第十四話 波紋
午前の対応がひと区切りついたのは、昼を少し回ってからだった。
澪はようやく手を止め、画面の端に表示された時刻を見た。問い合わせの返信、差分一覧の修正、説明会後の質問整理。朝から同じ画面を見続けていたせいで、目の奥が鈍く重い。肩を回すと、首筋に張りが残っていた。
危機管理室の中は、昼休みに入っても完全には静かにならない。誰かが席で簡単に食事を取り、誰かが電話を受け、誰かが短い打ち合わせを続けている。案件が長引くと、休憩の取り方まで曖昧になる。
澪はマグカップに残っていた冷めたお茶を飲み干し、もう一度受信トレイを開いた。
そのとき、資料の束を抱えた三浦が、少し遠慮がちに席の横へ来た。
「篠宮さん、これ……確認お願いしてもいいですか」
「はい」
受け取ったファイルは、各拠点から上がってきた追加質問の一覧だった。付箋が何枚も貼られていて、差し込み修正が必要な箇所が一目で分かる。澪はざっと目を通し、必要そうなページを頭の中で振り分けた。
「急ぎますか」
「できれば今日中に……」
「分かりました」
三浦は「お願いします」と小さく頭を下げた。けれど、そのまま戻らない。何か言いかけてはやめるように、指先で資料の端を整えている。
澪は顔を上げた。
「どうしました」
「……あの」
「はい」
「ちょっと、相談みたいなことなんですけど」
声が少しだけ低い。澪は手元のキーボードから指を離した。
「何ですか」
「柿谷さんって、常務の姪だって聞いたこと、ありますか」
澪は一瞬、言葉の意味を取り損ねた。
「……姪?」
「すみません。私も人づてに聞いただけで、ほんとかどうか分からないんですけど」
三浦はそう言ってから、困ったように眉を寄せた。
「前に総務の人がそんなことを言っていて。今まで気にしてなかったんですけど……」
「今になって気になった?」
「はい」
三浦は小さく頷いた。
「私、今、柿谷さんの指導についてるじゃないですか」
「ええ」
「だから、もし本当だったら、どう受け止めればいいのかなって。今まで通りでいいのか、変に気にしないほうがいいのか、その……」
言葉を探しながら話す様子に、噂を面白がっている気配はなかった。むしろ逆で、知ってしまったことを持て余しているように見える。
澪はすぐには答えなかった。
柿谷が常務の姪。
それが事実だとしても、今この場で何かが変わるわけではない。そう思う一方で、昨日の夕方に見た光景が、ほとんどそのままの形で頭に浮かんだ。
エレベーターホールの前。
藤崎真弓と柿谷小夜が、落ち着いた声で短く言葉を交わしていた。
「本当かどうか分からない話で、対応を変える必要はありません」
澪は静かに言った。
「指導役として見るべきところは、変わらないはずです」
「……ですよね」
「ええ」
「すみません。変なこと聞いて」
三浦は少しだけほっとしたように息をついた。けれど、表情の曇りは完全には消えない。
「ただ、もし周りが知ったら、変に気を遣う人は出るかもしれません」
「そうですね」
「だからこそ、今は噂として扱ってください」
「はい」
三浦は小さく頷き、もう一度頭を下げた。
「資料、よろしくお願いします」
「分かりました」
三浦が離れていったあとも、澪はしばらく手元の紙を見つめたまま動かなかった。
噂だけで人を結びつけるのは危うい。
そんなことは分かっている。分かっているのに、昨日見た二人の姿が頭から離れない。藤崎は常務付きの秘書で、柿谷がもし本当に常務の姪なら、そこに線を引きたくなる人間は出てくる。
そして一度引かれた線は、事実かどうかに関係なく、勝手に太くなる。
澪は小さく息を吐き、資料の確認に戻った。目の前の作業を止める理由にはならない。そう自分に言い聞かせるように、付箋のついたページを一枚ずつめくっていく。
午後の後半、問い合わせ対応が一段落したところで、高橋が返信文面の最終確認を終えて席を立ちかけた。澪はその背中に声をかける。
「高橋さん」
「はい」
「少し、いいですか」
「大丈夫です」
高橋は椅子を引き戻した。澪は周囲に人がいないのを確かめてから、声を落とす。
「さっき、三浦さんから聞いたんですが」
「何をですか」
「柿谷さんが、常務の姪だという話です」
「……姪」
高橋の表情から、わずかに軽さが引いた。
「噂レベルです。本人から聞いたわけでもないそうですが、三浦さんは今、柿谷さんの指導についているので、もし本当ならどう受け止めればいいのか分からない、と」
「それは、困りますね」
「ええ」
澪は一度言葉を切った。
「それと、昨日」
「はい」
「帰る前に、藤崎さんと柿谷さんが話しているのを見ました」
高橋はすぐには返事をしなかった。首の後ろに手をやったまま、少しだけ視線を落とす。
「……そうですか」
「ええ」
「それは、ちょっと嫌ですね」
「私もそう思いました」
高橋は短く息をついた。
「つながるように見えますね」
「見えるだけかもしれません」
「そうですね。そうなんですけど」
そこで高橋は顔を上げた。
「今の状況でその並びを聞くと、常務のところまで線を引きたくなる人は出ると思います」
