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第十三話 錯綜

 朝から、同じ種類の問い合わせが続いていた。


 澪は受信トレイを開いたまま、件名の並びを上から順に追っていく。備蓄品差し替え対象の確認、旧版資料の扱い、説明会後の補足、確認フォームの設問について。ひとつひとつは大きな事故ではない。けれど、似た内容が短時間に重なると、それだけで嫌な予感が形になる。


 いったん落ち着いたはずの案件だった。


 期限切れ備蓄品の差し替えは進み、説明会も終え、各部署への周知も済ませた。完全に終息したわけではないにしても、少なくとも危機管理室の中では、山は越えたという空気があった。


 そのはずなのに、今朝になってまた、同じ場所から煙が上がり始めている。


「篠宮さん」


 背後から声がして、澪は振り返る。高橋が紙コップのコーヒーを片手に立っていた。寝不足なのか目元に薄い影がある。空いたほうの手で、首の後ろを押さえていた。


「おはようございます」

「おはようございます。朝から問い合わせ、多いですか」

「多いです」

「やっぱり」


 高橋はそう言って、首の後ろを軽くさすった。


「旧版、残ってたんだ……」


 小さく漏れた声に、自分で眉を寄せる。開いていたメールは地方拠点の総務担当からのものだった。先月配布した修正版ではなく、その前の版を参照して現場に説明してしまったらしい。対象範囲の表現が微妙に違う。意味としては大きく外れていないが、読む側によって受け取り方がずれる書き方だった。


 そのずれが、今になって問い合わせとして返ってきている。


 澪は共有フォルダの更新履歴を開き、どの時点で文言が変わったのかを確認した。修正自体は正しい。問題は、その修正版がすべての部署に同じ温度で届いていないことだった。


「見ます?」

 澪が画面を少しずらすと、高橋は隣に寄ってきてモニターを覗き込んだ。数秒黙ってスクロールを追い、それから小さく息をつく。


「ああ、これですか。旧版残り」

「一か所じゃないです」

「ですよね。たぶん他にもあります」

「……そう思います」

「説明会やったからって、全部きれいに揃うわけないですし」


 軽い口調なのに、言っていることは現実的だった。澪は返事の代わりに別のメールを開く。こちらは本社内の別部署からで、確認フォームの設問と説明会資料の表現が一致していない、という指摘だった。これも完全な誤りではない。ただ、読む人によっては「どちらが正式なのか」と迷う程度には揺れている。


「嫌なやつですね」

「ええ」

「派手に燃えないぶん、長引くやつです」

「そうならないようにしないと」

「もうなりかけてる気はしますけど」


 高橋はそう言って紙コップをデスクの端に置いた。冗談めいた口調のままなのに、視線だけは画面の文字をきちんと追っている。


 澪は今朝届いた問い合わせを分類し始めた。旧版資料の残存、説明内容の認識差、差し替え対象の確認、フォーム回答の補足依頼。大きく分ければ四つ。どれも根は同じだ。情報が一度で揃いきらず、現場ごとに少しずつ違う形で残っている。


 それを、今からもう一度ならし直さなければならない。


「相沢さん、もう来てます?」

「来ています。会議室で電話中です」

「終わったら共有したいですね」

「そうします」

「捕まえますか」

「その言い方やめてください」

「すみません」


 高橋は笑った。澪は笑わなかったが、少しだけ肩の力が抜けた。


 そのとき、社内チャットの通知が上がった。別拠点の担当者から、説明会後に現場で出た質問をまとめたファイルが送られてくる。開いてみると、すでに対応済みのはずの内容がいくつも混じっていた。説明が届いていないのか、届いていても納得されていないのか、その両方か。


 澪はファイルを閉じ、目頭を押さえた。


「大丈夫ですか」

「大丈夫です」

「今の間で言われても説得力ないですけど」

「大丈夫です」


 言い切ると、高橋はそれ以上は言わなかった。ただ、首の後ろに一度だけ手をやってから、自分の席へ戻っていった。


 午前のうちに、相沢を交えて短い打ち合わせが入った。


 会議室のドアを閉めると、相沢は席につく前に「状況だけ先に」と言った。澪は手元のメモを開き、今朝からの問い合わせの傾向を簡潔に説明した。旧版資料の残存、説明会資料との表現差、確認フォームとの整合性、現場での認識ずれ。話しながら、自分の声が少し硬いのが分かる。


