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第十一話 気配

やることはいくらでもあった。

忙しさは、考えないためにちょうどよかった。


週明けの朝から、澪は休みなく手を動かしていた。

先週の説明会を受けて修正が入った確認フォームは、午前のうちにどうにか形にした。

文言を整え、必要な注記を入れ、確認用のデータを関係者に送る。

送信を終えたところで、ようやくひとつ片づいた、と思う。


けれど、息をつく間もなく次が来る。

今度は現場共有用の補足資料だった。

会議で出た指摘を反映して、順番を入れ替え、表現を少し削る。

単純な作業のはずなのに、今日は妙に集中が続かない。


考えなくて済むのは助かった。

保留にしたものを、わざわざ掘り返さずに済む。

矢吹との面談のことも、相沢の言葉も、あのとき自分の中に残った熱も、忙しさの中に押し込めていられる。


そう思っていたのに、首の奥の鈍い痛みだけは、朝からずっと消えなかった。


「まだそれやってるんですか」


斜め向かいから高橋が言った。


「まだ、とは」

「さっきから全然進んでないので」

「考えてるんです」

「考えてる顔には見えませんけど」

「失礼ですね」

「じゃあ、悩んでる顔」

「もっと嫌です」


高橋が小さく笑う気配がした。


「昼は」

「まだです」

「でしょうね」

「何ですか、その“やっぱり”みたいな反応」

「いや、篠宮さん、そういうとき後回しにするので」

「高橋さんに言われたくないです」

「私は雑に頑丈なんで」

「便利な自己評価ですね」

「おすすめですよ」


澪はそこでようやく顔を上げた。

高橋はいつもの調子で、特に深刻そうな顔もしていない。


その気安さに少しだけ気が緩んで、澪は首の後ろに手をやった。


「……痛いんですか」


言い方があまりに自然で、一瞬ごまかし損ねる。


「別に」

「別に、で押し切るには今ちょっと間がありましたけど」

「見すぎでは」

「暇じゃないんですけどねえ」

「じゃあ見ないでください」

「それは無理です」


さらっと返されて、澪は眉を寄せた。


「何でですか」

「何ででしょうね」


高橋は笑ったまま、それ以上は言わなかった。

踏み込む気がないのか、踏み込みすぎないようにしているのか、そのへんがよく分からない。


「まあ、倒れるなら午後の会議終わってからにしてください」

「嫌です」

「即答」

「予定に組み込まないでください」

「じゃあ、なるべく静かにお願いします」

「注文が細かい」

「こっちも暇じゃないので」


会話が切れる。

けれど気まずさはなかった。

高橋とは、こういうどうでもいい応酬のほうが、妙に呼吸が合う。


澪は画面に向き直った。

補足資料の順番を入れ替え、注記をひとつ足す。

それだけのことに、今日は妙に時間がかかる。


一文直して、読み返して、また直す。

その途中で、首の奥がじわりと熱を持つ。


痛い、というより、気になる。

気になるせいで、余計に意識してしまう。


「篠宮さん、それ最終版ですか」


また高橋の声がした。

今度は少し近い。

いつの間にか、斜め後ろまで来ていたらしい。


「いったん、です。午後の確認が終わったら整えます」

「ふうん」


高橋は画面をのぞき込んで、数秒黙った。


「この注記、先に上げたほうがよくないですか」

「……あ」


言われて見直すと、たしかに位置が悪い。

自分でも気づけたはずのところだった。


澪は小さく息をついた。


「珍しいですね」

「人ごとみたいに言わないでください」

「いや、篠宮さん、こういうのあんまり落とさないので」

「落としたというほどでは」

「未遂ですね」

「言い方」

「でも珍しいのはほんとです」


高橋の声は軽いままだった。

責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ事実だけを置いていく。


その感じが、少しだけ助かる。


「昼、行ってきたらどうです」

「まだいいです」

「まだいい、が一番信用ならないんですよね」

「高橋さんの“まだ大丈夫”も似たようなものでは」

「私はほら、雑に頑丈なので」

「自称ですよね」

「他称でもあります」