「……ええ」
「むしろ、引かないほうが難しいです」
澪は返事をしなかった。
噂と、目撃した事実。
それだけで線を引くのは危うい。分かっているのに、その線はあまりにも引きやすかった。
「相沢さんには」
高橋が言う。
「伝えます」
「お願いします」
高橋はそれ以上は言わなかった。ただ、いつもの軽さを少し引っ込めたまま、自分の席へ戻っていった。
夕方、相沢が外線対応を終えて席に戻ったところを見計らって、澪は声をかけた。
「相沢さん、少しよろしいですか」
「何だ」
相沢は椅子に座ったまま顔を上げた。澪は必要なことだけを順に伝える。
「三浦さんから、柿谷さんが常務の姪だという噂を聞きました」
「噂だな」
「はい。本人から確認した話ではありません」
「それで」
「昨日、帰る前に、藤崎さんと柿谷さんが話しているのを見ました」
相沢は黙って澪を見た。
「それだけか」
「はい」
「高橋は知っているか」
「共有しました」
「そうか」
相沢は机の上で指を組み、そのまま数秒だけ視線を落とした。考えているときの、癖のない沈黙だった。
「見える線に飛びつくな」
低い声で言う。
「引きやすい線ほど、誰かが引かせている可能性がある」
「……はい」
「親族関係が事実でも、それだけで関与は証明できない。藤崎との接点も同じだ。単体では材料にならない」
「はい」
「ただし、捨てるな」
「え」
「噂は噂として切り分けろ。お前が見たことは事実として残せ。混ぜるな」
澪は小さく息を呑んだ。
「分かりました」
「今はそれでいい」
「はい」
相沢はそこで一度言葉を切り、澪の顔をまっすぐ見た。
「飲まれるな」
「……はい」
「空気は勝手に線を太くする。お前までそれに乗るな」
「分かっています」
「ならいい」
相沢の声はいつも通り淡々としていた。けれど、その言い方には、単なる注意以上のものがあった。澪は短く頭を下げて席を離れる。
戻る途中、窓の外はもう薄く暗くなり始めていた。夕方の光は弱く、ガラスに映る室内の白さばかりが目につく。
席に戻ると、高橋が視線だけを寄越した。
「どうでした」
「噂は噂、事実は事実で分けろと」
「相沢さんらしいですね」
「ええ」
「でも、捨てるなとも言われたんじゃないですか」
「……そうです」
「ですよね」
高橋はそれだけ言って、また画面に向き直った。
その言葉が、妙に残った。
捨てるな。
混ぜるな。
飲まれるな。
どれも正しい。正しいからこそ、難しい。人は意味のありそうなものを並べられると、そこに線を引きたくなる。しかも今は、案件そのものが揺れている。旧版資料の残存、説明不足への不信、匿名投稿。空気はすでに、何か大きな意図を探したがっていた。
そのとき、社内チャットの通知が上がった。別拠点から、追加の問い合わせが二件。どちらも差し替え対象の解釈に関するものだった。澪は画面を開き、必要な返答を組み立てる。指は動くのに、頭のどこかでは別のことを考えている。
もし誰かが意図して線を引いているのだとしたら。
もし誰かが、疑いの向きを少しずつ誘導しているのだとしたら。
そこまで考えて、澪は手を止めた。
昨日見た匿名投稿の一文が、不意に頭をよぎる。
“中で見てると雑さが分かる”
あの“中”は、どこを指しているのか。
現場か、本社か、それとももっと別の場所か。
定時を過ぎるころには、危機管理室の空気は朝とは違う重さを帯びていた。誰も大きな声を出しているわけではない。けれど、会話の切れ目やキーボードを打つ音の間に、言葉にならない緊張が混じっている。
澪は最後の返信を送信し、肩を回した。首筋が重い。
視界の端で、三浦が柿谷に何か説明しているのが見えた。柿谷は真面目な顔で頷き、手元のメモに何かを書き込んでいる。それだけ見れば、ただの指導風景だった。いつもと変わらない、職場の一場面にしか見えない。
なのに、澪は目を逸らすまでに少し時間がかかった。
見える線に飛びつくな。
相沢の言葉を、頭の中で繰り返す。
それでも一度見えてしまった線は、簡単には消えない。
藤崎真弓。
柿谷小夜。
その先にいる常務。
そして、匿名投稿。
並べるだけで、意味がありそうに見えてしまう。
その“見えてしまう”こと自体が、もう危うい。
澪はパソコンを閉じる前に、保存していた投稿画面をもう一度だけ開いた。
“結局、現場に説明しきれてないのに収束したことにしたいだけでは”
“差し替えたから終わり、では済まない話”
“中で見てると雑さが分かる”
短い文が並んでいる。
断定はしていない。けれど、読む側に線を引かせるには十分だった。
画面を閉じる。暗くなったモニターに、自分の顔がぼんやり映る。
何も決定的なことは起きていない。
それでも、空気は確かに変わっていた。
誰かが火をつけたのか。
それとも、消えたように見えていた火種が、別の場所でくすぶっていただけなのか。
まだ分からない。
ただひとつ分かるのは、見える線ほど危ういということだった。
そして今、危機管理室の中には、その線があまりにも多すぎた。




