第8話『上にもいるのかよ』
小鬼との戦いに勝った翌日、名もない《響兎》は一つの重大な事実に直面していた。
勝ったからといって、傷が治るわけではない。
右肩をかばって岩のくぼみから這い出し、いつもの調子で跳ぼうとしたところで前脚に痛みが走った。慌てて身体を縮めれば、今度は後ろ脚までじんと痺れる。どうやら昨日の勝利は立派なものだったが、勝者に対する待遇はそれほどよくないらしい。
腹は減っている。近くには草もある。なのに跳ねて取りに行けない。これほど理不尽なことがあるだろうか。当の兎は不満そうに鼻を鳴らすと、岩の隙間に残っていた柔らかな葉を一枚ずつ引き寄せた。
食べ終えたところで目についたのは、くぼみの入口に突き出した小さな石だった。昨日の小鬼なら蹴りつければ退いただろう。ならばこいつも、とばかりに尻を向け、後ろ脚を軽く伸ばす。
こつん。石は動かず、兎だけが痛がった。
初めて敵を倒した翌日に、動かない石へ敗北する。人生というものはなかなか厳しい。兎の場合は兎生とでも呼ぶべきだろうか。どちらでもいいが、とりあえず今は寝ていた方がよさそうである。
それからしばらくのあいだ、響兎は細い岩道のくぼみを寝床にした。水の滲む壁際には小さな葉が生えている。少し歩けば水も飲めるし、通路は大型の生き物が通るには狭い。大迷宮の奥にしては、傷を休めるのに悪くない場所だった。
もっとも住み心地を褒めすぎるのは禁物だ。寝返りを打つたび耳に反響が返ってきて目を覚ますのだから、安眠という点では少々問題がある。新しい身体に慣れ始めた響兎も、自分の足が石を擦る音だけはまだ気に入らないようだった。
三日目には右肩をついても身体が沈まなくなった。四日目は水場まで歩き、帰り道に見つけた若葉を口いっぱいに詰め込んだ。五日目には後ろ脚を伸ばしても痛みがなく、嬉しさのあまりいつもより遠くの草へ跳んだ。食べ物が目標だと回復の確認もずいぶん熱心になる。
六日目。響兎は乾いた岩の上を続けて跳び、急に向きを変えてから着地した。肩も脚も痛まない。擦り傷は塞がり、傷のあった場所には短い毛が戻っている。前から残っていた脇腹の違和感も消えていた。耳の先から足裏まで身体を舐めて確かめたあと、兎は満足そうに鼻を動かした。
完全に治ったのである。
実にめでたい。では慎重に行動していただきたいところだが、兎はそのまま跳び上がり、頭上に張り出した岩へ耳を擦りつけた。幸い怪我にはならなかったものの、慌てて伏せる姿には若干の不安が残る。健康になったからといって、急に賢くなるわけではないのだ。
それでも以前とは違うこともあった。響兎はすぐに走り出さず、細道の奥へ耳を向けた。水が落ちる低い響き。壁の向こうを抜ける風。離れた場所で小石が転がった音。方向を変えながら一つずつ確かめて、ようやく鼻先を前へ向けた。
小鬼と戦ったとき、耳だけでは分からないことがあると知った。岩陰の先では相手の足も匂いも見た。近づいてきたら、逃げるだけでなく蹴り返すこともできた。そんな経験が身体に残っている。本人に言わせれば――いや、本人は何も言わないが――少しくらい強気になってもおかしくない。
岩道を進むにつれて足元の石が湿り、風に水の匂いが混じり始めた。耳に返る響きも長くなる。狭い通路の先に広い空間があるらしい。響兎は歩幅を速めかけ、途中で立ち止まった。頭上を確かめてから跳ぶ。先ほどの耳の一件は、どうやら無駄ではなかったようだ。
やがて通路が途切れ、目の前に青白い光が広がった。
巨大な地下湖だった。
天井は遠く、無数の鍾乳石が暗がりから垂れ下がっている。岩肌の淡い光が水面に映り、揺れるたびに湖全体がゆっくり呼吸しているように見えた。向こう岸は薄い靄の奥に霞んでいる。足元の岩棚は右の壁に沿って湖岸へ下り、左には冷たそうな水が果てしなく続いていた。
