして、言葉を失った。

相沢も何も言わない。


その沈黙が、辞令そのものより深く、澪の胸に落ちた。


守る場所が変わる。

その意味を、まだうまく受け止めきれないまま、澪はただ画面の自分の名前を見つめていた。


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