第七章「想い」―2
「ようこそ、いらっしゃい」
「ええ、本日はお招き頂き、本当にありがとうございます」
富瑠美がそう言い会釈をすると、双葉は片手を振って言った。
「だから、あまり敬語は使わないようにしよう? 初対面なんかじゃないんだし、それに貴女は私と同い年じゃない」
「え、ええ……分かり――分か、ったわ」
富瑠美は、だいぶぎこちないながらも敬語を使わない話し方をした。
(本当は、敬語の方が遣い慣れていて、話しやすいなんて……この状況では、きっと言えませんわよね……)
「あら、いらっしゃい、ルーレさん、ルーリさん、ルーマさん。貴女達で最後よ? ほら、みんなもう集まってるわ」
若葉はそう言うと、三人を中に招き入れた。
「う~ん……なるほどねぇ、そういうつもりで私達を呼んだって訳かぁ……何か、不思議だわ。やっぱり、親はそう思ってるのかなぁ……」
そう言ったのは、何と些南美である。
敬語を使わない話し方を、些南美と柚希夜はあっと言う間にマスターし、かなり普通に喋っている。
「うん、あたしもそう思うな、ルーリ。だって、そうでしょ? 子供は子供らしく何にもするな。お前達はただここにいればいい。そうすれば国民みんなが納得するから、ってことでしょ? ……何か、あったまくるなぁ」
「ああ、僕もそう思うよ。まあ、この面で見ると、僕は一応王族の端くれで良かったと思うな。だって、そうじゃなかったら、親は僕をここに送り込まなかっただろうからね。これでもだいぶ渋ったんだぜ?」
そう言ったのは、ウォリュム・シャンレイである。
彼はこのことを親から知らされていなかったが、それでもこれに参加することを喜んだ。
好都合だと言って。
だが、彼の妹のライ・シャンレイは『こんなことなら来るんじゃなかった』という顔をしてブスッと座り込んでいるし、富瑠美も『一体どうすればいいのか分からない』という途方に暮れたような顔をしている。
だが、他の千紗、由梨亜、睦月、香麻、些南美、柚希夜、ウォリュム、ヴァン・ウィオンとヴィクス・ウィオンの兄弟は、双葉と若葉と義彰の話に興味を持ったようだった。
このことは、双葉達姉弟にとって、意外だったようだ。
目を瞠ってはいたが、楽しげに会話を交わしていた。
話がしばらく進んだ後、千紗が双葉に言った。
「あのさ、双葉。これ、天皇陛下にお渡ししてもらってもいいかな?」
「…………何、これ……?」
双葉は、その差し出された物を怪しげに見詰めた。
確かに、それは一見『変』としか言いようのない物だった。
片手より一回りほど大きく正方形をしていて、厚さは一センチほどと、少し厚めである。
そして、黒い。
真っ黒だ。
見ていると、どこまでも吸い込まれてしまいそうな色であり、光の具合によっては紫紺に見えなくもない、不思議な色合いである。
そう、それは、癒璃亜が『武器になる』と言った、あの物だった。
「あのね、これお父様から預かって来たんだ。何か、天皇陛下に直接お渡ししたいみたい。それで、この中にお父様が書いたメモが入ってるって」
「『この中』……? 何、これケースになってるの?」
「あ、うん……って駄目駄目! それここで開けちゃぁ!」
千紗は、それを開けようとした双葉を慌てて止めた。
「え~……? でもこの中、滅茶苦茶気になるんだけど……」
「気になっても開けちゃ駄目。とにかく、それ直接天皇陛下にお渡しして。その後、もし見せてくれるって言うんなら見てもいいと思うけど……取り敢えず、今はやめてね?」
「うん……分かったわ」
双葉はそう言うと、それをバッグの中に仕舞い込んだ。
「じゃあさ、千紗はこの中って見た?」
若葉の問いに、千紗は考え込んでしまった。