 相沢は途中で口を挟まず、最後まで聞いてから資料に目を落とした。


「件数は」

「今朝だけで十一件です。まだ増えると思います」

「偏りは」

「拠点側が多いですが、本社内もあります」

「旧版の残存経路は追えるか」

「配布履歴は追えます。ただ、現場でローカル保存されているものまでは難しいです」

「分かった」


 相沢は短く頷いた。表情はいつもと変わらない。けれど、机の上で組んだ指先にわずかな力が入っているのを、澪は見た。


「正式版を一本化する。旧版との差分が分かる形にしてくれ。返答文面も揃える」

「はい」

「説明会後の質問一覧は」

「今、整理中です」

「優先順位をつけろ。判断が割れやすいものから先でいい」

「分かりました」


 そこで高橋が、椅子の背にもたれたまま口を開いた。


「あと、ちょっと空気悪いです」

「どういう意味だ」

「現場の、です。単に分かりにくいっていうより、またか、みたいな感じがあります」

「またか」

「一回説明したのに、結局揃ってないじゃないかっていう」


 相沢は高橋を見た。高橋は肩をすくめる。


「怒ってるってほどじゃないです。でも、面倒くささが不信に変わる手前、みたいな」

「……分かった」


 相沢の返答は淡々としていたが、その一拍の間に、澪は小さな緊張を感じた。案件が再燃しているだけではない。再燃の仕方がよくないのだ。処理の遅れや説明不足が、感情のほうに触れ始めている。


「今日中に整理案を出します」

 澪が言うと、相沢は「頼む」とだけ返した。


 打ち合わせが終わり、会議室を出る。廊下の窓際に立つと、外は薄曇りだった。晴れているわけでも、雨が降るわけでもない、中途半端な色の空。澪は一度だけ深く息を吸ってから、危機管理室へ戻った。


 午後は、問い合わせ対応と資料修正でほとんど埋まった。


 正式版の文面を整え、旧版との差分を一覧にし、説明会資料との表現を揃える。単純作業に見えて、実際は神経を使う。言い回しを少し変えるだけで、責任の所在や対象範囲の印象が変わる。曖昧すぎれば逃げに見え、強すぎれば余計な反発を招く。


 澪は画面上の一文を何度も見直し、結局最初の表現に戻した。


 そのとき、向かいの席でスマートフォンを見ていた高橋が、ふと「あ」と声を漏らした。


「どうしました」

「いや……」

「何ですか」

「大したことじゃないです」

「高橋さん」

「ほんとに。大したことじゃないっていうか、まだ」


 その“まだ”が気になって、澪は手を止めた。高橋は少し迷ったあと、スマートフォンを持ったまま椅子ごと近づいてくる。


「こういうの、見ます?」

「内容によります」

「ですよね」


 差し出された画面には、匿名アカウントの短い投稿が表示されていた。会社名も部署名も出ていない。けれど、読めば分かる人には分かる程度のぼかし方で、備蓄品の差し替え対応を匂わせている。


 “結局、現場に説明しきれてないのに収束したことにしたいだけでは”

 “差し替えたから終わり、では済まない話”

 “中で見てると雑さが分かる”


 短い文が三つ、時間を空けて並んでいた。


 澪は画面を見たまま、何も言わなかった。


「たまたま流れてきただけです」と高橋が言う。

「……前にも、こういうのありましたよね」

「ありました」

「同じ人かは分かりません」

「分かりませんけど」


 高橋はそこで言葉を切った。軽く言うべきか迷っている顔だった。


「前の人と、同じ匂いがします」


 澪はもう一度、投稿文を見た。


 言葉そのものは珍しくない。どこにでもある批判の書き方だ。けれど、“収束したことにしたい”という言い回しが、妙に引っかかった。社内で、似たような表現を聞いた気がする。どこでだったか、すぐには思い出せない。ただ、完全に外から眺めている人の言葉ではない気がした。


「保存しておいてください」

「もうしてます」

「相沢さんには」

「まだです」

「私から言います」

「お願いします」


 高橋は画面を引っ込めたが、その表情から軽さは少し消えていた。


 澪は自分の席に戻り、開いたままだった文書ファイルを見下ろした。カーソルが点滅している。さっきまで整えていた一文が、急に薄く見えた。こちらがどれだけ言葉を揃えても、別の場所で別の意図に切り取られる。しかも、その“別の場所”が、完全な外ではないかもしれない。


