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第十二話 余白

翌朝、澪は少しだけ早く出勤した。


昨夜のうちに首の痛みは多少ましになったものの、完全には引いていない。

湿布を貼るほどではない、と自分に言い聞かせて、そのまま家を出た。

実際、仕事はできる。

できるうちは問題ない。

そういう線引きでここまでやってきた。


危機管理室はまだ静かだった。

照明の白さだけが先に目に入る。

澪は席に着くと、PCを立ち上げ、昨日の会議で出た修正点を整理し始めた。


確認事項は多くない。

補足資料の文言を少し直して、共有先を確認して、午前中のうちに流せば終わる。

そのあとには別件の打ち合わせも入っていた。

今日も考える暇はないはずだった。


「早いですね」


声がして、澪は顔を上げた。

高橋だった。

片手にコンビニのコーヒーを持っている。


「高橋さんも」

「私はいつもこれくらいです」

「初耳です」

「言ってませんでしたっけ」

「たぶん」

「じゃあ今日初公開です」

「大げさですね」


高橋は自席に荷物を置いてから、澪の机の横を通り過ぎるときにちらりと画面を見た。


「もう昨日の続きやってるんですか」

「残したくないので」

「えらい」

「棒読みですね」

「尊敬はしてますよ、一応」

「一応が余計です」

「でも今日は昨日より顔ましです」

「朝一番で言うことですか」

「大事な観察結果なので」


澪は呆れたように息をついた。

けれど、昨日ほど身構えはしなかった。

高橋のこういう言い方には、もう少し慣れてしまっている。


「首は」

「挨拶みたいに聞かないでください」

「気になるので」

「雑に言いましたね」

「雑なくらいがちょうどいいんですよ」

「それ便利ですね」

「便利です」


高橋は満足そうにうなずいて、自分の席へ戻っていった。


澪は画面に向き直る。

昨日の会議で出た修正点を反映し、補足資料の文言を整える。

数行直して、共有先を確認して、送信予約まで済ませる。

思っていたより早く片づいた。


ひとつ終わると、少しだけ気が抜ける。

その隙間に、余計なことが入り込んでくる。


昨日の会議の終わり際。

相沢の声。

資料を見たまま向けられた視線。

たったそれだけのことを、まだ引きずっている自分がいる。


澪は小さく息を吐いて、次のメールを開いた。

別件の確認依頼に目を通し、必要な箇所だけ返信する。

手を動かしていれば、考えずに済む。

そう思っていたのに、今日は妙に意識が散る。


午前の半ば、内線が鳴った。


「篠宮さん、相沢さんから」


近くの席の職員に呼ばれて、澪は受話器を取る。


「はい、篠宮です」

『今、少しいいか』


相沢の声だった。

低くて、いつも通り落ち着いている。


「はい」

『昨日の補足資料、修正版を見た。二点だけ確認したい』

「分かりました」

『急ぎではない。手が空いたら来てくれればいい』

「……はい」


通話はそれだけで終わった。

短い業務連絡だった。

それなのに、受話器を置いたあとも指先に少しだけ力が入らない。


「呼び出しですか」


いつの間にか高橋がこちらを見ていた。


「確認事項があるそうです」

「へえ」

「何ですか」

「別に」

「その“別に”は絶対何かあるやつです」

「気のせいじゃないですか」

「高橋さんが言うと信用できません」

「それはそう」


軽口で終わる。

終わるはずなのに、高橋は少しだけ目を細めた。


「行くなら今のうちじゃないですか」

「そうですね」

「戻ってきたらコーヒーくらいならおごりますよ」

「急にどうしたんですか」

「親切心です」

「似合いませんね」

「ひどいなあ」


澪は立ち上がり、必要なメモだけ持って席を離れた。


相沢の席のある一角は、朝の危機管理室より少しだけ空気が固い。

澪は一度だけ呼吸を整えてから声をかけた。


「失礼します」

「ああ」


相沢は手元の資料から顔を上げた。

表情に特別なものはない。

いつも通りの、読み取りにくい顔だった。


「昨日の補足資料ですが」

「ここの文言だけ、少し曖昧に見える」


示された箇所をのぞき込み、澪はすぐにうなずいた。


「失礼しました。修正します」

「それと、共有先はこの範囲で問題ないか、念のため確認しておいてほしい」

「分かりました」


話はそれで終わるはずだった。

実際、内容としては数分で済む程度の確認だった。


「篠宮」


顔を上げると、相沢がこちらを見ていた。


「はい」


一拍の間があった。


「昨日よりは顔色がましだな」


澪は一瞬、言葉を失った。


あまりに自然な言い方だった。

気遣いとも、踏み込みとも断定しにくい。

ただ事実を確認するみたいな口調で、それでも確かにこちらを見ていた。


「……そうですか」

「ああ」

「自覚はあまり」

「ならいい」


それだけ言って、相沢は視線を資料へ戻した。

会話は切れた。

続けるつもりはないらしい。


澪はその場に一秒だけ立ち尽くしてから、軽く頭を下げた。


「修正版、確認後に回します」

「頼む」


席へ戻る途中、自分の歩幅が少しだけ乱れていることに気づく。


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