パン
「……こんにちは」
サトルの父親はにこやかに挨拶した。優美の心の痛みをどれくらい察しているのかはわからないが、その声には癒しの響きがあった。
「……こんにちは。ご無沙汰してます」
優美の返事に軽く頷いたサトルの父親はベンチに座り、その隣の席を優美に勧めた。
「サトルが寂しがってました、マコトくんが最近来ないって。でもこうしてまた会えて良かったです。見て下さい、あいつの嬉しそうな顔」
「本当ですね……でも、何だかサトルくんに甘えてしまっているみたいで心苦しいです」
「それは僕も同じですよ。マコトくんがサトルの相手をしてくれるおかげで、僕はこうしてのんびりしていられるんです。家に帰ると家事やら何やらで自分の時間なんて持てませんからね……」
「家事……されているんですか?」
「ええ、ウチは家事分担制なんです。もっとも最近は僕の割合が多くなってきてますけどね」
そう言ってサトルの父親は苦笑した。優美は思った。あんなに子供の面倒見てくれる上に家事までやってくれるなんて……うらやましすぎる。だが、ふと考えてみた。いつもこんな真昼間から公園で子供と遊んでいるなんてどんな職業なのだろう。普通のサラリーマンではまずありえない。そんな疑問を心に抱いていると、サトルの父親がバッグから何かを取り出した。
「これ……よかったら食べませんか?」
そうして彼が差し出したのは、いくつかのパンであった。
「わぁー。お洒落なパンですね。いただいて良かったんですか?」
「ええ、ノアレザンっていうパンだそうです。実は妻がパン教室を開いていましてね。いつもパンの研究をしていて大量にパンが出来上がるんですよ」
「そうだったんですか。ではお言葉に甘えて遠慮なくいただきます……すごくおいしいです」
優美は少し複雑な気持ちでパンを味わった。サトルの父親にほんのりと慕情を抱いたものの、彼にはこんな素敵なパンを作る奥さんがいるんだ……いや、何を張り合っているんだろう。ただの息子の友達のパパではないか。そう思って優美は心の中で首を振った。
「サトルくんパパは幸せですね。毎日こんなにおいしいパンを奥さんに作ってもらえるなんて……」
優美は悟られない程度にやっかみ半分で言ったが、サトルの父親は複雑な笑みを浮かべた。
「良く言われるんですよ……奥さんに感謝しなくちゃねって。でも来る日も来る日もパンばかりになってしまいますので、たまにはお米のごはんも食べたいな……なんて思うこともあるんです。贅沢な悩みでしょうかね」
「贅沢じゃないですよ、日本人ですもの……」
そう言いながら優美の頭にはあるアイディアが浮かんだ。「差し出がましいようですが、明日私がお弁当作ってきてもいいですか? もしお嫌でなければここで一緒にお昼しませんか?」
優美の積極的とも言える提案に、サトルの父親は少したじろいだが、満更でもなさそうだった。
「それはとてもありがたいですが、ご面倒ではありませんか?」
「とんでもないです。パンのお礼ですよ」
優美は嬉々として言った。サトルの父親は煙に巻かれたような気がしたが、明日が楽しみになっていた。
翌日の正午。
優美が持ってきた弁当を広げた。派手さはないが上手に盛り付けられていて、サトルの父親は食欲をそそられた。
「うわあ、美味しそうですね」
「何かちょっと失敗しちゃったので、まずかったら残してくださいね」
「そんなとても美味しそうじゃないですか……いただきます」
サトルの父親はおかずをいくつか頬張ってみた。うまかった。料理に慣れているが、嫌な自己主張がない、食べていてほっこりする味。
「すごく美味しいです。何というか、家庭的な味ですね」
「そう言ってもらえると嬉しいです。あんまり大したもの作れないのでお恥ずかしいんですけど」
「とんでもない。世の男性というのはこういう味を求めているものなんですよ」
「ありがとうございます。とても嬉しいです……」
優美は自分の家の食事時のことを思い出した。達也は細かいことにうるさく注文をつける。さらに一度言ったことを守れていないとこっ酷く叱りつけるのだ。食事の時くらい楽しくしてくれたらいいのに……そう思っても中々言い出せない。息が詰まる……もうこんな生活はうんざりだ、と優美は思いめぐらしていた。
「どうされましたか?」
優美が考え事を始めたので、サトルの父親は気になって尋ねた。
「あ、すみません。私は夫から料理を褒められたことがないので、なんだかうれしくてつい……」
「そうなんですか? こんなに美味しいのに」
「もう文句ばっかり言われるんです。料理だけじゃなくて色々なことも……」
サトルの父親はしばらく思い巡らした後、おもむろに言った。
「実はウチも同じなんです」
「同じ?」
「ええ。家事や育児について、色々細かいことでいつも注意され、責められるんです。失敗した時はもちろん、彼女の考えにそぐわないやり方をすれば途端に刺々しい言葉が飛んで来るので、まるで地雷原を歩いているようです」
「信じられません……ウチは夫が家事や育児をやってくれることなど考えられないので、旦那さんがちょっとでもしてくれるというだけですごくうらやましいです」
「僕も会社員時代は家事など今ほどしていませんでしたよ。でも少し前にリストラに遭いまして、今はパートタイムで警備員をしていますがおかげで家事や子供の世話をする時間には恵まれるようになったわけです。妻はパン教室で忙しく収入的にも家計を支えるようになったので、僕の家事分担率が大きいわけです」
「そうだったのですね。でも、サトルくんパパほど育児に参与しているお父さんはなかなかいませんよ」
「僕もね……一時はそう思って友達に愚痴ったこともありましたが、みんな言うんですよ。そんなの今時当たり前だ。何を甘えたこと言ってるんだってね」
「そんな……私はサトルくんパパのこと尊敬します」
「ありがとうございます。何だかいつも周りから厳しく責められてばかりで、誰も褒める人なんかいなくて自信喪失になっていましたから……すごく嬉しいです」
サトルの父親の目がわずかに潤んだ。
「だったら……私がサトルくんパパを褒めてあげます。これ以上ないくらいめいいっぱいの賛辞をお贈りします」
サトルの父親と優美の見つめ合う視線が互いに熱くなった。サトルとマコトはそんな親の様子にはおかまいなしに夢中でサッカーボールを追いかけていた。