 そう思った瞬間、背中のあたりが冷えた。


 夕方、修正版の整理案を持って相沢の席へ向かうと、彼はちょうど電話を切ったところだった。澪が声をかける前に、相沢のほうが顔を上げる。


「何だ」

「整理案です。それと、確認いただきたいものが」

「今でいい」


 澪は資料を差し出し、必要な点だけを先に説明した。旧版との差分一覧、正式版の一本化、問い合わせ返答文面の統一。相沢は目を通しながら、要点だけを短く確認していく。


「これでいい。進めてくれ」

「はい」


 そこで澪は一瞬迷い、それから続けた。


「あと、SNS上で関連を匂わせる投稿が出ています」

 相沢の視線が止まる。

「内容は」

「会社名は出ていません。ただ、備蓄差し替え対応を知っているような書き方です」

「件数は」

「今のところ数件です。高橋さんが見つけました」

「保存は」

「しています」

「後で回してくれ」


 相沢の声は変わらなかった。けれど、資料から顔を上げたときの目だけが、少しだけ鋭くなっていた。


「前回と似ているか」

「断定はできません。ただ……」

「何だ」

「似た匂いがする、と」


 相沢は数秒黙った。考えているときの、癖のない沈黙だった。


「分かった。まず投稿内容を確認する。現時点では反応しない。問い合わせ対応を優先しろ。外はこっちで見る」

「……分かりました」


 席を離れようとしたとき、呼び止められた。


「無理はするな」

「していません」

「そうか」


 即答したのに、相沢はそれ以上何も言わなかった。その沈黙が少しだけ痛かった。


 危機管理室に戻る途中、エレベーターホールの前で、澪は足を少しだけ緩めた。


 柿谷と藤崎真弓が立ち話をしていた。


 常務付きの秘書である藤崎はタブレット端末を片手に、柿谷は低い声で何かを説明しているようだった。藤崎は相手の言葉を遮らずに聞き、短く一言返す。そのやり取りは落ち着いていて、外から見ればただの業務連絡にしか見えない。


 けれど、澪はなぜか視線を外しそびれた。


「――ですので、先に確認だけ」

 柿谷の声が、すれ違いざまにわずかに届く。

「分かりました。では、その形で」

 藤崎が静かに答える。


 そこで二人がこちらに気づいた。澪は会釈だけして通り過ぎる。藤崎も穏やかに会釈を返し、柿谷は軽く顎を引いた。


「お疲れさまです」

「お疲れさまです」


 それだけだった。


 それだけなのに、すれ違ったあとで、澪はなぜか少しだけ息を詰めた。理由は分からない。二人の会話に不自然なところがあったわけではない。むしろ、整いすぎていた。余計なものが何もなく、聞かれて困ることなど最初から含まれていないような話し方だった。


 だからこそ、引っかかったのかもしれない。


 危機管理室に戻ると、高橋が自席でキーボードを叩いていた。澪が席につくと、視線だけを寄越す。


「言いました?」

「言いました」

「どうでした」

「確認するそうです」

「ですよね」


 高橋はそれ以上聞かなかった。澪も説明しなかった。


 定時を少し過ぎたころ、窓の外はもう暗くなっていた。危機管理室の照明だけが白く、机の上の紙と画面を均一に照らしている。澪は最後の返信文を送信し、肩を回した。首筋が重い。


 案件は終わっていない。むしろ、終わりかけたところから、別の形で絡まり始めている。


 旧版資料、認識ずれ、現場の不信。そこに、また外側の声が重なる。しかもその声は、ただ外から石を投げているだけではない気がした。中を知っている誰かが、火の残り方を見て、もう一度息を吹きかけているような。


 澪はパソコンを閉じる前に、保存された投稿の画面をもう一度だけ開いた。


 “中で見てると雑さが分かる”


 短い一文だった。


 その“中”がどこを指すのか、まだ分からない。けれど、完全に外ではない。そのことだけが、妙にはっきりしていた。


 画面を閉じる。暗くなったモニターに、自分の顔がぼんやり映る。疲れている、と澪は思った。思っただけで、口には出さなかった。


 危機管理室のどこかで、コピー機の作動音が短く鳴る。誰かの椅子が引かれる音。遠くで電話が一度だけ鳴って、すぐに切れた。


 何も決定的なことは起きていない。


 それでも、空気は確かに変わっていた。

 見えないものが、少しずつ近づいてきている。


 その気配だけが、静かに、危機管理室の隅々まで広がっていた。


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