「う~ん……そうだなぁ……それらしき物は見たことがあるかも知れないけど、本当にそれが中に入っているかどうかまでは知らない。ただあたしは、その中にとっても大事な物が入っていること、それを直接天皇陛下にお渡しするように頼むこと、それとその中にメモが入ってることしか聞いてないな」
そう簡単に答えると、若葉は何となく納得したらしい。
「ふぅ~ん……。でも何か不思議よね。この前来た時に、渡しちゃえば良かったのに」
「うん。そこがあたしも不思議なんだよねぇ……。ま、よく分かんない『大人の事情』って奴でしょ? どうせ」
千紗の言葉に、由梨亜も頷いた。
「そうそう。で、そのせいで私達と貴女達が運搬係として使われるってこと」
その言葉に、途端に場に笑いが毀れた。
たった一人……富瑠美を残して。
その話し合いは、何故かとんでもない方向に進んで行っていた。
もしここに貴族階級の大人がいれば、真っ蒼になって止めていたはずだ。
だが、幸いと言うべきか、不幸と言うべきか、ここにはそのような大人は誰一人いなかった。
その内容というのは……『今の貴族階級の常識の可笑しな点』というものだった。
それは貴族階級と庶民階級の待遇の差から、更には婚約者や婚約者候補のことにまでも話が及んだ。
しかも、幸か不幸か、ここにいたのは千紗に由梨亜に睦月に香麻。
婚約者候補の制度について、嫌悪感を持っている人物だったのだ。
「ええ……やっぱり変よ。確かに私にも婚約者候補が何人かいるけど……その人達はみんな、私を第二婚約者にしてるし、結婚しない可能性もあるわ。しかも……月に一、二回程度しか会わないのよ? あんま愛情湧かないって言うか……まあ、その人達が第一婚約者に選ばれなかったら結婚するしか道はないけど……でも、私としては誰も私と結婚しない方がいいわ。そしたら、私は社会に出て働くの。誰かの家に仕えるだなんて真っ平。私は私の好きな道を進んで行くの。もしその途中で好きな人と結婚できる機会があったらするかも知れないけど……でも、それでもずっと仕事は続けるわ。それが……私が望んでいる道。未来なの」
「またまた。その好きな人と結婚することは、『もしも』じゃなくて『絶対確実』の決定事項じゃないか、ルーリ姉上。そこを誤魔化したら駄目だろ?」
「う……でもル~マァ……もしほんとに結婚できなかったらどぉしよぉ……」
些南美のその不安げな声に、千紗は笑って言った。
「ほら、嘆かないの。でも……そういう意味で考えると、あたし達が好き勝手できたのは奇跡だったのかもねぇ……」
「まあ、奇跡と言えば奇跡だけど、でもそこで諦めちゃったらただの夢。実際に行動してこその『奇跡』なのよ? ね、だからルーリ、諦めちゃったらそこでお終い。諦めたら駄目なのよ」
由梨亜の言葉に、些南美の顔はぱっと明るくなった。
「……そうだよね、諦めたら終わりなんだよね。ありがとう、由梨亜さん。私、頑張るわね! 絶対に、あの人のこと……諦めたりなんかしないっ!」
「うん、そうそう。偉いわ」
由梨亜がにっこりと笑い掛けると、些南美もにっこりと笑い返して来た。
些南美は由梨亜が富実樹だということを知らないが、由梨亜はルーリが些南美だということを知っている。
そして、些南美が今言っていた『あの人』が、杜歩埜であることも。
だから、花鴬国にいた頃によく些南美に対して向けていた笑顔を向けてしまった。
その笑顔が『富実樹』と重なったのか、些南美は不思議そうな顔をして目を瞬かせた。
だが、その状況に不服を唱える人もいた。
他ならない、富瑠美とライ・シャンレイである。
ライは思いっ切り『不機嫌』の顔であるし、富瑠美はもっとあからさまだった。
一言言わなければ、気が済まないほどに。
「あまり勝手なこと、言わないでもらえるかしら? 千紗さん、由梨亜さん」
