第434話 ヒュスミネの大峡谷
ローダウェイクでの短い滞在を終えた僕たちは、おばあ様を伴ってトニトルス公爵領の町――ミュールへと到着した。
この公爵領の主都はイストモスだが、これからはミュールがイグルス帝国攻略の前線基地になるはずだ。
ミュールの町には、建設中の砦がそびえ、行き交う兵士たちの顔にも緊張が浮かんでいる。けれど、それ以上に活気に満ちていた。
町の門では、なんとトニトルス公爵本人が出迎えてくれた。僕とおばあ様は、そのまますぐに公爵邸の会議室へと案内される。
すでに何人かの貴族たちが集まっていた。中央に座していたのは、若き当主――バージル・ヴァーヘイレム・トニトルス公爵。その隣には、厳格な雰囲気をまとった武人、ハットフィールド公爵の姿もある。
でも、僕の目を引いたのは、その二人じゃなかった。
少し離れた席に並ぶ、見慣れない顔ぶれの貴族たち。きっと王家から派遣された、領地を持たない新興貴族だろう。
彼らの視線が僕に向けられた瞬間、その目に侮蔑の色が浮かんだのを、僕は見逃さなかった。
「……あれがフィレール侯爵か。噂には聞いていたが、まだ子供じゃないか」
「ヴァルハーレン大公家の威光だけで爵位を得た、って話だったが……まさかここまでとはな」
ひそひそ声が、静まり返った室内に意外と響く。
どうやら彼らは、僕がシュトゥルムヴェヒターを討伐したことも、共和国を倒したことも、ただの噂としか思ってないらしい。
――実績じゃなく、見た目と年齢で人を判断する。まぁ、よくあることだけど……いい気分ではない。
僕が黙って席に着こうとした、その時だった。
「――控えよ、愚か者どもが」
地を這うような低い声が会議室を貫いた。
声の主は、ハットフィールド公爵。彼の鋭い眼光が、侮辱を口にした新興貴族たちを貫く。
「貴殿らの前におられるのは、海神シュトゥルムヴェヒターを単独で討伐し、マーリシャス共和国を滅ぼし、陛下より直々に侯爵位を賜ったお方だ。その功績も知らず、見た目で侮るとは、騎士として恥を知れ! その目は節穴か!」
ビリビリと空気が震えるほどの迫力に、貴族たちは青ざめ、縮こまった。
まさか、あのハットフィールド公爵から直接叱責されるとは思っていなかったんだろう。
僕は少し驚きながらも、公爵に向かってそっと頭を下げた。
「お気遣い、痛み入ります」
「事実を述べただけだ。それより――始めるぞ」
ハットフィールド公爵は素っ気なくそう言うと、正面を向いた。
王都でもそうだったが、彼の態度は、僕をヴァルハーレン大公家の子供としてではなく、ひとりの侯爵として認めている証のようだった。
トニトルス公爵が咳払いひとつ。いよいよ会議が始まる。
議題はもちろん、大峡谷を越えて帝国領シュミットへ進軍する作戦についてだ。
「皆、よく集まってくれた。明日、我々は大峡谷を渡り、イグルス帝国領へ侵攻する。フィレール侯爵の力によって、我らの前に道が拓かれる。橋が架かり次第、全軍で渡河し、シュミットを一気に制圧する!」
トニトルス公爵の堂々たる宣言に、貴族たちからは感嘆の声が上がった。
作戦はシンプルだが、だからこそスピードと連携が求められる。
質疑応答を交えつつ、作戦の細部が詰められていき、会議は滞りなく終了した。
新興貴族たちが退出すると、会議室には僕、おばあ様、トニトルス公爵、そしてハットフィールド公爵の四人だけが残った。
「――さて。ここからは、内密の話になります」
僕がそう切り出すと、二人の公爵は眉をひそめて僕を見た。
「実は、明日架ける橋には……大きな弱点があります」
「弱点だと?」
僕はうなずき、アーススライムの糸で小さな橋を作ってみせる。
硬化すれば、鋼鉄に匹敵する強度を持つ素材だ。
二人には、実際に触れて、踏んで、叩いて、その強さを確かめてもらった。
「このアーススライムの糸は、物理的な衝撃には非常に強いのですが……魔力には極端に弱いのです。ハットフィールド公爵、少しだけ魔力を流してみていただけますか?」
