〝ヨ〟の人物
沼田は結局、重沼化繊の従業員の中からヨとEを頭文字にもつ該当者をリストアップすることが出来なかった。アクションを起こす前に上層部から牽制されたのだ。小川がどこから手をつけようかと思い巡らしていると、県警捜査二課の者から電話があった。
「県警二課の坪内と申します。折り入ってお話ししたいことがあります。一度会ってお話ししたいのですが……」
「僕に? どんな話ですか?」
「亡くなられた栗田氏の元同僚である吉井という男のことについてです」
吉井……ヨで始まる名前だ。小川は色めき立った。彼らは勝小田市内のカフェ・ブルータスで落ち合うことになった。
「突然お呼び立てしてすみません。あらためまして私は捜査二課企業犯罪係の坪内と申します」
坪内は県警本部の人間にしては腰の低い態度だった。
「企業犯罪係……というと、その吉井という人物は何か会社がらみの犯罪を犯したわけですか」
「ええ。彼は重沼化繊の社員だった頃、会社の研究データを盗み出して社外に漏らしてしていたのです」
「つまり産業スパイの片棒を担いでいたわけですか」
「はい。そしてその現場を同僚に目撃され、やがて我々によって逮捕されました。その同僚というのが……」
「栗田憲彦氏……なんですね」
「ええ、その話を事件の捜査に当たっていた宮西署の沼田さんにしたところ、自分は実質捜査を外されたも同然だから、勝小田署の小川警部補に話せ、と言われて連絡差し上げた次第です」
「なるほど、そういう経緯でしたか。その吉井という人物は逮捕後どうなったんですか?」
「結局懲役2年半の実刑判決を下されて、2年で出てきました。中々の模範囚と聞いていたんですが、まさか……逆恨みの犯罪とは思いたくないですけどね」
この段階での犯人扱いは早合点過ぎるぞ……小川は心の内でそう思いながら冷めたコーヒーを飲みほした。
「いずれにせよ吉井が何か重要な手掛かりを掴んでいると見て間違いなさそうですね。現在吉井が何をしているかわかりますか?」
「何でも産婦人科で助手の見習いをしていると聞きました。ベタニア修道会マタニティ・クリニックという名前だったような……」
「ベタニア修道会ですか……たまたま良く知っているシスターがそこにいます。話を聞きに行ってみることにします」
「ええ、知人がいるというのは幸運でしたね。そうされるのがいいでしょう」
†
ベタニア修道会へ行くとまた50歳くらいのシスターが応対した。
「小川さん、捜査協力は当然させていただきますが、吉井さんは本当に悔い改めなさった方なのです。そのことをよく心にとめておいていただきたいと思います」
「わかりました。配慮いたします」
程なくして吉井、そしてマリエッタも連れてこられた。吉井は前科者とは思えない爽やかさを醸し出していた。
「刑事さん、私は何も隠し立てするつもりはありません。何でもお話ししますよ。もっともマリエッタさんの前では嘘はつけませんけどね……」
吉井は少し冗談めかすように言い、小川はそれに合わせるように口角を上げて言った。
「では……単刀直入に聞きますが、8日の午前10時から12時頃まであなたはどちらにいらっしゃいましたか?」
「8日というと平日ですからクリニックで仕事をしておりました。スタッフが証言してくれるでしょう」
「わかりました。ところであなたと栗田さんとの人間関係はどのような感じでしたか」
「栗田と、そして北田とは同期入社で良く一緒に飲みにも行きましたよ。栗田は私のことをグーさんと呼び、私は彼のことをクリさんと呼ぶような仲でした」
「ほう、どうしてあなたにはグーさんというあだ名がついたんですか?」
「彼一流の駄洒落のようなものです。吉井だから“良しー”ということでグーらしいです」
「はは、なるほどね」
「ちなみに北田のことはNさんと呼んでいましたよ。“北だ”ということでNらしいです。ほら、コンパスだとNが北を指すでしょう」
小川が苦笑を押し殺すようにしていると、マリエッタが吉井に問いかけた。
「吉井さんは栗田さんに目撃された為に逮捕されたのですよね。でも、お話しを伺っていると恨みというよりむしろ感謝しているようにも思えるのですが……」
吉井は下を向いて少し笑みを浮かべて話し出した。
「その通りですよ、マリエッタさん。私は栗田に感謝しているのです。私は逮捕されたおかげで自由になれたのですからね」
そう言って吉井は自分が不正に加担したきっかけと経緯を話し始めた。