地上の森しか知らなかった小さな兎には、その景色を言い表す言葉がない。そもそも地下湖というものを知らない。
ただし一つだけ、迷うことなく理解したものがあった。
草である。
岸辺には柔らかそうな若葉が帯のように茂っていた。水の光を受けて瑞々しく見える葉もある。なかなか壮大な景色なのに、真っ先に評価されたのが食べられる植物というのは少し気の毒な話だ。湖も鍾乳石も、頑張って綺麗にしているわけではないだろうが。
響兎は岩棚を下り、右手の壁に沿って広がる草地へ入った。左側は湖で、前方には高さの違う三本の石柱が立っている。その向こうにも乾いた岩道が続いていたが、今はどうでもよかった。
目の前の葉を噛むと甘い汁が広がる。しゃく、しゃく。柔らかい。うん、これはいい。思わずこちらまで味を想像してしまう。いや、さすがに草を奪い合うつもりはないが。
響兎は一枚を食べ終わる前に隣の葉へ口を伸ばした。さらにその隣へ。六日間それなりに食べていたはずなのに、新しい場所の新しい草はまた別らしい。
そんな幸福な食事の最中、頭上から細い音が落ちてきた。ちちっ。ち、ちちちっ。
葉を噛む口が止まる。水滴とも小石とも違う音だった。耳を立てた響兎の前を黒い影が横切り、青い水面の上で急に向きを変える。二つに広がった薄いものが光を遮り、そのまま天井の暗がりへ消えた。続いて別の影が二つ。三体は鍾乳石の間を飛び回り、ときどき水面近くまで下りてくる。
《鳴洞蝠》である。煤色の毛に覆われた胴体と広い膜翼を持つ、洞窟の湖岸に棲む蝙蝠型の魔獣だ。短い高音の反響で岩や獲物の位置を捉え、飛び回る虫や水辺の小動物を狙う。翼を広げれば小さな兎をすっぽり隠せるほどで、三体が近くを飛べば逃げ道はずいぶん狭くなる。
ちなみに、彼らに悪気があるわけではない。餌を探して飛んでいるだけだ。そして兎も餌を食べているだけである。問題は、三体が考えている「餌」の方に兎が含まれていることだった。
食事をする側だったはずが、知らぬ間に食事にされる側へ回っている。迷宮の食卓は席替えが早い。
響兎が最初の一体へ顔を向けたとき、影が翼を畳んで落ちてきた。身体の両脇に冷たい風が流れる。響兎は反射的に身を縮めて右へ跳んだ。鋭い爪が直前までいた場所の草を引き裂き、黒い翼が鼻先をかすめて湖の方へ抜けていく。
小鬼の棍棒とは違う。振り上げる手も、踏み出す足も見えない。頭上にいた相手が次の瞬間にはすぐそこにいる。遅れて届いた羽ばたきに響兎の耳が震えた。
着地してすぐ右手の岩壁へ寄ろうとしたが、二体目が前方の空間を横切った。高い声が石柱に当たって跳ね返り、さらに湖面から別の響きが返ってくる。左右の耳へ似た音が幾重にも重なり、どの影が近いのか分からなくなった。
せっかくよく聞こえる耳になったというのに、聞こえるものが多すぎる。世の中、便利なものほど使いどころが難しいらしい。とはいえ耳栓を作る手も、静かな部屋へ帰る家も、この兎にはない。今あるのは四本の脚と、目の前の岩ばかりである。
二体目が壁側から迫った。響兎は跳び上がろうとして頭上の張り出しに気づき、前脚を滑らせるようにして低く身を伏せた。爪がすぐ上を通り過ぎる。飛び退いた先へ三体目が回り込み、細い鳴き声とともに湖側から接近した。
三体が人間のように相談しているわけではない。一体が獲物を動かせば別の一体がその動きへ反応する。洞窟で繰り返してきた狩りが、自然にこうした連動を生んでいた。息を合わせた覚えはなくても、獲物の方はたまったものではない。
響兎は三本の石柱のうち最も手前の柱へ駆け込んだ。右には岩壁があり、左は湖岸へ開けている。柱の裏なら頭上から直接爪を落とされにくいが、そこに閉じこもれば先へ進めない。背後では一体目が旋回を終え、もう一度近づいてくる羽音がした。
高い鳴き声が短く張りつめた。《脈鳴》だ。音属性の魔力を声に乗せ、反射をはっきり拾うための魔法である。耳のよい兎をひるませることはあっても、それ自体が相手を吹き飛ばす攻撃ではない。