そう言い、二人を――特に、千紗の方を鋭く睨んだ。
「お、お姉様……?」
些南美の怯えた声を尻目に、富瑠美は鋭く言った。
「婚約者候補が気に入らないだの、婚約者にけちをつけるだの、本当に信じられません。私達貴族の子供は、相手の家との婚姻によって自らの家の権威を高め、有利に導くこと。それが役目。それが筋というものではありませんか? 余程相手が気に入らないのでなければ、従うのが常というものです。これ以上、私の妹に変な考えを植えつけないで下さい」
富瑠美は、それほど政略結婚に大賛成という訳ではない。
逆に、王族でも何でもないのにそういうことをさせている地球連邦のやり方には、嫌悪を抱いている。
だが、花鴬国の王族である些南美に、これ以上変な考えを植え付けられては堪らない。
そして、富実樹から聞いた地球連邦の貴族の様子だと、これぐらい言っても当然である。
そう考えたのが、富瑠美の過ちだった。
「あんた、人を好きになったこと、ないでしょ。当然、初恋なんか夢のまた夢の話かしら」
千紗の声は、氷のように冷たかった。
中学生の頃、千紗はあまりに切れ過ぎると、ふざけたようでありながら、静かで、穏やかで、丹念に毒を塗した言葉を放っていた。
だが、今はそこからふざけたような言い方が綺麗サッパリ拭い取られ、ただ冷静に、着実に、相手を追い詰めて行くようになっていた。
「えっ……?」
富瑠美は訳が分からず、きょとんとしてしまった。
そして、そのせいで千紗を更にムカつかせてしまった。
「聞こえなかった? じゃあ、もう一回だけ言ってあげる。貴女は、人を好きになったことなんてない。勿論、この好きって言うのは、人に恋する、愛する気持ちよ」
千紗の顔は、怖いほど真剣だった。
由梨亜でさえも、その顔を直視できなかった。
ただ、視線を床に落としていた。
「わ、私が……人を、愛したことが、ない、ですって?」
富瑠美は何とかそこまで言えたが、それでも声が震えることを抑えることができなかった。
「ええ、そうよ。じゃなかったら、あんな無神経なこと、言えるはずがないもの。あたしね、あんたみたいなバリッバリの貴族、この世で一番大っ嫌いなの。人を愛することが何だ。そんなもの、何の役にも立たない。捨ててしまえ。諦めてしまえ。そんなもの、無駄だ。要らない。必要ない。そんなものが必要なのは、庶民みたいな野蛮人、大昔の、野生に近い状態のケダモノだけだ……」
千紗の言葉に、富瑠美の顔がどんどん蒼くなっていった。
それだけではない。
他の関係ないはずの、この部屋にいる全ての人間の顔色も、真っ蒼だった。
自分は言われていないのに、それでも自分に言われているように、心の奥に響く、突き刺さって来る。
千紗は、ただただ淡々と言った。
「ここまで明け透けには言わないかも知れないけど……でも、ほとんどの貴族はそう思ってるよ? そういうの、ほんっとウンザリする。人を好きになって、それで自分が幸せになれる。どうしてそんな簡単なこと、貴族のお偉方には分からないのかな? あたしには、それが全然分からない。そして、貴族が生まれ育った環境っていうのは、愛だの恋だの、そんなものを必要としないようにできてる。そして、そこで生まれ育った恋を知らない人間は、恋を知らないからこそ、また、そういう環境を自らの子供達に造る。そして、その子供達は、また……」
千紗はそこで言葉を区切ると、瞳に鋭い光を燈し、富瑠美を睨み付けて言った。
富瑠美は蒼ざめながらも、千紗の瞳から目を逸らすことが全くできなかった。
ほんの少しも、身じろぎできなかった。
「また、同じ世界を造る」
その声は冷徹で、喉元に刃を付き付けられたかのように、聴き入る相手に恐怖を与えた。