「初耳です」

「今、言いました」


澪は思わず少しだけ笑った。

ほんの少し、肩の力が抜ける。


高橋はそれを見ていたのかいないのか、画面から目を離さないまま言った。


「まあ、昼過ぎると余計ろくでもない顔になるので、その前には行ってください」

「ろくでもない顔」

「今もまあまあですけど」

「失礼ですね」

「知ってます」


言うだけ言って、高橋は自分の席へ戻っていった。


午後一番で、危機管理室との打ち合わせが入った。

補足資料の確認と、現場向けの伝え方のすり合わせ。

大きな会議ではない。

関係者も限られている。

それでも、澪は会議室へ向かう途中で一度だけ足を止めた。


首の奥が、また鈍く痛んだ。


深呼吸をひとつしてから、何でもない顔でドアを開ける。


会議は淡々と進んだ。

修正箇所の確認、現場への伝え方、責任者向けの補足説明。

話している内容はいつも通り現実的で、いつも通り細かい。

澪も必要な発言をして、メモを取り、確認事項を整理する。

仕事はできている。

少なくとも、そう見える程度には。


会議の終わり際、追加で共有された資料に目を落とした瞬間、首の奥がひときわ強く痛んだ。


思わず、息が浅くなる。


そのときだった。


「その資料、あとでデータでもらえるか」


顔を上げると、相沢がこちらを見ていた。


ただの業務連絡だった。

声も表情も、いつも通りだった。

それなのに、澪は一拍遅れて返事をする。


「……はい。送ります」

「助かる」


それだけで会話は終わる。

相沢はすぐに視線を資料へ戻した。


気のせいかもしれないと思う。

今の一瞬、何か見られた気がしたのも。

返事が遅れたことに、自分だけが過剰に気づいているのも。


会議が終わって廊下に出ると、少しだけ肩の力が抜けた。

資料を抱え直して歩き出したところで、後ろから高橋が追いついてくる。


「おつかれさまです」

「おつかれさまです」

「長かったですね」

「長かったです」


並んで歩く。

会議の内容について少しだけ話して、すぐに途切れる。

沈黙は気まずくない。

高橋とは、黙っていても変に気を遣わなくて済む。


エレベーターの前で止まったとき、高橋がふと澪の横顔を見た。


「で、まだ痛いんですか」

「……何の話ですか」

「そこでとぼけるんだ」

「一応」

「一応なんだ」


少し笑ってから、高橋は続けた。


「まあ、朝よりはましそうですけど」

「そう見えます?」

「篠宮さん比では」

「基準が嫌です」

「今日は親切に教えてるのに」


エレベーターの到着を待つ短い沈黙のあと、高橋が壁にもたれたまま言う。


「帰り、湿布でも買えばいいじゃないですか」

「雑」

「じゃあ、もう少し高いやつ」

「値段の問題じゃないです」

「そういう返しができるなら、まだ平気ですね」

「判断基準が適当すぎませんか」

「適当なくらいがちょうどいいんですよ。篠宮さん、まともに聞くと黙るので」


澪は返事をしなかった。

できなかった、のほうが近い。


高橋はそれ以上何も言わない。

ただ、少しだけ目を細める。


「まあ、無茶するなら目立たない範囲でお願いします」

「どういう気遣いですか」

「こっちが処理しきれないと困るので」

「結局そこなんですね」

「そこです」

「正直」

「美点です」


エレベーターが来て、扉が開く。

乗り込む直前、高橋が何でもない声で言った。


「ほどほどにしといてください」


軽い言い方だった。

冗談みたいで、いつも通りで、だからこそ少しだけ残る。


「……善処します」

「その返事、信用ならないんですよねえ」


扉が閉まる直前まで、高橋は少し笑っていた。


執務室へ戻る途中、澪はそっと首に触れた。

痛みはまだ消えていない。

保留にしたものも、何ひとつ片づいていない。


それでも、朝より少しだけ息がしやすかった。


言葉にならないものは、澪の中だけにあるわけではないのかもしれない。

気づいている人がいる。

見ている人がいる。

何も決めつけず、何も暴かず、それでもそこに触れてくる人がいる。


そう思った瞬間、胸の奥のざわつきが、ほんの少しだけ静かになった。


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