石柱の陰にいた響兎は耳の奥を刺すような響きに身体を固くした。その一方で、声を放った鳴洞蝠も思いどおりにはいかなかった。柱と岩壁が近く、湖面からの反射まで重なる。石の影へ降りた個体は進路をわずかに誤り、翼端を岩に擦りつけた。鋭く身をひねって飛び直したものの、薄い膜には傷が残った。
響兎は柱の根元で腹を地面につけた。上で鳴く相手を見失わないよう片耳を立て、もう片方を伏せる。音だけを追えば惑わされる。ならば見えるところまで待つしかない。
水側から来る影に気づくと、兎は左へ身体を半分だけ出してすぐ引っ込めた。鳴洞蝠は動いた獲物を追って高度を落とし、柱の横へ翼を畳んで滑り込む。爪が伸びる。だが兎の身体はもう陰に戻っていた。勢いを殺すために翼を広げようとしても、右には石柱、左には低い岩の縁が迫っている。鳴洞蝠の身体が傾いた。
響兎はそこで動いた。柱の陰から滑り出して相手の腹の下へ潜り、前脚を岩床につけたまま後ろ脚を強く縮める。次の瞬間には《跳躍》で鍛えた踏み切りが《蹴撃》の一撃へつながり、伸びきった両脚が魔獣の胸の下を打った。
飛んできた勢いと蹴りの向きがぶつかった。鳴洞蝠の背が低い岩の張り出しへ叩きつけられ、翼が開ききらないまま水際へ転がり落ちる。浅瀬に大きな飛沫が上がった。濡れた膜翼を持ち上げようとしても、片方が岩に引っかかる。魔獣は短く鳴きながら水を掻いたが、すぐには飛び立てなかった。
響兎は柱の裏へ戻り、荒い息をついた。後ろ脚の先には確かな手応えが残っている。しかし勝ち誇る暇などない。二体目が柱の上へ回り込み、ほとんど真上から爪を向けてきた。
先ほどと同じ場所へ誘い込める相手ではなかった。響兎は跳び上がりかけた身体を押さえ、柱の右側にある岩壁との狭い割れ目へ飛び込んだ。兎の身体は通るが、一メートル以上の翼を持つ相手がそのまま突っ込める幅ではない。鳴洞蝠は直前で羽ばたきを強め、急降下をやめて上へ抜けた。
やり過ごした、と思う間もなく割れ目の先で三体目の鳴き声がした。細道は少し下って湖岸へ抜けている。その出口の上を、残った個体が小さく旋回していた。前へ出れば爪が来る。後ろへ戻れば、もう一体が柱の上を飛んでいる。
響兎は狭い石の間で身を伏せた。こちらからは相手の姿が見えず、鳴き声も壁に跳ね返っている。焦って飛び出せば着地点を読まれるだろう。小鬼に棍棒で打たれたときと同じだ。勢いだけで跳べば相手の望む場所へ行ってしまう。
兎は耳を動かし、出口から戻ってくる風を感じた。前脚の先で乾いた石を探り、その奥に小さな段差があることを確かめる。出口側の魔獣が旋回するたび、水際の浅い水たまりがかすかに揺れた。
しばらく動かないまま待ったあと、響兎は後ろ脚で岩を一度叩いた。
こつん。
細い割れ目を抜けていく音に三体目が反応した。顔を向けたのが石の隙間から見えた。響兎がもう一度地面を蹴ると、魔獣は出口へ高度を下げた。
来る。
響兎は出口の低い段差を蹴って飛び出した。ただし開けた草地へまっすぐ跳んだのではない。壁沿いへ身体を滑らせたため、追ってきた鳴洞蝠は岩を避けようと片翼を強く畳まなければならなかった。爪を伸ばしても届かず、翼を広げて減速するにも壁が近すぎる。
兎は前脚を石につき、身体をひねって相手の横へ尻を向けた。後ろ脚が伸びる。蹴りは胸を外れたが、翼の付け根を捉えた。魔獣の身体が壁へ押され、広がりかけた膜翼が粗い岩肌を擦る。薄い膜が裂け、鳴洞蝠は甲高い声を上げた。
それでも地面へ落ちることはなかった。片翼を庇いながら必死に羽ばたき、湖の上へ高度を逃がしていく。もう急降下を仕掛けられる飛び方ではない。
響兎も無傷で済んだのは幸運だった。蹴りの反動で身体が壁へ寄り、前脚を滑らせて腹を岩に擦りつける。それでも落ち着いて着地し、すぐ石柱の陰へ退いた。右肩に痛みはない。脚にも怪我はない。ただ息が苦しいほど速くなっていた。