「分かる? あたしは、あんたみたいなの、大っ嫌いなの。そういう、傲慢で、人を人扱いしないようなのは。勿論、全部が全部、あんたの責任っていう訳じゃない。誰も、そんなこと言えない。だけど……小さい、幼い頃はそれで良くても――今は、全部があんたの責任になっても可笑しくない。だって、あんたと同じ環境で育ったはずのルーリは、人を愛することを知ってる。あの、未来を、夢を話すルーリの顔は、愛しい人を想う人間の顔。希望を持った人間の顔」
千紗は、小さく溜息をついた。
「……同じように、同じような環境で育ったのに、どうしてそういう風に違って来るのかは、よく分かんない。あたしと由梨亜が、それほど似てないのと同じように。だけどね、ルーレ。貴女もルーリみたいになる可能性はあった。それをふいにしたのは、他でもないルーレ、貴女の責任よ。そして……あたしは、人を好きになること、愛することが下らないだなんて、勝手なことだなんて――絶対に言わせない。たとえ、貴女が、誰であろうとも」
千紗はそう言うと、真っ直ぐに富瑠美を見詰めた。
「あたしは……睦月が好き。高校生の時から……ずっと。だから――」
千紗はそう言うと、俯いた。
「こういうとこで言うの、ちょっと……ううん、すっごく恥ずかしいけど……。でも、だからこそ、あたしはお父様に反抗した。それに、あんな婚約者候補達……あたしは、あんな奴らなんか、最初っから大っ嫌いだった。ルーレ、貴女と、おんなじような奴らだったから。そして、あたしは高校に行って、好きな人ができた。だから、余計……もっと、あいつらが大っ嫌いになった」
その言葉に驚いて、由梨亜は顔を上げ、千紗を見詰めた。
その話を聞くのは、由梨亜も初めてだったからだ。
その反対に、睦月と香麻は居心地悪そうにもじもじとした。
香麻は中学生の頃から千紗を知っていたし、睦月はその当事者である。
千紗は、毅然と顔を上げて言った。
「あいつらは、あたしのことなんてどうでも良かった。あたし自身を、見ていなかった。ただ、あたしの血筋に惹かれただけだった。あの見るからになっさけない典型的な男の紺城早宮でさえ、『本条家のパイプ役』となる為、あたしの婚約者候補になったんだと……そう言った。言い切った。後の二人も、庶民なんか粗野で、野蛮人で、人じゃないって言い切った。貴女は、そんなあいつらと同じよ。最低。相手の、もしくは自分の血筋でしか相手を見ようとはしない。そんなの、何の意味もないのに……」
千紗は、呟くように、溜息をつくように言った。
それっきり、千紗は何も喋らなかった。
そして、誰も、何も喋らなかった。
全員、固まっていた。
そんな中、由梨亜だけ、気が付いた。
千紗の瞳に、うっすらと涙が浮かんでいたことを。
その涙が瞳から零れ落ちることはなかったが、それでも千紗は泣いていた。
人知れず、心の中で。
由梨亜はそんな千紗の姿から、気まずそうに目を逸らした。
何故なら、千紗がそんな想いをしなければならないのは……自分のせいだから。
峯慶とマリミアンが、富実樹を日本州に送ったから。
そして、千紗を本条家の娘ではなく、庶民の、彩音家の娘にしてしまったから。
もし、そうでなければ、千紗はこんな想いをしなくても済んだかも知れないのだ。
どこまでも原因を突き詰めていくと、それはマリミアン達を迫害し、峯慶達に富実樹の命が危ないと思わせた深沙祇妃、そして富実樹を地球連邦へ送った峯慶とマリミアンにまで辿り着く。
だが、だからと言って由梨亜には、峯慶とマリミアンを怨むことはできなかった。
何故なら、彼らは自分に対して、確かな、深い愛情を注いでくれていることを、感じていたから。
そして、何より……彼らは、自分の両親だから。