「……うむ」
ハットフィールド公爵がアーススライムの橋に魔力を流した瞬間。
あれほど頑丈だった橋が、まるで砂の城のように崩れ落ちた。
「なっ……!」
「これは……」
驚きに、二人が息を呑む。
「これがアーススライムの糸の唯一にして最大の弱点です。もし敵に橋を奪われた場合、魔力を持つ者一人で簡単に破壊されてしまいます。この情報は、最高機密として扱ってください」
僕の言葉に、二人の公爵は険しい表情でうなずいた。
続けて、僕はもう一つの切り札を差し出す。ローダウェイクから持ってきた通信機だ。
「それからこちらを。前線での迅速な連絡手段として、ご活用ください」
「おお……これはありがたい。すでに試してみたが、実に便利な代物だ。これがあれば、戦況は大きく変わるぞ」
トニトルス公爵は心からの感謝を述べたあと、ひとつ願いを口にした。
「この橋の弱点……我が妻、フランシスにも伝えても構わないだろうか?」
彼の妻は、ハットフィールド公爵の長女で、アリシアのお姉さん。今は公爵領主都のイストモスにいるのだとか。
「もちろん構いませんが、その理由を伺っても?」
「もしもの時……私が戻れなかった場合、敵に橋を奪わせないためだ。最悪の時は、彼女に橋の破壊を命じる」
その言葉には、前線を預かる指揮官としての重い覚悟が込められていた。
僕は、静かにうなずく。
「……承知いたしました」
◆
翌朝、夜明けと共に僕たちは出発し、大峡谷へと向かった。
道中、トニトルス公爵が馬を並べながら、ふと話しかけてくる。
「フィレール侯爵。この大峡谷は、イグルス帝国では『ヒュスミネ大峡谷』と呼ばれているそうだ。彼らの信仰する唯一神ヒュスミネが、遥か昔、西からの侵略者を阻むために創り出したのだと」
眼前に広がる光景は、まさに神業としか思えなかった。
幅はおよそ三キロ。切り立った断崖はどこまでも続き、谷底は霧に覆われて見えない。対岸がぼんやりと霞んで見えるが、距離感は絶望的だ。
「……確かに、自然に作られたというよりは、切り裂いたように見えます」
「ああ。だが――今日は我々が、その神の壁を越える」
公爵の瞳には、確かな決意の光が宿っていた。
僕はうなずき、全軍が見守る中、谷の縁に立つ。
魔力を集中し、アーススライムの糸を放つ。
茶褐色の糸が生き物のように対岸へと伸び、複数の線となって絡まり合い――ついに幅四メートルの頑丈な橋を形成した。
「……道が、できた……」
兵士の一人が、呆然と呟く。
だが、いざ橋が完成すると、先頭にいた新興貴族たちがたじろいだ。
「お、おい……これ、本当に大丈夫なのか?」
「下は奈落だぞ……崩れたら……」
そんな不安が隊に広がり、進軍の動きが止まりかけた、その時だった。
「何をためらうことがあるかッ! 道はフィレール侯爵が拓いてくれた! 我らはただ、前へ進むのみ! ヴァーヘイレム王国の栄光のために――全軍、続けぇっ!!」
トニトルス公爵が馬の腹を蹴り、誰よりも早く橋へと突っ込んでいく。
その勇姿に、兵士たちの士気が爆発した。
――うおおおおおおっ!
地響きのような鬨の声と共に、兵士たちが雪崩を打って橋を渡り始めた。甲冑の擦れる音、軍靴の響きが、大峡谷にこだまする。
僕はその光景を静かに見守る。やがて、殿を務めるハットフィールド公爵が、僕の前で馬を止めた。彼は馬上から僕を真っ直ぐに見下ろすと、深く、力強く頷いた。
「――感謝するぞ、フィレール侯爵」
短い言葉だけを残し、彼もまた橋を渡っていく。
その背中は、ヴァーヘイレム王国が誇る武人の、揺るぎない覚悟を示していた。
軍勢が、霧の中に完全に姿を消すまで、僕はその場から一歩も動かず、じっと見送っていたのだった。
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