残る一体はまだ飛べる。しかも無傷に近い。その影は石柱の上で旋回を続けた。響兎が草地へ顔を出すと高度を落とし、岩陰へ戻れば距離を取る。何度か《脈鳴》の短い声が返ってきたが、無理に狭い場所へ突っ込んではこなかった。
水際では落ちた個体が濡れた翼を引きずって石へ上がろうとしている。もう一体は傷ついた膜を庇い、離れた岩棚へ向かっていた。最後の一体はそれらの動きを見てから、少しずつ旋回の輪を広げ始めた。
小さな兎一羽を捕らえるために、さらに翼を傷める必要があるだろうか。
答えは長くかからなかった。鳴洞蝠は最後に細く鳴くと、湖の奥へ飛び去っていった。負傷した仲間もそれぞれ安全な足場を目指し、兎のいる草地へは戻ってこなかった。
狩りは終わった。
響兎はしばらく石柱の裏で息を整えた。遠くの羽音が小さくなり、湖面の揺れが静まるまで外へ出ない。耳がよくても空中の敵を何でも察知できるわけではないし、一度勝ったからといって次も勝てるとは限らない。今回の兎はそれを身体で知っていた。
それでも前脚を踏み出したとき、耳は少しだけ高く立っていた。小鬼に続いて、空から来る敵も退けた。追い払うために蹴った脚には今も手応えが残る。怖かった。何度も逃げたかった。それなのに相手が思いどおりのところへ来て、こちらの脚が当たった瞬間はたしかに嬉しかった。
なんとも困った変化である。食い意地に加えて負けず嫌いまで育ってきたらしい。大迷宮の小さな住人には少々手に余る性格かもしれないが、相手に手も足も出せないよりはずっといい。
そして兎は、勝利の喜びを一通り味わうと草地へ戻った。よく頑張った。さあ、少し休んで――と見守る間もなく、もう葉を噛んでいる。
しゃく。しゃくしゃく。
自分を食べようとした相手がいなくなったのだから、自分が食べる番というわけだ。理屈としては分からなくもない。ただ、せめて周囲を見てから食べてもよさそうである。
響兎は葉を一枚引きちぎったところで頭上を影が横切るのを見て、反射的に伏せた。耳を立てて待つ。何も降りてこない。水面の光が揺れただけだった。警戒は忘れていない。それを確かめて少し安心したところで、兎は再び草を食べ始めた。
草への執念も、忘れていない。
腹が落ち着いたころ、響兎は湖の向こうを見た。靄の奥にはこちらと違う色の草が茂り、そのさらに先には太い石柱がいくつも並んでいる。天井から下がる鍾乳石と違い、どれも地面から伸びていた。似たような間隔で立つ柱の影が水へ長く落ちている。
誰かが並べたものなのか、たまたま自然がそう作ったのか。そんなことを考える者はこの場にはいない。
響兎の視線が捉えていたのは柱の根元の草だった。遠い。とても遠い。それでも薄青い光の中で揺れる長い葉は、さっき食べたものより柔らかそうに見えた。
なんということだろう。あれほど広い湖を前にして、兎はまだ食べ物のことを考えている。
もちろん泳いで渡れる距離ではない。響兎も水へ飛び込まず、湖岸を右手の壁沿いに歩き始めた。石柱を過ぎれば道はまだ続いている。どこかで向こう岸へ行けるかもしれないし、途中にもっと美味しい草があるかもしれない。
頭上から小さな鳴き声が響いた。兎はすぐに立ち止まって耳を動かす。水の音と羽ばたきの音を聞き分け、影がこちらへ下りてこないのを確かめてから歩き出した。
怖いものがなくなったわけではない。あの翼がもう一度襲ってくれば、やはり身体は縮むだろう。けれど今は、走って逃げる以外の方法も一つ知っている。
響兎は次の岩へ跳び移った。その先に何がいるかはまだ知らない。知らないものだらけの大迷宮で、小さな兎が確実に理解していることはそう多くなかった。
だが一つだけ、なかなか揺るがない確信がある。
向こう岸の草は、きっと美味しい。
……そこだけは、どうしてそんなに自信満々なのだろう。




